満蒙開拓団

殉難者拓魂 南関東

 

浅草寺

東京都台東区

まんしゅう地蔵(母子地蔵)

建立の由来

第二次世界大戦末期 ソ連参戦 混乱状態となった 中国東北部(満州)逃避行の末 命を落とした日本人は

二十万人を超えると云われています

酷寒の曠野を逃げ惑う母子 生き別れになったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど その悲劇は数知れ

ません

犠牲とになられた母子の霊を慰め また いまだに再会のかなわない親と子の心のよりどころとして 二度と

戦 争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ ここに母子地蔵を建立いたしました

一九九七年四月十二日  まんしゅう地蔵建立委員会 まんしゅう地蔵建立応援団 中国残留孤児援護基金

 

朗惺寺

東京都品川区

第十三次満洲興安東京荏原郷開拓團殉難者慰霊碑

この慰霊碑建設の主旨

昭和二十年八月九日 日ソ国交断絶するや全満州に亙りソ軍の進撃開始され 之に呼応して蜂起せる匪賊暴民の

難を避くるため 南方白城子方面へ脱出の興安東京荏原郷開拓団々員家族全員が 兆南縣雙明子部落付近に於 て

多数匪賊の襲撃を受け進退極まり 遂に男子七十余名は婦女子保護のため之と死闘を交ふるに至り 八月十七 日

山崎団長以下八百余名の大半が戦死 或は自決死等々万斛の恨みを呑んで遭難死せるは極みなき痛恨事に他なら

茲に其第十三回忌を迎えるに当り われら本団「ゆかり」の同志相計り浄財を集め 本団発祥の当地にこの碑を

建 立し供養して 殉難者慰霊の一端に資するものである

昭和三十二年十月十七日建立  東京武蔵小山商店街協同組合一同 満州興安東京荏原郷開拓団生存者一同

 

東京農業大学

東京都世田谷区

東京農業大学 湖北農場慰霊碑 寂

由来

この碑は、昭和二十年の終戦時に、当時の満州のソ連国境近くにあった東京農業大学湖北農場において

実習中の農業拓殖科学生五十六名と教員二名が戦禍に遭遇し、不幸にして殉難した霊を慰めるために、

農業拓殖学科創立二十周年を機に建立したものである。

昭和五十三年十月三十日  東京農業大学

 

満州殉難学友慰霊文集「しらかぱ」作成記念植樹の銀杏

 

五百羅漢寺

東京都大田区

興安友愛の碑(葛根廟事件慰霊碑)

碑文

吾等はかつて若い血をたぎらせて民族協和と 楽土建設のため日夜懸命に興安蒙古の地に於いて働き続けて 来た

偶々第二次世界大戦の終末に当り全く予測せざる混乱の渦に巻き込まれ 不幸現地に於いて 又朔北 の蘇運に於

いて幾多の同志及び其の家族を失った 冥に痛恨の極みである

ここに十三年を迎えて 諸精霊を慰め日蒙親善の礎となった同志の跡を遺さんがため興安友愛の碑を建立する所

以である

昭和三十三年九月三十一日  興安会会長 中村撰一

 

説明版

楽土建設のため中国北境の興安蒙古で働き続けた数万の同胞が、第二次大戦の終末の混乱に巻き込まれて、 現地

でまた朔北ソ連で、幾多の尊い生命を失いました。その精霊を慰めるため改祖二代慈雲と興安会関係者の 尽力に

よって完成されましたが、この碑の中心部に二千余柱の遺骨および遺髪、遺品等が納められており、毎年 十一月

三日に慰霊祭が行われています。

 

延浄寺

 東京都調布市

不忘の碑

碑文

国に従って 国に棄てられた人びとを 忘れず         

.           ふたたび 同じ道を歩まぬための 道しるべに

一九三〇−四〇年代、「満蒙開拓」の国策によって、「東洋平和のため、王道楽土を築くため」を名目に、

「お国のために、天皇陛下のために」と、「満州」(中国東北地方)に送り込まれた人たちがいた。

しかし、一九四五年日本敗戦時の混乱の中置き去りにされ、多数の死者を出す苛酷な逃避行を強いられた。

中国人に救われて死を免れた人たちも、帰国の道を閉ざされ、国に見棄てられたまま、長い歳月が過ぎた。

碑文の鈴木則子(一九二八年生れ)もその一人。

鈴木がようやく帰国できたのは、戦後すでに三三年を経た一九七八年。四年後、中国帰国者の会を起こす。

「中国残留婦人、残留孤児」らの帰国の援助、帰国後の生活相談・日本語教育、行政への働きかけ等々の

活動を展開。国家賠償を求めて提訴も。

鈴木則子さんは言います。

「私たちのような中国残留婦人、残留孤児≠ネどと呼ばれる存在は、二度と、生み出されてはなりません。

もう決して、このようなことがくり返されないために、私たちの体験・事実を伝えたい」と。

そして「知ってほしいのは、悲惨な体験をしたことだけではなく、権力に対して疑問や批判をもたない危な

さ・怖さです」と訴えます。

「騙されないように、流されないように」との鈴木さんの呼びかけは、時代を超える大事なメッセージです。

この歴史的な経験を忘れず、ふたたび同じ道を歩まぬための、私たちみんなの<道しるべ>にすべく、此処

に、 不忘(わすれず)の碑は立っています。

 

東郷寺

東京都府中市

満州開拓青少年義勇隊東京中隊 殉難英魂碑

碑文

大地を愛した心は一つ 桃山の友情いつまでも

昭和五十八年五月十五日建立  旧満州開拓青少年義勇隊 勃利訓練所第七次東京中隊

 

拓魂公苑

東京都多摩市

全国拓友協会 満州開拓殉難者之碑 拓魂

碑文

この碑は 満蒙の荒野に無残に散った八万の開拓者と その人々を守りつつ自らも逝った関係者多数の御霊

が合祀してあります。

昭和七年はじめられた満州の開拓事業は 満蒙の天地に 世界に比類なき民族協和の平和村建設と 祖国の

防衛という高い日本民族の理想を実現するために 重大国策として時の政府により行われたものであります

凍土をおこし黒土を耕し 三十万の開拓農民は日夜祖国の運命を想いながら黙々と開拓の鍬を振るいました

然し その理想の達せられんした昭和二十年の夏 思わざる祖国の敗戦により 地と汗の建設は一瞬にして

崩れ去り 八万余の拓士と関係者は 満蒙の夏草の中に露と消えていきました

そして そこには 未だ一輪の花も供えられたことはないのです

ここに同志相図り 水漬きこの多摩川の丘に一碑を建てて 祖国と民族のために 雄々しく不屈の開拓を戦

い抜き そして散っていった亡きこれらの人々の御霊をお祀りするとともに 再びかかる悲しみのおこるこ

となき世界の平和の実現を 心からお祈りせんとするものです

昭和三十八年八月  建設委員長 安井 謙

 

乗泉寺別院

東京都八王子市

満州仁義佛立開拓団犠牲者之霊

碑文

満州佛立開拓団の五百五十余名は 昭和二十年八月二十五日午後四時ごろ 満州國竜江省兆南街西方

約二十キロの地に於て殉死す

昭和五十三年三月建之

 

高尾山 薬王院

東京都八王子市

満蒙大陸林業人供養塔

建立之記

近代日本の国策に則り 曽てアジア大陸の一角で満蒙林野の正業経営に挺身すべく 官民一体の民族の大移動が

行われた しかし残念ながら敗戦により雄図空しく祖国に帰還せざるを得なくなった

その間国境を越えた物故の五族協和同人は多数に上っている

この「満蒙大陸林業人供養塔」は これら物故者の英霊に供養を捧げ その冥福を祈るために 満蒙に住んだ官

民林業関係者が悉く参画し 全魂こめた体制で建立したものである

これが建立にあたっては とくに高尾山薬王院はじめ 林野庁 東京営林局 東京営林署 東京都 日本林業技

術協会 全国林業改良普及教会 その他の絶大なるご援助を賜わった

なお工事関係については 吉田茂八 後藤東吉両氏の労を多とするものである 以上銘記し深甚の謝意を表する

昭和四十九年六月  外林会満蒙部会

 

諏訪神社

神奈川県津久井郡津久井町

殉國碑(満州開拓団合祀)

経緯

丹沢山麓の五ケ村(青根、青野原、三保、清水、寄)から分村移民として参加、青根開拓団からは

26戸・156人がソ満国境地帯に入植した。

 

津久井町役場 青野原支所

神奈川県津久井郡津久井町

忠魂碑(満州開拓団合祀)

経緯

青野原から満州開拓団として分村移民し、殉難した40人を合祀。

 

浅間神社

埼玉県秩父郡荒川村

中川村開拓団 拓魂碑

碑文

五族協和王道楽土の理想に燃ゆる満州開拓団として旧中川村白川村は昭和十四年以来夫々分村計画を樹て渡満

旧中川村は閻家を中心に百三十五世帯五百九十三名 旧白川村は楡林に四十世帯二百一名 いずれも苦楽を倶

にし力を協せ営々として荒野を拓き施設を急ぐ

昭和二十年八月突如ソ連軍の不法侵入に戦雲俄かに急を告げ 十三日楡林開拓団の青壮年は悉く現地に応召と

なり老幼婦女は断腸の思いに積年の蓄財を棄て言語に絶する苦難の山道を相抱き相慰めて避難すること五十余

日 辛くも新京に辿り着く

閻家の中川村開拓団亦ソ連軍匪賊に退路を遮断され相次ぐ非道の襲撃に犠牲者を出すこと前後実に百六十三名

指導者既にソ連軍に拉致され残る者極度の困憊と疫病に苦しみつつ山野を彷徨すること十八日漸く方正県に難

を避く

かくて楽土建設の雄図空しく悲憤異郷の鬼と化せし者楡林関係八十九名閻家関係二百六十一名にのぼり 今尚

生死不明の者合わせて百六十八名に及ぶ 嗚呼痛恨尽くるなく悲惨極まれりというべし

我らここに故郷に迷魂を招きその冥福を祈り永く両村開拓団の偉業を後世に伝えんため この一碑を建立する

という

昭和二十八年十一月三日  荒川村

 

清雲寺

埼玉県秩父郡荒川村

中川村開拓団 拓霊芳魂碑

碑文

中川村開拓団が国策によって母郷更生のため 併せて日本民族の海外発展により国土の狭小と人口稠密

農村経済の抜本的な解決のため 満州に分村したのは昭和十三年春四月 団は二百戸 六百十三人 原

住民六千余人と手を握り ひたすら母郷更生を祈りつつ 満州の新天地に農民の理想郷を建設すべく

命をかけて働くこと八年 一国一家の和気あふれ 満州の中川村はたくましく成長し 本家分家の花も

咲き 実にこれからと思うとき 大東亜戦争の犠牲となり 満事は終わる

嗚呼 この混乱悲惨の中に散華されたる同志 実に二百九十三名 あまりにも尊いそして悲しい此の事

実 これは永久に忘れることは出来ない(後略)

 

山梨縣護國神社

山梨県甲府市

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

碑文

拓友よ安らかに眠れ

亡き友に捧げる

友よ 帰らぬ友よ 君の大陸に残した足跡は 深く 大きく しるされている

われらは その足あとを しっかり踏みしめて 前進する

友よ 逝きて帰らぬ友よ 静かに やすらかに ここに眠れ

昭和五十二年九月  義勇隊慰霊碑建立委員会

 

満蒙開拓団 満蒙開拓青少年義勇隊 満州報国農場勤労奉仕隊

碑文

朔北の満蒙の地に 逝きて帰らぬ同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団 満蒙開拓青少年義勇隊 満州報国農場勤労奉仕隊

満蒙在留同胞の霊 千九百三十六柱を 此の処に祀る

昭和三十六年建立  財団法人満蒙同胞援護会山梨県支部

 

二井義勇隊乃碑

碑文

満蒙開拓青少年義勇軍は、旧満州国の治安維持と五族協和・王道楽土建設を目的に昭和十一年、

国策として閣議決定された。

二井義勇隊は昭和十八年六月二十三日、県下各小学校よりの志願者二百五十六名にて第六次山梨

中隊を編成、旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所、治安維持と大農業経営樹立

の訓練と併せて挺身隊としてハルピン・大連・三果樹・朝水等に派遣された。昭和二十年八月十

五日、日本降伏により隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した。故国に帰り着いた同志集い

て二井会を結成した時には既に百名近い拓友が世を去って逝った。戦後五十年を迎えようとする

秋、生存者の使命として、左記二井会会員に依って此の碑を建立するものである。

平成五年八月十五日  元満蒙開拓青少年義勇軍 満鉄二井訓練所 二井会建立

 

故満鉄李家義勇隊之慰霊碑

碑文

昭和五十年四月八日  李家会一同

 

都留市護國神社

山梨県都留市

満州南都留分村 殉難之碑

満蒙開拓南都留郷移民

昭和7年3月、満州国建設にともない始まった満蒙開拓団の入植は、昭和11年には重要国策の一つ

となり、20年間に100万戸、500万人の大量入植計画がたてられ、翌12年から実施段階に移

った。

南都留郷広富山開拓団は、国策にしたがい、昭和17年6月、道志村の佐藤伝良が団長となり、20

年5 月までに団員442名の入植をみた。開拓地は三江省(現黒竜江省)伊蘭県広富山の麓で、広富

山はその 形が富士山に似ていることから名付けられた。 厳しい気候のなかで荒野を開拓する苦労は

あったが日本 の本土と違い、自給 自足の生活で平和であった。

しかし敗色が濃くなった19年頃から男子はつぎつぎと召集され、昭和20年の敗戦を境に開拓団の

生活 は一 変 した。

暴徒と化した現地人に全財産を奪われ、日本人収容所への移動の途中では馬賊におそわれ、ソ連軍の

襲撃を 受 け半数が殉難した。

殉難碑は、広富山開拓団の生還者が、殉難者264人の霊を慰さめるため、当時の都留文科大学学長

で あった 諸橋 徹次先生の選文により、昭和37年11月に建立された。

 

諏訪神社

山梨県中巨摩郡櫛形町

合祀 満州開拓殉難者慰霊碑

碑文

(碑文 判読不能)

村史「豊村」

分村豊村の殉難者  戦死 8名、集団自決 140名、爆傷による死亡 1名

 

昌福寺

山梨県南巨摩郡増穂町

増穂秀峰開拓団殉難者 慰霊碑

碑文

満州チチハル市郊外日本陸軍墓地埋葬

(個人名省略)計四十二名

昭和三十六年八月十五日除幕

 

満蒙開拓団

更新日:2014/06/08