茨城縣護國神社

茨城県水戸市

 

 

 

顕勲の塔

碑文

この塔は 日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて 国のため散華された県下の五万八千余柱の

英霊を慰め その偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより 全遺族の祈りをこめて建てられたものであります

なお この塔には 支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております

諸霊やすらかにこの地に鎮まり 郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします

昭和三十八年五月

 

顕勲の塔

 

戦没者留魂の処

碑文

戦没者留魂の処は 財団法人茨城県遺族会連合会が 戦没者の納骨施設として 昭和二十五年十一月

水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し 七千七百余柱の分骨を納骨していたが

昭和三十五年「顕勲の塔」が建設されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され 留魂の処には碑のみ

が遺された

このたび 留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会に この碑および灯篭などをここに移転したもの

である

昭和五十九年六月吉日  財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

 

戦没者留魂の処

 

大東亜戦争記念碑

 

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

碑文

明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二連隊は、大東亜戦争酣の

昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、連隊長中川州男大佐は、

一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共

に、全島民をパラオ本島に避難させた。

九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇

群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返

しつつ、持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報

「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。

守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告さ

れ、世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。

ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図

り、この碑を建立する。

平成五年十一月二十四日  少二会・ペリリュー島慰霊推進会

 

鎮魂/岩上大尉の英霊ここに眠る

 

奉献 ペリリュー島慰霊会

碑文

木村武山画伯 壇ノ浦の本石に蟹を描きて寄進す 藤沢校長

平成二十年五月吉日

 

※藤沢校長とは、藤沢繁三陸軍航空通信学校長をさす。

 

工兵第二十二連隊戦友会/平和のねがい

 

歩兵第二百十三連隊/鎮魂

 

ニューギニア慰霊収骨団/あゝ戦友之碑

 

奉祝 天皇陛下在位六十年記念碑

 

境内の四季

桜花爛漫の境内

 

桜花爛漫の境内

 

桜花爛漫の境内

 

ペリリュー守備部隊鎮魂碑

 

桜の下の結婚式

 

初夏  社頭の鯉幟

 

ペリリュー守備部隊鎮魂碑

 

拝殿の菊花

 

ペリリュー守備部隊鎮魂碑

 

初冬

 

靖國の祈り

更新日:2011/11/20