甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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平成10年 4月12日

甲飛十三期殉國之碑 第 二十五回慰霊大祭

祭典委員長 祭文

 

祭典委員長 和多田昭三

時は過ぎ日は巡って桜花爛漫の春、ここ橿原の聖地に第二十五回慰霊大祭を迎え、同期生の代表として

一千余柱の英霊に謹しんで申し上げます。

 

憶えは戦雲迫る皇紀二千六百年此の橿原神宮に記念拡張工事があり、学窓より建国勤労奉仕に参加しました。

それが昨日のように思い出されます。

トラ・トラ・トラの第一報に始まる大東亜戦争、緒戦の勝ち戦より次第に劣勢に追いやられた、昭和十八年秋、

国家存亡の危機を感じとった我々は列強の植民地政策より亜細亜の民を解放し、八紘一宇、大東亜共栄圏の建設を

実現せんと、此の戦いに参加しました。

職として此の道を選んだにあらず、年至りて召されたにあらず、今立たずんば日本男子の本懐にあらずと、

すべての絆を断ち切って入隊したのであります。

其の数二万八千余名、名は飛行機搭乗員と言うも時既に遅く、海鷲ととなる道は狭く、逼迫せる戦局に航空機は言うに

及ばず、あらゆる特攻兵器の要員として、十三期生はまさに帝国海軍最後の栄光を担うべき主力として

水中、水上、大空に七生報国を誓って戦いました。

 

桜花咲いて散るこそ雄々しけれ

 

蕾のままに果てるぞ口惜しと、特攻戦死の場を得て散華されし諸兄と、即、戦力の短期育成を期する猛訓練中に、

或いは転進移動中に、又病魔におかされ志し半ばにして無念の命ちを散らした兄等の心情を察する時、

胸の奥に激しい痛みをおぼえます。残った桜も散る桜と九段での再会を約したまゝ終戦を迎えました。

同じ死線の中から生きのぴた私は屈辱の捕虜生活、より昭和二十二年四月独立戦争真っ只中のインドネシヤジャワ島より

復員しました。

廃墟の焼け跡に立ち、兄等の期待に応えるには、祖国復興より無いと額に汗して働きました。

衣食足りて日本の未来にほのかを明るさが見え始めた時、思い出すのは紅顔の凛々しい兄等の若武者姿でした。

生存同期の連絡も漸くとれ、隊別、地区別等の同期会が結成され其の力を結集して、昭和四十八年十一月十八日

此の地に殉国之碑が建立されました。

かくして日本の高度成長の原動力となって、各自の分野で頑張ってきた私達も荒廃と貧困からの脱却に夢中になり、

バブルが崩壊し経済不況金融不安から、明日も見えない局面が到来するとは予想もしませんでした。

終戦を機に日本人の価値観は百八十度転換しました。戦後民主主義と言う大和魂を抜き取る占領政策に服従し、

ほんとうの自由と言うものを履き違え、義務を果さず権利だけを主張する世代が育ち、経済大国と言う虚名のもと

政財官民こぞって私利私欲に走り、まさに我が国は沈没寸前の様相を呈しています。

為政者は国外に出ればまっ先に大きな花束を捧げて無名戦士の墓に詣でるが、靖国神社には参拝せず。

明治以降の先人等の偉業を悪と断定して、謝罪外交に西に東に頭を下げ歩く、マスコミや進歩的文化人と称する輩は、

過去の失点のみを数えあげ、日本敗れたりと言えども植民地の多くが自由と独立を勝ち得た事を述べず。

兄等は此のような日本の為に命を捨てたのかと断腸の思ひと共に、生き残った私達の責務を痛感するものであります。

願わくば在天同期の英霊よ、私達は既に古稀を迎えた、熟年となりましたが、生ある限り子々孫々に至る迄、

兄等の偉勲を語り継ぎその純粋にして無垢、崇高にして犠牲的なる、これぞ祖宗より伝えられし誇り高き普遍の大和魂

であると伝える事を誓ひ、未だ二十才に充たぬ紅顔のまゝ散華された、兄等の眠り永久に安かれと念じて

此処に慰霊の言葉を捧げます。

 

朗読された遺書

更新日:2007/11/04