十津川護國神社

奈良県吉野郡十津川村

 

十津川護國神社

 

十津川護國神社

 

戦没者之碑

 

満州開拓犠牲者慰霊之碑

碑文

山岳重畳として耕すべき田畑の少ないこの村が国策に則り 昭和十五年五月 紀元二千六百年記念

事業として満州十津川村 建設要綱を策定した満州分村計画は 古より一朝事あるとき進んで国難に

殉ずる気風を尊しとした村民の意気を表すものであった 斯くして村は十九年までに百十戸 三百三

十三名の開拓団員とその家族を送り出したが 戦況は悪化し日本の敗戦と二十年八月十七日ソ連軍

の侵攻により 戦場に赴いた五十八名の団員の消息も知れぬまま 第二の故郷と定め軌道に乗りつ

つあった思い出多い開拓農場を放棄せざるを得なくなり 団員家族と同年五月に渡満した報国農場隊

員は望郷の思いを込めて呼び親しんだ玉置山に名残をおしみつつ農場を退避した 省みればこの日

が三百三十五名の悲劇の始まりであった 酷寒零下三十度の北満でソ連将兵の軍靴の音に脅える

収容所生活 飢えと寒さに痩せ衰えた体に重労働を強いられ終に病に倒れた人々 既に物言わぬ母

の乳房に縋ったまま息絶えた幼子 恋しい父母の名を呼びつつ冷たい床の上で息を引き取った少年

や 男装のまま事切れた少女達など その最期の悲惨なる様はてずれも聞く者に断腸の思いをせし

むるものがある

終戦後既に五十年 改めて満州開拓団の悲劇に思いを致し 犠牲者の霊を悼み ここにその名を刻し

て永遠に語り継がんとするものである 願くは二百四十一名の霊よ 此処に帰り安らかに眠られんこと

を祈る

平成八年十二月吉日  十津川村長 野尻忠正

 

昭和天皇・同妃殿下 御製碑

昭和天皇 御製

戦後50年 遺族の上を思ひてよめる

國がため あまた逝きしを 悼みつつ 平らけき世を 願ひあゆまむ
   

皇后陛下 御歌

戦後50年 遺族の上を思ひてよめる

いかばかり 難かりにけむ たづさへて 君ら歩みし 五十年の道

 

陸軍大将 荒木貞夫終焉之地

碑誌銘

元陸軍大臣 元文部大臣 荒木貞夫大将は 資性高邁 文武兼備の聖将であった

常に「我は日本人也」の自覚に立ち 惟神の教えに基き 皇道を実践された 将軍は

予て 天誅組の処刑を君側の奸策に因ること二二六事件と酷似せるを聴き かくの如

き事か繰り返されては 我国体を危うくするを憂え 一度現地に就き事跡を調査したき

念願を持って居られた

偶々十津川村の招きに応じ 昭和四十一年十月三十日 橿原神宮に詣で 三十一日

十津川に来り滞在二日 史料を調査し 講演を行い 村民に多大の感銘を与えられた

然るに不幸一日夜半 十津川荘に於て 心臓の発作を起こし、佐藤首相への遺言を

口述し 十一月一日瞑目された

東京裁判弁護人  菅原  裕標す

昭和四十二年十一月二日  十津川村長 

※碑表の書は時の内閣総理大臣・佐藤栄作である。

 

十津川村郷土資料館

陸軍大将 荒木貞夫軍刀

解説文

この刀は、その死去に際しての村の誠意に対して、荒木家より贈られた家宝の恩賜の軍刀である。

 

十津川村役場

ふるさと

歌詞

ふるさとは そらをただよう しろいくも めにとおく こころにちかく

きえては うかぶ しろいくも

碑文

本碑は十津川村開村百年を記念して 関東十津川郷友会 中部十津川郷友会 関西十津川郷友会

北和十津川郷友会 中和十津川郷友会 五条十津川郷友会 新宮十津川郷友会 の志により建立

した

十津川を故郷とする郷友の 愛郷の念 望郷のおもい を郷土の詩人 野長瀬正夫の詩に託し

永くその誠を伝えるものである

平成二年十月吉日 郷友会

 

故郷の山 行仙岳

 

故郷の川 十津川

 

靖國の祈り

更新日:2011/06/14