亜細亜独立 インド

 

インド国際年表

慶長 5年 イギリスが東インド会社を設立

寛永16年 東インド会社がマラドスに進出

寛文 1年 東インド会社がポンペイに進出

元禄 3年 東インド会社がカルカッタに進出

明治 2年 マハトマ・ガンジー生誕

明治10年 英国支配によるインド帝國が成立

明治19年 ビハリ・ボース生誕

明治22年 ジャワハルラル・ネルー生誕

明治30年 チャンドラ・ボース生誕

大正 4年 ビハリ・ボース 日本へ亡命

昭和16年 チャンドラ・ボース ドイツヘ国外脱出

昭和17年 バンコクでインド独立連盟総会を開催

昭和18年 チャンドラ・ボース ドイツから来日

        自由インド仮政府を樹立、米英に宣戦布告

        東京にて大東亜会議を開催

昭和19年 インパール作戦

昭和20年 ビハリ・ボース 病没

        日本敗戦

        チャンドラ・ボース 飛行機事故死

昭和22年 インド独立

昭和32年 ジャワハルラル・ネルー首相が蓮光寺のチャンドラ・ボース遺骨を参拝

昭和33年 ラジェンドラ・プラサット大統領が蓮光寺のチャンドラ・ボース遺骨を参拝

昭和44年 インディラ・ガンジー首相が蓮光寺のチャンドラ・ボース遺骨を参拝

 

独立の機運

インドは17世紀初頭よりヨーロッパの植民地主義の標的となり、18世紀にはベンガル地方で一千万人、

19世紀には南インドで一千五百万人が犠牲になった。

日露戦争における日本の勝利は、白人に支配される事を当然と思われていた有色人種が、白人の軍事

大国に大勝利を収めた世界史上初めての戦いとなり、多くの有色人種に感銘を与えた。

後年、インドの初代首相ジャワハル・ネールは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に

刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がった」と回想している。

 

インパール作戦

昭和19年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカ

ン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬・食糧の補給

が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の

死者は三万・戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。戦後になってインパール作戦を愚

戦としてあげる人が居る。しかし本当にそうであったのか。

  

日本陸軍の象部隊

 

激戦地となったコヒマでは、日本兵が倒したイギリス軍戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存している。

また、インパール手前のロトパチン村には、村民たちが作った日本兵の慰霊塔があり毎年供養が続けられて

いる。ロトパチン村長は「日本兵は飢餓の中で勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇

ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて

行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシ

ンボルとしたのです」と語っている。

更には対戦相手の英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は、「かつて不敗を誇った日本軍も

半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールに

おいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとお

りである。」と、回想記のなかで語っている。

「何かが残った…」、インパール作戦での日本軍とインド国民軍は多大の犠牲を払ったが、つまりインドの独

立という大きな歴史を残した。当時、大本営内部ではインパール作戦決行の可否を巡り激しい議論が交わさ

れたが、最終的にこの作戦実施を促したのはインドの革命家チャンドラ・ボースだった。インパール作戦はボ

ースの存在を抜きにしては語れないものである。

 

ビハリ・ボース

チャンドラ・ボースが登場する陰には、多くのインド人の志士たちが居た。ビハリ・ボースもその一人である。

ビハリ・ボースは明治19年生まれで、インド国民会議派のなかでも急進派に属し早くから武力による闘争を

主張してきた。大正4年に北インドで独立蜂起を計画したが、計画が事前に漏洩し英国官憲に追われため日

本へ亡命した。その後、頭山満らの尽力で中村屋の創始者・相馬愛蔵邸に匿われた。ビハリ・ボースは亜細

亜各国の革命家と親交を深め、日本でも「大亜細亜協会」「東亜建設国民連盟」などと繋がりをもち、

「インド独立連盟(I I L)」を設立した。

昭和17年、ビハリ・ボースは日本政府に対して、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースを日本に呼ぶ事を

要望し、翌18年5月に実現させた(下記参照)。二人のボースは東京で会談し、ビハリ・ボースは「インド独立

連盟(I I L)」の全権をチャンドラ・ボースに委譲した。

ビハリ・ボースは相馬愛蔵の娘と結婚し日本に帰化、一男一女をもうけたが、後に長男・正秀は沖縄決戦

戦死している。

ビハリ・ボースは相馬愛蔵への恩返しとして、当時日本で主流であった欧米カレーとは違う本場インドカリー

を日本に紹介し、現在でも新宿中村屋の名物の一つとなっている。

         

ビハリ・ボース                   チャンドラ・ボース

 

チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボースはケンブリッジ大学に留学し、帰国後にインドの独立運動に参加。28歳でカルカッタ市長に

就任し、後に国民会議派の議長にも就任した。ジャワハル・ネール(後の首相)と共に反英運動を続け、幾度

も獄舎につながれた。昭和16年1月16日、捕らえられていたボースは英官憲の目を盗んで逃亡、アフガニス

タン、カブールを経てドイツ領に逃れていた。

  

ガンジーとボース                          ジャワハル・ネールとボース

 

昭和18年4月中旬、日本の潜水艦「伊29潜(艦長:伊豆寿一中佐)」とドイツのUボート「U80」が、太平洋の

同じ一点を目指して航行していた。4月27日の夜、両艦は季節風が吹き荒れるマダガスカル沖で会合、二人

のインド人が「伊29潜」から「U80」へ移乗した。その内の一人こそ、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボース

である。

伊29潜にて/ボースと艦長:伊豆寿一中佐

 

潜水艦を乗り継いだボースは北スマトラを経由して5月16日に空路東京へ到着。杉山 元参謀総長、島田

繁太郎海軍大臣、永野修身軍令部総長、重光 葵外務大臣等と次々に面談した。

6月10日には東條英機首相と会談、東條首相は16日の議会にチャンドラ・ボースを招いて世界中を驚かせ

た。ボースは壇上のマイクを通して全世界のインド人へ呼びかけた。「なつかしき同胞達よ、私は今、日本の

東京にいる。東條首相は議会においてインド独立の為にあらゆる協力課する事を言明した。私は誓う。常に

インド国民の先頭に立ち、祖国へ身命を捧げることを。」

またボースは6月26日に日本を立つ際に。日本国民に対し次のメッセージを残している。

「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大國のロシアと戦い大敗させました。この

ニュースがインドへ伝わると昂奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりで、インド

の子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略)日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告

しました。日本は私達インド人に対して独立の為の絶好の機会を与えてくれました。」

7月2日、チャンドラ・ボースは昭南島のカラン飛行場に到着、そこには日本の陸軍特務機関によって創設

されたインド国民軍13,000人を代表する一個大隊が整列してボースを待っていた。ボースが二十年来求

めてやまなかった武力が今忽然と湧現、ボースの目から一筋の涙がつたい落ちた。

11月5日、ボースは東京で開かれた大東亜会議に、自由インド仮政府の首班としてオブザーバー参加した。

大東亜会議には日本、満州国、中国国民政府、フィリピン、タイ、ビルマ、インドの各代表が出席し、ボース

は席上、これまでの西欧中心の国際会議と対比して日本が主導すべき歴史的必然性を述べ、「大東亜共栄

圏の建設は全アジア民族の重大関心事であり、強奪者の連盟に非らずして真の国家共同体への道を拓く

ものである。」と強調した。

大東亜会議/(左から)バー・モウ:ビルマ国首相、張景恵:満州国首相、汪兆銘:中華民国国民政府行政院長、

東條英機:大日本帝國首相、ワンワイヤタコーン殿下:タイ国首相代理、ホセ・ラウレル:フィリピン共和国大統領、

スバス・チャンドラ・ボース:自由インド仮政府首班

 

日本の敗戦後ボースはソ連行きの飛行機を日本陸軍に要請。昭和20年8月17日、用意された九七式重

爆撃機でサイゴンを飛び立ち台北の松山飛行場に到着。再び大連へ向けて離陸した直後にエンジン故障

で墜落、ボースは火だるまになって全身に火傷をおって死亡した。

インド民衆は、ボースがどこかに潜伏して再起を図っているものと信じ、彼の死を長い間認めなかった。

  

戦後、蓮光寺のボース位牌に参拝するインドの指導者達

(左)ラジェンドラ・プラサット大統領、(右)インディラ・ガンジー首相

 

戦後

インドは、敗戦国日本に対して、厚い友情を示した。極東軍事裁判で連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、

インド代表のパール判事ただ一人だけが日本の無罪を主張した。

また、インドは日本に対する懲罰的な条約に反対してサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しまし、日本

に対する賠償も放棄している。

さらにインド独立運動家のマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべき」という「逆賠償論」を

主張している。

 

蓮光寺

東京都杉並区

チャンドラ・ボース胸像

碑文

昭和20年 9月18日 蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の

英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年 我々スバ

ス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史師の御厚志により茲に胸像を建て之を後世に

伝えるものである

 

スタジスパス・チャンドラ・ボースの碑(胸像の後方)

碑文

仏陀の使命が人類の平和をもたらすように祈ります

1857年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

 

当寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を 私の幸福とするところであります

1958年10月14日 ラジェンドラ・プラサット大統領

 

御仏の光が真心と平和に向って人々のために 永久に私達を導かれんことを

1969年 6月26日 インディラ・ガンジー首相

 

多磨霊園

東京都府中市

取材協力:小村大樹氏(小野田石材店勤務、多磨霊園著名人研究家)

ビハリ・ボース(坊須家) 墓碑

墓誌

顕國院殿俊譽高峰防須大居士 ・・・ポース本人

昭和二十年一月二十一日没 六十歳

 

雪本院貞譽妙衣大姉       ・・・ボースの妻

大正十四年三月四日没 二十八才

 

故陸軍中尉 防須正秀  ・・・ボース夫妻の長男

顕徳院敏譽俊堂正秀居士

昭和二十年六月十七日 於沖縄戦死 行年二十六歳

 

亜細亜独立

更新日:2002/10/20