阿波丸事件

 

昭和20年 4月 1日、シンガポールから日本へ向け航行中の貨客船「阿波丸」が、米潜

「クイーンフィッシュ」により撃沈され、2,000人以上の乗船者の殆どが死亡した。

 

「阿波丸」は、米国および連合国側の要請により、日本の占領下で捕虜・抑留されている

および連合国軍捕虜と市民16万5千人に赤十字の救援物資を運搬するという特殊任務を帯

びており、連合国側から往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」だった。日本

と東南アジアを結ぶ航路は潜水艦の通商破壊により極めて危険な状況だったが「阿波丸」

は病院船に準じた保護が約束された。

 

軍隊輸送船状態だった「阿波丸」は武装が撤去され、船体は迷彩塗装から灰白色へ塗り替え

られ、舷側・煙突・甲板2ヶ所には緑十字の識別マークが描かれ夜間には煙突に照明が灯さ

れた。

米軍は「阿波丸」の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令されていた。

昭和20年 4月 1日 午後10時頃、「阿波丸」は沖縄戦の影響を避けるため予定針路

を変更し台湾海峡に進入、平潭県牛山島付近を航行中に米潜水艦「クイーンフィッシュ」に

レーダーで探知され、「クイーンフィッシュ」は潜望鏡での目視確認を行わずレーダー照準

で攻撃を開始。およそ50秒後に「阿波丸」へ魚雷3本(4本説有り)が命中、一瞬で沈没

した。

約10分後に戦果確認のため浮上した「クイーンフィッシュ」は無数の人が漂流物に混じり

泳いでいるのを発見し船員1人を収容したが2,000人以上の乗船者の殆どが死亡した。

「クイーンフィッシュ」の報告では、他の漂流者は救助を拒んだとされている。

 

攻撃の理由

「阿波丸」への軍需物資積載を確認した米太平洋潜水艦隊は、阿波丸を正当な攻撃目標とし

て攻撃許可を要請している。攻撃禁止命令がすぐに下されていたが、通信の遅れなどの原因

が重なり「クイーンフィッシュ」は阿波丸に対する攻撃を敢行し撃沈してしまった。

「クイーンフィッシュ」の艦長は、軍法会議で有罪判決(戒告処分)を受けている。

 

「阿波丸」は往路で航空機・自動車の予備部品や弾薬など600トンの軍需物資が積み込ま

れた。軍事利用は協定違反だったが、日本軍により軍需物資の積み込みが決定された。

帰路でも日本軍は軍事輸送への利用を計画、船長は反対したが軍の要求に押し切られた。

米軍は暗号解読で日本側の工作を知り、航空偵察で「阿波丸」が物資を積んで喫水が深くな

った状態であることも把握していた。

米側は軍事利用を知りつつ、攻撃した場合の捕虜に対する日本軍の報復を憂慮し「阿波丸」

への攻撃を許可していなかった。

 

抗議と補償

日本政府は撃沈直後から戦時国際法違反として抗議し、米政府もこれを受け入責任を認めた

上で賠償問題について終戦後に改めて交渉を行なうことを提案した。

戦後、日本側から「阿波丸」の代船提供と賠償金要求等の賠償請求が出され、米政府も当初

は応じる方針だったが、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーが賠償を強く拒否。

米政府は代案として日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を18億ドルから4億9

千万ドルへ引き下げる代わりに、「阿波丸」の賠償請求権を放棄するよう求め、日本政府も

これを了承、昭和24年に国会は阿波丸への賠償請求権を放棄し日本政府がアメリカに代わ

って賠償を行う旨を決定した。

昭和25年、国会で「阿波丸事件の見舞金に関する法律が成立、死亡者1人あたり7万円

の見舞金を遺族へ支給、船主の日本郵船には1,784万円が支給された。

 

慰霊

台湾海峡の海底深く沈んだ「阿波丸」は、中国政府が昭和52年から極秘に引揚げ作業に取

り組み、昭和54年7月・昭和55年1月・昭和56年5月の3回に亘り、遺骨368柱・

遺品1683点を日本に返還している。

 

遺骨は東京・港区の増上寺境内の阿波丸殉難者合同慰霊碑と、奈良市紀寺町のl珹寺境内の

阿波丸慰霊塔に分骨された。

 

増上寺

東京都港区

阿波丸事件殉難者之碑

碑文

阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイ

ン・フィッシュ号に不法撃沈された。

同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人

に對する救恤品の輸送に当っていた。

国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者

の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。

加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、

軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議

として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私た

ちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ

解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。三十三回忌に当り、悲

憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。

昭和52年4月1日 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

 

納骨

犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡され

た。

阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。

遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関

係者に対し、衷心より感謝をおくる。

昭和54年 7月5日 納骨

昭和55年 4月1日 納骨

昭和56年5月29日 納骨

阿波丸遺族会

 

l珹寺

奈良県奈良市

阿波丸慰霊塔 合掌観世音

由来

太平洋戦争も末期、昭和二十年四月一日台湾海峡におきまして撃沈された緑十字船阿波丸

と共に受難された二千余柱の御供養のため、昭和四十一年十一月六日製作者吉川政治先生

並びに、各方面の方々及び遺族有志により建立されました。

受難の皆様方の御名は、観世音像のお胸の中に納められてございます。

昭和五十四年七月、五十五年一月、五十六年五月、中国政府の並々ならぬ御尽力により、

遺骨をお受けして五月八日遺族立合いの上、納骨されました。

阿波丸遺族つどいの会

 

戦時徴用船    本土決戦

更新日:2013/12/23