紀伊防備隊

 

 

紀伊防備隊の概要

昭和12年7月26日海軍大臣より海軍呉鎮守府司令に対し、「由良内防備隊前進基地新設工事

施行命令」が出され、昭和14年11月11日『大日本帝國海軍紀伊防備隊』として正式に発足。

主な任務は紀伊水道の海面防備で、小松原海軍航空隊より水上偵察機16機が常時配備されて

いたが、艦艇の大半はは徴用された漁船だった。

 

海軍第三十号海防艦

第三十号海防艦

昭和19年6月26日、三井造船工業長崎造船所で竣工、佐世保鎮守府所属となり呉防備隊に編入。

戦況の悪化にともない、大阪警備府海面防備隊に編入され紀伊防備隊所属となる。

昭和20年6月1日、本土決戦に備え第六特攻戦隊に編入。

 

昭和20年7月28日

2午前8時、糸谷海岸付近で警戒停泊中に敵艦載機グラマンの第一波が来襲したが、対空砲火で

近寄れず投下弾は一発も命中しないまま引き上げた。

午前9時過ぎ、第二波攻撃により艦橋付近に25キロ爆弾4発を被弾炎上、艦橋要員のほとんどが

艦外に吹き飛ばされ楠見艦長も戦死。

由良町糸谷区住民の協力も得て、誘爆を避けるための爆雷の陸揚作業と負傷者の救護とを平行

して行ったが、火災は収まらず午後11時に沈没。

戦死66名、戦傷51名。

 

由良港

和歌山県日高郡由良町

海防艦第三十号慰霊碑の由来碑/由良湾

碑文

昭和二十年夏、第二次世界大戦もいよいよ末期となり、本土主要都市は敵機の空襲により焦土

と化しつつあった。

海防艦第三十号(艦長楠見中佐以下185名乗艦)は この先約百メートル宮の鼻海岸沖合い約

二十メートルの海面に繋留し 決死の覚悟で敵機の来襲に備えていた

折しも七月二十八日午前九時敵グラマン艦上機が来襲、同艦は由良海上基地および由良町の

被害を食いとめんと孤軍奮闘し、みずからは敵機の攻撃目標となって終日数回にわたり、延べ実

に八十数機の攻撃を受け、全艦火の玉となって力闘したりも執拗な敵の波状攻撃に抗し切れず

マスト折れ、艦橋飛び、弾つきてついに大火災をおこし沈没した。

この戦闘において艦長以下六十六名は壮烈なる戦死をとげ、その他の将兵もことごとく重軽傷を

負った。また海岸一帯および付近民家十数戸も破壊され、まさに筆舌に尽くし難い惨状であった。

護國の神と散った戦死者の遺体は戦友達の愛惜の涙のうちに興國寺において手厚く仮埋葬され

た。ここに祖国の平和と繁栄を信じ勇戦奮闘、鬼神も泣く壮烈なる最後を遂げた六十六勇士の

護國の精神を讃えて、波静かなるこのゆかりの地に碑を建て、御霊魂永遠に安かれとその冥福

を祈るものである。

 

紀伊防備隊鎮魂碑      海防艦戦死者供養塔

紀伊防備隊鎮魂碑 碑文

この碑は 旧海軍紀伊防備隊の隊員で 大東亜戦争において その生命を祖国に捧げた者 及び戦後

日本の復興に努め この世を去った者すべての隊員の霊を慰めるために 紀伊防会会員の献金により

建立した

 

海防艦戦死者供養塔 碑文

昭和二十年七月二十八日 字宮ノ鼻海岸に於いて海軍第三十号海防艦沈没 九十八名戦死

(碑文によって戦死者の人数に相違があるが、ここでは碑文のママ記載)

 

戦死者命名塔

碑文

水漬く屍と散華せし み霊の命名石に刻み 功を讃える供養塔

 

興国禅寺

和歌山県日高郡由良町

  

戦死者の遺体が仮埋葬された興国禅寺

 

海上自衛隊 由良分遣隊

和歌山県日高郡由良町

  

 

本土決戦

更新日:2004/08/07