グアム島玉砕

 

昭和19年 7月21日午前04:30過ぎ、米軍のグアム島奪回作戦は空と海からの一斉砲撃で始まった。

米軍は艦船600隻、航空機2,000機、兵員30万名を集中、このうち5万5千名を上陸作戦にあてた。

対する日本の守備隊は第二十九師団と独立混成第四十九旅団を主力とする2万名であった。

同日07:30、米軍は島西岸に上陸を開始、この緒戦ですでに勝敗は決し、日本軍守備隊の80%近くが

戦死した。

パラオ出張中に米軍の上陸によってサイパンに帰れずグアムに留まっていた第三十一軍司令官の小幡

英良中将は、米軍の圧倒的な火力と兵力の前に島の死守を断念し、25日の深夜に最後の総攻撃として

「マンガン山攻防戦」を敢行、ここに日本軍守備隊の組織的戦闘は終止符をうった。

しかし、その後も日本軍の抵抗は終わらず、日本軍守備隊が最終的に投降したのは、終戦から一ヶ月を

経た9月15日だった。

 

日本軍守備隊2万名のうち、戦死者1万8千余名。

 

静岡縣護國神社

静岡県静岡市

第五七四部隊 慰霊碑

献歌

静かなる谷津の麓に霊眠る 誉は高し語り継がれん

碑文

大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日 元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊は

風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム島)に転進しましたが 同年七月二十一日最後の突撃

を敢行遂に玉砕しました

又各地に転戦して護国の礎となられた幾多戦友の霊 永しえに安かれと ここに慰霊碑を建立し

この尊い武勲を永く後世に伝えるものであります

 

玉砕の島

更新日:2002/02/16