相良護國神社

熊本県人吉市

 

 

 

  

駆逐艦秋月戦没者慰霊祭記念 献木                             秋月会 標柱    

 

池上峰次氏が「関係者が居なくなる前に記録を残したい」との思いから奉納された駆逐艦秋月の絵

球磨郡内戦没者

多良木町 櫟本 秋   黒肥地村 池田光隆   岡原村 立本静男   一勝地村 中津沖波

 

  

相良護國神社 石標                                 人吉城の堀と石垣 

 

望岳苑

説明版

これより東方八キロメートルの地 高原(たかんばる)に元人吉海軍航空隊があった 日夜猛訓練にはげんだか

つての飛行予科練習生たちは 風光明媚 山紫水明のこの地を愛し 当時親代わりの温情で接した人吉市民の

豊な厚い人情を忘れず 昭和四十六年八月若き日の記念として「予科練留魂の碑」を原の城の丘上に建て望岳

苑と名づけた

今ここに足を運び美しい山々を望むとき 若干十四、五才であった彼等が何故に身を挺してこの国土を守らんと

したか御理解できるものと思う

留魂の碑保存会(予科練人吉会)

 

  

人吉空予科練 留魂

碑文

大東亜戦争の劈頭ハワイ・マレー沖海戦に航空主兵時代の到来を実証した。

帝國海軍は弥々航空兵力の増強充実に力め国内各地に続々練習航空隊が開設せられた 人吉海軍航空隊

は其の一つ 昭和十九年二月 球磨郡木上村川辺 球磨の清流に裾を洗わはるる高ン原の大地に開隊 第

十八連合航空隊に属し 全国の猛烈なる志願者より選抜採用された飛行予科練習生に整備教育を施し 二十

年七月解隊迄に凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した。

顧れば此の一年半の当隊の活動は戦時の速成教育から九州各基地への防衛協力 戦備強化作業の推進 

更に教育中止後は佐世保鎮守府麾下第二十二連合航空隊に編入せられて 九州各地区の防備に任ずる等

 当時の戦局の推移をそのままに反映したものであり 其の執れにも目覚しい成果を挙げたが 終戦と共に其

の施設は今僅かに遺る滑走路の他は跡形もなく消え去った。

隊員の当時の真剣な意気込は青春の総てであり 山紫水明の風土 純朴なる人情と共に今も忘れ得ざる所 

戦後転じて祖国復興の担ひ手となり苦難の道を歩いて二十六年 今繁栄日本を見る

往年ここに学びし予科練有志 人吉会を結成し相謀って此の地に記念碑を建つ 曾て此処に培われし敢闘精

神を平和の戦士として倍々祖国の進展に活かさんことを期して也

昭和四十六年八月  元人吉海軍航空隊司令 田中千春撰

 

  

海軍中尉 半田亘理 追悼

碑文

明治四十四年福岡県久留米市に生まれる 昭和三年海軍を志し佐世保海兵団入団

八年第十九期操縦練習生卒 戦闘機専修

大村・横須賀各航空隊 空母龍驤勤務等を経て 十二年八月空母加賀に乗組み 中支上海戦線に出動 九月

七日 三機で艦上航空機隊を掩護中大胡上空でカーチス ホーク七機と遭遇 一機を撃墜 ついで九月二十日 

南京空襲で三機を撃墜

十三年六月 第十五航空隊に転じて南昌空戦に参加 十一月帰還するまでに更に二機撃墜 当時空戦の主流

であった単機格闘戦の名手と謳われ(苔で判読不能)

その後 蒼龍 飛龍乗組(苔で判読不能) 十五年十一月 海軍航空兵曹長に昇進 除隊したが即日召集

太平洋戦争起るや(苔で判読不能)ラバウル ニューギニア各地を転戦 零式戦闘機を駆って敵七機を撃墜 海

軍戦闘機隊長の華と称せられたが 結核に冒されて十七年十二月本土送還 人吉(苔で判読不能)改めて定住

し療養に専念する傍ら 人吉海軍航空隊の高原飛行場を望見しては 再び操縦桿を握り 後進の指導に挺身す

る日を夢みつづけた しかし 国破るるに及んで自らも立つ能わず 二十三年十月二十一日 祖国の再建を祈念

しながら遂に病没 性豪放 交誼に厚く 年三十七歳

勇者逝きて三十五年 高原を望むこの地に追悼の碑名を刻し 在天の霊とともに恒久の平和を希求すること

いよいよ切

昭和五十八年八月  渋谷 敦撰文  芳賀長雄謹書

 

靖國の祈り

更新日:2009/01/24