サイパン島玉砕

 

略史

大東亜戦争の開戦以来、サイパン島には海軍部隊(海軍第五特別根拠地隊)が警備にあたっていたが、昭和18年

9月の「絶対国防圏」策定の頃から防備が強化されることが決定した。

同年10月、第13師団の派遣が決定し翌年1月に先遣隊がサイパン島に到着。2月には第29師団が派遣されること

となり、同師団の第18連隊4,000人が第一次輸送部隊として15日に広島・宇品港を出港したが、29日に米潜水

艦の雷撃により沈没し約2,300人が戦死、救助された1,700余名のうち約600名が重傷をおった。無事に到着し

た第38連隊、第50連隊はサイパン、グアム、テニアンなどへ配備され、その後も諸部隊がサイパンなどマリアナ諸島

に続々と配備されていった。

昭和19年4月、中京地区の防衛防空を主任務としていた第43師団所属の第118連隊、第135連隊、第136連隊に

動員が下令され、第118連隊が同師団の第二次輸送隊として5月末日に出港したが、米潜水艦の雷撃によって輸送

船7隻のうち5隻が沈没、1隻が中破し脱落。2,240名が戦死、救助された1,000名のうち約600名が重傷をおっ

た。結局サイパンに到達できたのはたった1隻だけであった。

6月11日から米軍による空襲が始まり、13日からは艦砲射撃が開始された。15日には7万人余の米軍が上陸を開

始。迎え撃つ日本軍は約4万人。制空・制海権を掌握し圧倒的な火力を持つ米軍に対し、日本の防備体制は資材不

足、部隊の度重なる配備の変更などによって未完成だった。日本軍は水際撃滅作戦をとり激しく抵抗したが、得意と

していた夜襲は照明弾により無力化され、米軍の圧倒的な火力の前にに戦局を挽回できないまま島の北部へ退却を

余儀なくされた。

大本営は、当初米軍の進攻に対抗する絶対の自信を持っていた。しかし制空・制海権がない中での輸送船による兵

員・物資の輸送は困難を極め、海軍は「あ号作戦」を発動しマリアナ海域で米艦隊に決戦を挑んだが、レーダーやVT

信管などの新鋭兵器を備えた米軍の前に大敗を喫した。戦局は悪化の一途をたどり、ついに6月24日になって天皇

に奪回不可能であることを上奏した。この時点でサイパン島は放棄され、それは「絶対国防圏」の崩壊でもあった。

 

南雲忠一海軍中将

 

そして7月6日、第43師団長・斉藤義次陸軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一海軍中将、海軍第五

特別根拠地隊・辻村海軍少将ほかの司令部は「自決」し、翌7日、約3,000名の日本軍は、最後の「万歳突撃」を

敢行して玉砕して果てた。9日、北部のマッピ岬に避難してきた多数の民間人は、断崖から身を躍らせ自決した。

この日、米軍はサイパン島の占領を宣言した。

 

南雲中将 最期の訓示

サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く

協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を

占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、

無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃

下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮す

るを要す、余は残留諸子と共に断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんと

す。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。

 

その後、米軍はサイパン島の飛行場を整備する一方でテニアン島などを占領。そしてその年の11月24日、サイパン

島アスリート飛行場から飛び立ったB29が東京を空襲、以後マリアナ基地群に配備されたB29の大部隊による本土空

襲が激化していった。このマリアナ地域の失陥により、日本にとっては絶望的な抗戦の時期に入っていったのである。

11月2日、浜松航空基地から飛び立った九七式重爆撃機9機が途中硫黄島を経由してサイパンの米軍基地を攻撃し

た。米軍の被害は軽微であったが精神的なダメージは大きかったという。なお帰投できた日本機は2機だけであった。

 

マッピ岬

北マリアナ諸島 サイパン島

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡

 

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡

 

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡

 

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡  短20センチ砲

 

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡  十年式12センチ高角砲(右)

 

パナデロ 大日本帝国最後の司令部跡  九五式軽戦車

 

バンザイ・クリフ

 

スーサイド・クリフ

「生きて虜囚の辱めを受けず」、多くの軍人・軍属・民間人が投身して自決した。

 

千鳥が淵戦没者墓苑

東京都千代田区

宮祠

由来

本宮祠は大東亜戦争時、サイパン島において日本軍将兵が日夜 この宮祠を通じて

祖国の勝利を祈念していたゆかりの深いものです。現地から持ち帰られたものです。

 

円覚寺黄梅院

神奈川県鎌倉市

南雲忠一海軍中将墓碑

 

源覚寺

東京都文京区

汎太平洋の鐘

説明版

1690年 元禄 3年   粉河丹後守の鋳造により 当山に奉納された。             .

1937年 昭和12年   サイパン島の南洋寺に転出  南太平洋にひびきわたる。        .

1944年 昭和19年   サイパン島軍民玉砕 して 以後消息不明となる。           .

1965年 昭和40年   米国テキサス州オデッサ市にて発見される 。発見者 ミツエ・へスター .

1974年 昭和49年   米国カリフォルニア州オークランド市 居住 D・V・クレヤー氏によって、

.         サンフランシスコさくら祭に展示され、その後当山に寄贈される。 

 

南洋群島物故者慰霊像

建立の趣旨

かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに

第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭

和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた

将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、

遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために南洋群島とゆかりの深いこの源覚寺境内に遥拝所として、この

慰霊像を建立したものである。

昭和五十年七月十八日  財団法人南洋群島協会

 

サイパンの海の貝殻

 

南洋群島協会奉納 手水鉢龍頭

 

奉納歌碑

奉納歌碑

サイパンの夜のしじまの洞窟に ねむりしあらん友をしぞ思ふ

 

靖國神社

東京都千代田区

九七式中戦車

説明文

この戦車は、大東亜戦争における戦車第九連隊第五中隊所属の九七式中戦車である。

同連隊は、昭和19年4月、満州よりサイパン島に移駐し、米軍の上陸に当っては諸兵団の先頭に立ち、数倍する優勢

な敵の猛攻を迎え撃って敢闘したが、同年7月7日全兵団と共に玉砕した。

同連隊所属のある生存者が同島海岸砂中に埋没していたこの戦車を、サイパン島戦没者並に全戦車兵団戦没者の慰

霊顕彰の象徴にしようと、現地の有力者ハーマン・R・ケレロ氏を始め島民の協力を得て発掘し、祖国に還送。多くの戦

友の奉仕により、昭和58年8月12日靖國神社に奉納、境内に設置以来、戦車保存会々員の奉仕により保存整備され

てきた。

然るに、会員の高齢化に伴う今後の保守の断絶を慮り、靖國神社当局と謀り、同63年7月、大々的に整備工事を行い、

同年12月、遊就館ホールに搬入、末永く保存されるよう対処したものである。

 

若獅子神社

静岡県富士宮市

若獅子神社

神社の由来

若獅子神社は先の大東亜戦争において若獅子の名のもとに勇戦奮闘悠久の大義に殉じた陸軍少年戦車兵学校

の教官・生徒六百有余の御霊を御祭神として、永久祭祀の途を拓くため昭和五十九年十月、神社を創建しました

いま英霊はこの地に還り守護神としてわが国の平和と弥栄を希い氏子・崇敬者の平安と繁栄をひたすらお守りし

ておられます とくに御祭神は交通安全・学業成就・産業振興の神様として特別の御神徳をそなえておられます

神社の起源

昭和四十年十二月学校跡のこの地に戦没同窓生の慰霊・顕彰のため若獅子の塔を建立したのを起源とし 以来

毎年慰霊祭を執り行ない英霊の奉慰奉顕に努め 建塔二十年を期に富士山本宮浅間大社・靖國神社の御指導

により 永久平和への祈りをこめ神社造営を発起 顕彰会々員七百二十九名の奉賛によって若獅子神社が創建さ

れました

神社の名称

若き情熱に燃え純真一途国難に赴き勇猛果敢な活躍を遂げた少年戦車兵の愛称であった若獅子を神社の称号と

いたしました

 

若獅子の塔

 

若獅子の塔

 

陸軍少年戦車兵学校 門柱

 

陸軍少年戦車兵学校跡の碑

 

九七式中戦車

帰還戦車の由来

かつての大戦において 陸戦の華 少年戦車兵とともに活躍した機甲部隊の主力に九七式中戦車(チハ式)がありました

この戦車はもっとも熾烈を極めた玉砕の島サイパンにて 四十余名の少年戦車兵とともに 勇戦奮闘 祖国の礎となり戦後

三十年土中深く無縁をかこっておりましたが このたび一有志の悲願がかない この母なる地に還り安置したのであります

無数の弾痕は戦争の激しさを訴え 満身の赤錆はたたかいの空しさを語り 平和の尊さを教えています

ここに若獅子の御霊とともに永く平和の道標として 顕彰されんことを希うものであります

昭和五十年十月吉日  

 

九七式中戦車

 

九七式中戦車

 

かつて演習場へ向かう戦車が通った必中橋

 

静岡縣護國神社

静岡県静岡市

歩兵第百十八連隊 伊藤部隊慰霊碑

碑文

義烈日月と共にあり

昭和十九年五月十日 サイパン島方面出陣せられし歩兵第百一八連隊

殉国将士三千有余柱の慰霊之碑を建て永久の御冥福を祈る

 

比島観音

愛知県幡豆郡幡豆町

サイパン島戦没者慰霊碑

 

岐阜護國神社

岐阜県岐阜市

サイパン・テニアン遺族会 防人群像

 

大阪護國神社

大阪府大阪市住之江区

サイパン奉賛会 サイパン島戦没者慰霊碑

 

玉砕の島

更新日:2011/10/15