抑留者引揚 博 多

 

昭和20年9月4日、博釜連絡船「徳寿丸」が2,764人の引揚者を乗せて入港。博多港での

引揚は、昭和22年4月末まで続いた。

この間、中国東北地区や朝鮮半島より約139万人の人々がこの地に引揚げ、在日の朝鮮人・中

国人など約50万人の人々がここから故国へ帰っていった。

 

博多港

福岡県福岡市博多区

博多港

 

博多港引揚記念碑

碑文

博多港は、今日、海に開かれたアジアの交流拠点都市福岡市の玄関口として、また、世界の主要港

と結ばれた国際港として大きく発展しつつある。

思えば、この博多港は昭和20年の終戦直後、引揚援護港として指定を受け、約1年5か月にわた

り中国東北地区や朝鮮半島などから一般邦人・旧軍人など139万人の人々がこの港に引き揚げ、

また、当時在日の朝鮮人や中国人など50万人の人々がここから故国へ帰っていったのである。

戦後50周年の節目の年にあたり、私たちは、かつて博多港が国内最大の引揚港として果たした役

割を忘れることなく、アジア・太平洋の多くの人々に多大な苦痛を与えた戦争という歴史の教訓に

学び、このような悲惨な体験を二度と繰り返さないよう次の世代の人々に語り継ぎ、永久の平和を

願って、この記念碑を建設するものである。

平成8年(1996年)3月  福岡市長 桑原敬一

 

博多港引揚記念碑 那の津往還

碑文

戦争直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念するモニュメントとして製作しま

した。船の上の本体の朱は、古代から愛されてきた色であり、那の津と呼ばれた来た博多港の希望を

表現したものです。

 

博多港引揚記念碑 那の津往還

 

博多港

 

引揚援護活動

北朝鮮からの引揚者の中には援助や治療が必要な女性や孤児たちが含まれていた。

ソ連兵・現地人等に蹂躙され妊娠していた女性には中絶手術が必要だったが、昭和23年に優生保護法

が成立するまで中絶手術は違法とされていた。

「京城帝国大学」の教授や学生達は朝鮮半島北部からの引揚者の窮状を見るに忍びず、昭和20年10

月に京城(ソウル)で「罹災民救済病院」、列車・船内で診療を行う「移動医療局」(米軍政府公認)

を設置した。

このグループは殆どが昭和20年12月頃に帰国したが、引揚者の治療を続けるため、外務省の外郭団

体に働きかけ「在外同胞援護会救療部」となり、翌21年2月に博多港に近い古刹・聖福寺に本部を置

いた。

京城帝大医学部の医師達が違法な手術を決断したのは、ソ連兵に暴行されて妊娠した教え子の中絶手術

に踏み切ったが、手術は失敗し女性も胎児も死亡した事がきっかけだったという。

暴行による妊娠を苦にした女性の引揚者が、博多港に着きながら海に飛び込んで自殺するという事件も

起きていた。

医師達の提案を受けた博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県二日市温泉の旧愛国婦人会の保養所を借

り上げ、医師たちは医療器具を持ち込み、翌21年3月に女性患者の為の「二日市保養所」を開設した。

ここで強姦によって妊娠させられた女性達には堕胎手術が施され、性病に感染した女性達も匿われて回復

するまで治療が行われた。博多港から交通の便が良く温泉がわいている建物は、医療施設としても好都合

だった。

二日市保養所は昭和22年秋までの約1年半でその役目を終えたが、この間に妊娠中絶・性病治療などを

受けた患者数は400名を超えた。

 

聖福寺は身寄りのない引揚者に寺の本堂を開放し、更に境内の一角を使用して、昭和21年4月には病気

の引揚者や伝染病患者の治療を施す為の医療施設「聖福病院」、同年8月には両親を亡くした幼い子供達

の為の孤児施設「聖福寮」を設立し様々な援護活動を行った。

昭和22年4月4日、博多港の最後の引揚船が入港し「聖福寮」は業務を終えた。

しかし、戦争で夫を失った母子家庭では母親が働きに出ようにも子供を預ける施設が無かった。この窮状

を打開しようとした泉靖一氏らは、同年3月に宿泊託児所「聖福子供療」を新たに開所、身寄りが見つか

らず残っていた引揚孤児や母親が働かねばならない子供達を受け入れた。

 

二日市病院 むさし苑

福岡県筑紫野市

建立趣旨

昭和二十一 二年の頃 博多港には毎日のように満州からの引揚船が入っていた。其の中に不幸にして

ソ連兵に犯されて妊娠している婦女子の多い事を知った旧京城帝國大学医学部関係の医師達は、これら

女性を此処−旧陸軍病院二日市保養所−に連れてきて善処した。この事実を千田夏光氏のルポ『二日市

・堕胎医病院』(晩聲社)で知った私は、堕胎が当時は法律で禁止されていることを知りつつ職を賭し

て行った彼等の人道行為は後世に伝えるべきであると思いこの碑を建てた。そして今は夫々の家郷で平

穏な日々を送っておられるのであろう彼女たちが三十数年を経た今日、この地を訪れて往時の先生や看

護婦さんに感謝の意を伝えたい時、この碑がそのよすがとなればと念じている。

昭和五十六年三月  児島敬三

 

博多引揚援護局・二日市保養所跡 水子地蔵尊

 

京城帝國大学 創立七十五周年記念 植樹

 

聖福寺

福岡県福岡市博多区

博多引揚援護局・聖福病院跡

 

博多引揚援護局・聖福寮跡(現:花ぞの保育園)

 

福岡市市民福祉プラザ

福岡県福岡市中央区

引揚港・博多 常設展示

 

抑留者引揚

更新日:2012/11/25