満蒙開拓青少年義勇軍

内原訓練所

 

満蒙開拓青少年義勇軍

昭和17年以降、戦局の悪化に伴う兵力動員で成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳くらいの少年

で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。

満蒙開拓青少年義勇軍は、重要国策の一つとして昭和12年1月の閣議決定に基づいて、昭和13年1月に 設立

され、昭和20年終戦まで存続した。設立の狙いは、当時、建国日浅い満州に広がる未墾の地に青少年 を送り出

し、将来大規模経営の農業者を育成し豊な農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげる事にあった。

義勇軍の訓練期間は三ヵ年、そのほとんどは現地訓練であったが、このうち二〜三ヶ月間基礎的訓練を行うため

この地に全国唯一ヶ所の内原訓練所が開設した。敷地は40ヘクタール、300余棟の日輪兵舎が林立 し、常時

数千人の若人が眉を上げ胸を張り、とおく大興安嶺の彼方に夢を馳せながら此の地に学んだ。

その総数 86,530名。全国都道府県から選抜された15才から19才までの若人達であった。

国策における満蒙開拓青少年義勇軍位置づけは「兵士予備軍」であり、彼らは農業実習とともに軍事教練 を受

け、軍事的観点から主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。

 

内原訓練所の本部

 

本部の日輪兵舎

 

内原訓練所の日輪兵舎

 

国鉄常磐線・内原駅から満州への出発風景 …隊員が手にしているのは鍬の柄

 

内原地区

茨城県東茨城郡内原町

満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑

碑文

義勇軍は、重要国策の一つとして昭和十二年一月三十日の閣議決定に基づき、昭和十三年一月設立され、

昭和二十年終戦まで存続した。設立の狙いは、当時、建国日浅い満州、 現在の中国東北部一帯に広がる

未墾の沃野に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊な農村を築きあげ、日満一体、民族協

和の実をあげることにあった。

義勇軍の訓練期間は三ヵ年、そのほとんどは現地訓練であったが、このうち二〜三ヶ月間基礎的訓練を行う

ため、この地に全国唯一ヶ所の内原訓練所が開設したのである。敷地は四十ヘクタール、三百余棟の日輪兵

舎が林立し、常時数千人の若人が眉を上げ胸を張り、とおく大興安嶺の彼方に夢を馳せながら此の地に学ん

だ。

その数八万六千五百三十名 すべてが十五才から十九才までの全国都道府県で選抜された人達であった。

訓練の傍ら義勇軍は、当時要請された食糧増産の為に各地の援農や奉仕作業に数多く参加した。内原町武 具

池の改修工事もそのひとつで述十万人の隊員の勤労奉仕により成ったものである。「内原」の地名は、この

訓練所によって全国にその名を知られるようになった。

 

開拓団碑

 

開拓団碑

 

       勇者地蔵      為満蒙開拓青少年義勇軍 勇者追善菩提

 

拓魂

碑文

満蒙開拓青少年義勇軍は昭和12年11月3日時の内閣に提出された「満蒙開拓青少年開拓義勇軍編成に

関する建白書」が同月30日閣議の決定するところにより創設された

これに先立ち この地内原に満洲移住協会並びに日本国民高等学校協会によって内原訓練所の建設が進め

られ 同13年1月より義勇軍募集要項による内地訓練が開始されるに至った

国策として発足した満蒙開拓青少年義勇軍は 満洲大陸に理想郷を建設せんとの熱意に燃える青少年達で

あった

義勇軍は 訓練所長加藤完治の訓育を受け 三百余棟の簡素な日輪舎に起臥し 心身の鍛練を経て 勇躍

満蒙の曠野に赴いたのである

その数8万6530名

内原は 義勇軍の心のふるさとである

 

綱領は次ぎのとおりであった

1.義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追進シ 身ヲ満洲建国ノ聖業ニ捧ゲ 神明ニ誓ッテ天皇

          陛下の大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス                                   

1.我等義勇軍ハ 身ヲ以テ一徳一心 民族協和ノ理想ヲ実践シ 道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス

 

義勇軍は大陸の厳しい風雪に耐え ひたすら理想の村づくりに邁進した

しかるに昭和20年8月 祖国の敗戦によりそのすべてが烏有に帰した

以来30年の歳月が流れた

われわれは 志半ばに倒れた同志の遺志を偲び 義勇軍創設の趣旨を録し 永く後世への記念とする

ここに内原会並びに関係各位の協力を得て その鴻志を刻み同志の碑とする

昭和50年5月3日 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑建立委員会委員長 那須 

        全国拓友協議会                   

 

拓魂

 

日輪兵舎(復元)

 

渡満道路 …訓練を終えた隊員達がこの道路を行進して国鉄内原駅へ向かい、満州へ渡った

 

報徳農村集落センター

茨城県水戸市

義勇軍訓練所 河和田分所跡

 

鯉渕学園

茨城県東茨城郡内原町

義勇軍訓練所 当時の建物

 

根古矢観音堂

茨城県東茨城郡内原町

昭和24年、義勇軍訓練所跡地から移築された弥栄神社

 

昭和24年、義勇軍訓練所跡地から移築された手水鉢

 

殉職供養費

 

地蔵院

茨城県東茨城郡内原町

満蒙開拓殉難者之碑

碑文

平和と勤労を愛し 不毛の地旧満州大陸の荒野を拓き 五族協和の理想のもと 王道楽土建設を夢見て大陸

に渡り 理想の夢が花咲くかに見えた矢先 あの八月九日の大悲劇に巻き込まれた満州開拓民八万有余柱の

為 昭和二十一年 元義勇軍発祥の地 内原町内原「東光山地蔵院」に碑文を元訓練所長加藤完治先生 当

時残留職員による満州引揚者のため 開拓民援護会設立により建立された納骨室には 昭和二十年よりほぼ

引揚者が終わる昭和二十五年の間 引揚者の何人かの胸に抱かれ内地に上陸するも 出身不明のため帰山 出

来ぬ三十五柱を集骨安置してあります

其の後 内原拓友会の懸命な「ふるさと探し」により二十一柱が帰山した其の文骨と 残念ながらいまだ帰

山出 来ぬ実骨十六柱が合祀されております

どうか全国の今は無き拓友よ 我が国の平和と繁栄は諸兄の犠牲が礎です

殉難零位の御冥福を祈願いたします 合掌

昭和五十八年十一月  義勇軍内原拓友会建立

 

聖母観音像

建立の由来

満州開拓は王道楽土の建設を理想とする世紀の国策大事業であったと同時に 終戦による満州開拓の終焉と

歴史上まれに見る悲惨な様相を呈した その中に14、5才のまだ■■な満蒙開拓青少年義勇隊があった

志半ばに泣く少年 殺伐になり勝ちな訓練生のよき姉母として 母の如き精神力を持つ寮母があった 死す

る者 二十有余名 其の霊を祀ると共に 再びかかる悲劇のおこることなき平和な世界の実現を この観音像

に託して建立するものである

昭和四十六年四月吉日  満州寮母会 有志

 

本法寺別院

茨城県水戸市

極楽世界

碑文

先逝可享自由楽 留給人間思念情

一九四五年八月以降 黒龍江省・哈爾濱市・新香坊などの地で死亡した日本人を埋葬する為 中国人民の

深い 同情と協力を得て ここを永遠なる安息の地とするにあたり この墓碑を建立する。

願成為日中友好之礎

二〇〇〇年十月二〇日  日本人墓碑建立世話人 礎会・哈爾濱の会 新香坊収容所縁者有志

縁起文

「極楽世界」は、元満州開拓者青少年義勇軍をはじめ満州開拓関係殉難者の御霊を祀る納骨墓所として中国

黒 龍江省哈爾濱市郊外に建立した「日本人公墓」を、日中国際事情や現地人民への心情的配慮から改称、改

建し て二〇〇二年春までに現地に立てられていたものです。

その後「極楽世界」の名が中国墓園環境に馴染まないことと、また、当墓所の永久供養を維持する目的によ

り中 国様式の新名称を刻した石碑に立て替えて現地で維持管理されることになりました。

この経過を受けて、これまでの「極楽世界」の石碑は日本国内に持ち帰ることができました。現状では叶え

られな い遺骨帰還になぞらえて鄭重にこれを迎え入れ、満州開拓発祥の地、内原訓練所河和田分所跡地の本

院に安 置できたことにより、史実保存とともに犠牲者の永遠なる鎮魂供養の場にふさわしい霊域の顕現を希

うものです。

二〇〇三年四月吉日  極楽世界背世話人

 

拓魂

碑文

五族協和、王道楽土、満州国建設の大志を抱いて 民族を越え戦争のないすばらしい村づくりを夢に海を渡った

青少年の数 八万六千五百三十名 「丈夫で仲よく迷わずに」の教訓を旨として 鍬の柄を肩に勇壮なるラッパ鼓

隊に送られて渡満 嗚呼 戦争という極限のなかで昭和二十年八月九日未明 そのすべては壊滅 多数の青少 年が

大志半ばにして満州の地に残したる惨 言葉も無し 爾来四十有余年の星霜が流れ 彼らの前に香を手向 ける人も

なく 一輪の花もなし 嗚呼 且つて彼らの農事訓練の場としての河和田の此の地 百町歩余こそは己々 の心は忘

るる事の出来ぬ農業の尊厳さを刻みこまれたであろうに 今この因縁深き地の本法寺の境内に彼らの 勇気を永久に

称えると共に 散っていった多くの同志の夢を慰むるため 生き残りたる我等相寄り諮りて拓魂碑

を建立し後世に伝えるものなり

平成三年八月八日  池田節朗 建立委員会

 

内原郷土史義勇軍資料館

茨城県東茨城郡内原町

内原郷土史義勇軍資料館 展示状況

 

日輪兵舎(復元)  右後方の建物は内原郷土史義勇軍資料館

 

日輪兵舎(復元) 内部

 

満蒙開拓団

更新日:2014/09/23