海軍兵学校第七十三期 英霊譜( 艦船)

マニラ海軍防衛隊

 

昭和20年 1月10日

  阿部  啓一

  駆逐艦「早霜」に乗組

  昭和19年10月26日にスルワン海で至近弾を受け航行不能

  応急修理で小無人島に投錨

  その後乗員の一部と共にカッター二隻でミンドロ島に渡る

  陸戦にて玉砕・戦死したものと推定

 

昭和20年 2月10日

  伴   善久

   巡洋艦「木曽」に乗組

  昭和19年11月13日、マニラ湾にて米空母艦載機の空襲により沈没

  マニラ防衛隊に編入

  切り込みにを敢行するも敵の警戒線に引っ掛かり手榴弾攻撃により戦死

 

 

昭和20年 2月  日

  黒石  民平

  航空母艦「瑞鶴」機銃分隊士

  昭和19年10月25日レイテ沖で沈没、駆逐艦「若月」に救助され、そのまま「若月」に配属

  昭和19年11月11日、「若月」がオルモック湾で沈没、海中へ脱出しレイテ島に泳ぎ着く

  マニラ防衛隊に編入

  2月13日、米軍に対する総攻撃開始、23日までの戦闘で戦死したと思われるが詳細は不明

 

昭和20年 2月20日

  佐々木 基

  第二復員局通知

  昭和二十年二月三日より海軍防衛部隊一大隊二中隊一小隊長としてマニラ市街戦に参加

  岩淵司令官の戦闘司令部を中心として半数の生存者を率ひ勇戦敢闘

  僅かに海岸地区に到る狭少地帯を確保しありたるも二月二十日戦死

  絶筆  人知れず国の基と我ならん 死際清き山桜花

 

昭和20年 2月22日

  平本  案登

  駆逐艦「夕月」に乗組

  昭和19年12月12日、比セブ島沖にて敵艦載機の攻撃を受け沈没

  マニラ防衛隊に編入 、第二大隊・第五中隊・第一小隊長

  マニラ市街の陸戦にて戦死

  マニラ防衛隊で部下だった方(駆逐艦長波乗組) の回想

               「食料不足の中、平本小隊長が部下に握り飯を分け ていた。立派な隊長だった」

 

昭和20年 4月 3日

  若山  宣久

  戦艦「榛名」に乗組

  マニラ防衛隊に編入

  ガバリオ島にて米空母艦載機の攻撃を受け戦死

 

 

 

昭和20年 8月 4日

  土屋  幸次

  駆逐艦「若月」に乗組

  昭和19年11月11日、「若月」がオルモック湾で沈没、海中へ脱出しレイテ島に泳ぎ着く

  マニラ防衛隊に編入、南西方面艦隊司令部付

                連合通信隊 モンタルバン派遣隊 振武司令部付

  戦死の詳しい状況は不明

               ご母堂は長い病床に有り「幸ちゃんのところへ行きたい」と口癖のように言われていたという

 

 

比島観音

愛知県幡豆郡幡豆町 三ヶ根山

    

比島観音                      比島方面海軍戦没者之碑

比島観音

この比島観音は 遥か南西三〇〇〇キロ 比国の島々を凝視され 比島方面戦没者五〇余萬柱の

御霊を慰めておられます。

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

    

比島海軍戦没者招魂碑

碑文

十九四四年一〇月二〇日 約二十万の米軍が比島フィリピンのレイテ島に上陸しここに苛烈な比島攻防

の火蓋が切られました 我が連合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も艦艇航空機多数

を喪失し惨敗を喫しました

爾後 米軍は比島各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と協同して善戦力闘しましたが圧倒的な

火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し  当方のそれは無に等しく各部隊とも止む

無く山中に立て籠って遊激戦に転じました

撃つに弾丸無く生命の糧の塩も尽き 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の

急追と風土病や栄養失調で次々と弊れ 万斛の涙を飲んで異境の土と化したのであります

此の碑は 遺族戦友相計り 比島海軍関係全ての戦没者(外国人も含む)約十万の御霊を永遠にお祀り

するため建立されました

比島海軍招魂会

 

ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します 太平洋戦争にて散華した比島海軍部隊の

戦没者及び海軍と運命を共にした日本人 韓国人 中国人 比島人戦没者の御霊よ やすらかに眠り給え

一九八〇年八月建立

 

海兵73期

更新日:2009/05/05