滋賀丸事件

 

滋賀丸は明治39年に建造された老朽船で、高知−阪神の貨客輸送に当たっていた。昭和19年5月30日

午前4時、高知港を出、9時すぎ、三津椎名の境である日沖の沖1500メートルの所を航行中、敵潜水艦

の魚雷攻撃を受けて、大きな爆音と水煙とともに、海中に没した。目撃者も多かったが、「船の向こうに大き

な水柱がたちのぼり、それが消えた時には船の姿がなかった」という。

乗員52人、乗客は約140人ぐらいだったというが、助かったのは40人ぐらいである。

滋賀丸を撃沈した米潜水艦は撃沈の日、作戦行動で豊後水道から紀伊水道に移動する途中であった。そこ

で偶然に滋賀丸を発見、攻撃態勢に入った。米潜水鑑は半時間かけて滋賀丸に接近。約千四百メートルの

距離から三発、魚雷を発射、そのうち一発が命中。滋賀丸は逃げる間もなく轟沈したが反撃はなかった。

米潜水艦の船長によれば「軍隊をのせた船とばかりに思っていた」ということである。

 

日沖海岸

高知県室戸市

滋賀丸遭難者慰霊碑

案内板

昭和十九年五月三十日、この沖合約千五百米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船、滋賀丸約九百トン

は、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。

当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰める

べく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、

眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。

平成十四年五月三十日  室戸ライオンズクラブ

 

滋賀丸遭難者慰霊碑

 

本土決戦

更新日:2009/12/13