海兵73期 松井一彦
「戦艦大和ノ最期」の真実
実施部隊略歴
第21駆逐隊付、駆逐艦「初霜」、大浦突撃隊(蛟龍)
平成17年 6月20日付 産経新聞
吉田満著書 乗組員救助の記述
戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
救助艇指揮官「事実無根」
戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和
ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)った
と書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝
日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として
“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。
『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的
に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基
づいて書き残した戦記文学。
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯と
なり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払
ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述して
いた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいた
が、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話で
あっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。
その理由として
(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない .
(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない .
(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった
−と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりに
も事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するか
どうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。
松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当
時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたた
め、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。
戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史
実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が
行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との
説が有力になっている。
松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な
例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。
松井さんは、大和沈没後、より危険な特殊潜航艇への乗船を志願し、同艇長で終戦を迎えた。戦後は
東大に入学し直し、司法試験に合格、弁護士として活躍してきた。
今回の証言について「戦中戦後の出来事を否定するあまり、当時の人間性まで歪められて伝えられる
ことが多い。本当にそうなのか、考え直すきっかけになれば」と話している。
松井さん「爆沈・・・今もまぶたに」
バーンという大音響、舞い上がる火柱、空中に吹き飛ぶ将兵ら・・・。駆逐艦初霜の通信士、松井一彦さ
ん(80)か゛目の当たりにした戦艦大和の最期は、壮絶なものだった。一瞬にして三千人の命が道連れ
になった光景は、「今もまぶたに焼きついて離れない」という。松井さんは昭和十九年九月、海軍中尉で
初霜に乗り組み、二十年四月六日、大和とともに沖縄突入作戦に出撃した。しかし、七日午後零時四十
一分、米軍機が攻撃をしかけ、二時間にわたる死闘が展開された。
戦闘中、初霜は大和の右斜め後方千五百メートルの位置で護衛に努め、甲板上の松井さんは、戦闘の
一部始終を悲痛な思いで見つめていた。雲の切れ間から米軍機がパッ、パッと現れ、「雲の中に敵機が
充満しているようだった」と振り返る。
大和の周囲にいた駆逐艦などが魚雷や直撃弾で相次いで沈没するなか、大和は十本前後の魚雷と四
発の直撃弾を受けても航行を続け、「不沈戦艦の名に恥じない威容だった」。しかし、午後二時ごろから、
左にの傾斜が激しくなった。
最期が近づいていることは誰の目にも明らかだった。敵機も攻撃の手を緩め、上空で様子をうかがって
いる状況。そんななか、雷撃機がすうっと下りてきてとどめの魚雷を放った。
左舷に水柱が上がった。大和はほとんど横倒しになり、赤い船腹の上に無数の将兵がはい上がるのが
見えた。その時、大爆発が起こり、将兵らが吹き飛んだ。爆風は松井さんにも届き、顔面に強烈な熱気
を感じた。
松井さんは連合艦隊司令部に
「大和、更ニ雷撃ヲ受ケ、一四二三左ニ四五度傾斜シテ誘爆、瞬時ニシテ沈没ス」
と電報を打った。乗員3,332人中、救い出されたのはわずか276人だった。
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当ページをアップ後、吉田 満氏のご子息・吉田 望様よりご自身のサイトのご紹介を受けました。
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更新日:2006/01/01