久家 稔

海軍大尉

略歴

大正12年 4月11日 大阪府出身

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和19年12月30日 予備 4期(大阪商科大学)

昭和19年12月30日 金剛隊として出撃(伊53、大津島)

昭和19年12月30日 回天の故障により帰投

昭和20年 4月22日 天武隊として出撃(伊36、大津島)

昭和19年12月30日 出撃の機会を得ず帰投

昭和20年 6月 4日 轟隊として出撃(伊36、大津島)

昭和20年 6月28日 マリアナ海域にて戦死(享年22歳)

 

 

 

轟隊(伊36)

米駆逐艦「カプロストン」が伊36潜の潜望鏡をめがけて突進してきた。執拗な爆雷攻撃が絶え間なく続き、

伊36潜は絶体絶命の窮地に追い込まれた。

久家少尉は、自分艇は電動縦舵機と電話機の故障により使用不能となっていたにも係わらず、艦長に繰り

返し発進を要請し館長も遂に要望を受け入れた。

久家少尉は深々度にあった母艦から発進、手動で縦舵機を操作しながら敵艦に突撃を始めた。攻撃は功を

奏し伊36潜は傷つきながらも無事生還できた。

久家少尉は我が身を捨てて断末魔の母艦を護ったのである。

 

至誠の愛

俺等は、俺等の親を、兄弟を、姉妹を愛し、同胞を愛する故に、彼等を安泰に置かんがためには、自己をも

犠牲にせねばならぬ。祖国破るれば、親も同胞も安らかに生きてゆこことは出来ぬのだ。我等の屍によって

祖国が勝てるなら満足ではないか。

 

突撃直前の書き置き

基地隊の皆様へ、艇の故障でまた三人が帰ります。いっしょにと思い仲良くしてきた六人のうち、私たちだけ

三人が先に行くことは私たちとしても淋しいかぎりです。みなさんお願いします。園田、横田、野村みなはじめ

てではないのです。二度目、三度目の帰還です。この三人だけはすぐまた出撃させてください。最後にはちゃ

んとした魚雷に乗ってぶつかるために涙を呑んで帰るのですから、どうかあたたかくむかえてください。

お願いします。先にゆく私に、このことだけがただひとつの心配ごとなのです。

 

鉢ケ峯公園墓地

大阪府堺市

讃行院釈唯敬         久家 稔海軍大尉墓碑

 

回天特攻隊

更新日:2006/01/01