流転の王妃

 

愛心覚羅浩の生涯

大正 3年 3月16日 嵯峨侯爵家の嵯峨実勝・尚子の長女として誕生

昭和 6年 9月  日 満州事変勃発

昭和 7年 3月 1日 満州国建国

昭和 9年 3月  日 愛新覚羅溥儀、皇帝に即位

昭和12年 4月  日 愛新覚羅溥儀の弟・愛心覚羅溥傑と結婚

昭和12年 9月  日 満州国に帰国

昭和13年 2月26日 長女、慧生が誕生

昭和15年 3月18日 次女、生が誕生

昭和16年12月 8日 真珠湾攻撃

昭和18年12月  日 愛心覚羅溥傑、陸軍大学校入学のため来日

昭和20年 2月  日 生を連れ新京へ(慧生は嵯峨家に預け)

昭和20年 8月10日 ソ連参戦

昭和20年 8月15日 終戦

昭和24年10月  日 中華人民共和国成立

昭和22年 1月10日 生と共に日本へ戻る

昭和32年12月10日 慧生、不慮の死(天城山)

昭和36年 5月11日 中国へ渡航(溥傑氏の所へ)

昭和49年12月  日 溥傑・浩夫妻、日本に里帰り

昭和55年10月  日 溥傑・浩夫妻、日本に里帰り

昭和62年 6月20日 北京にて死去(享年73歳)

昭和62年12月12日 愛新覚羅溥傑、納骨のため来日

昭和63年 1月17日 中山神社内に愛新覚羅社造営(納骨)

 

千葉市ゆかりの家・いなげ

千葉県千葉市稲毛区

愛新覚羅溥傑仮寓

由来

清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟である愛新覚羅溥傑が、昭和12年に浩夫人と新婚時代を半年ほど

過ごした家。

 

  

愛新覚羅溥傑仮寓 母屋

 

  

愛新覚羅溥傑仮寓 離れ

 

  

愛新覚羅溥傑仮寓 コンクリート製の防空壕

 

中山神社

山口県下関市

  

愛心覚羅社

清朝最後の皇帝宜統帝(後に満州國皇帝)の弟、愛心覚羅溥傑・浩夫妻の遺言により、中国に近い

日本の地、そして愛心覚羅浩の先祖である中山忠光卿を祀る中山神社の境内に、溥傑が亡くなった

翌年の昭和63年1月17日に造営された。愛心覚羅社はご一家の日中友好の志を尊び、はるか中

国大陸の地に向かい西向きに建立されている。

 

愛心覚羅社

御祭神

愛心覚羅浩命 愛心覚羅溥傑命 愛心覚羅慧生命

碑文

愛心覚羅家は中国大陸清朝の直系にて、溥傑命は清朝最後の皇帝宜統帝(後に満州國皇帝)と

なられた溥儀皇帝の弟君であります。溥傑命は二本の陸軍士官学校を恩賜の軍刀を授けられ、

又、陸軍大学をも卒業された文武両道に優れたお方でありました。戦後は中華人民共和国 全国

人民代表大会 常任委員及び全国政治協商会議 常任委員として、中国国交回復及び両国友好

に尽力されました。

浩命は公家の中でも名門の嵯峨侯爵家の長女として誕生され、日本国と満州国とを結ぶ親善結婚

として溥傑命

に嫁がれたのであります。しかし戦後は満州国の崩壊、逃避行、文革の嵐と様々な経過を辿られ、

まさに昭和史いや世界史を一気に走り抜けたお方でありました。

慧生命は溥傑命と浩命の長女として誕生され名前は溥傑命がお付けになられました。学生時代日

中両国の架け橋として自ら中国語を学び、周恩来首相に直接父親と一緒に暮らしたいと訴えた手紙

を出され、その事が溥傑命の特赦へつながったのであります。しかし運命の成せる業か天城山にて

不慮の事故に遭遇されたのでありました。

以上愛心覚羅家三柱を青松不断の地に奉祀し、社殿が昭和六十三年(1988年)一月十七日に造

営され、大陸に向かい日中両国の友好を永遠に念じつつ御霊は安く穏いに鎮り給える。

 

愛心覚羅浩  命

平成六年(一九九四年)二月二十八日 帰幽

愛心覚羅溥傑 命

昭和六十二年(一九八七年)六月二十日 帰幽

愛心覚羅慧生 命

昭和三十二年(一九五七年)十二月四日 帰幽

 

愛心覚羅浩歌碑

碑文

中日親善の為に

ふた國の 永久のむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな

 

愛心覚羅溥傑様浩様御手植

 

閑話休題

更新日:2009/09/20