久保山
久保山斎場
神奈川県横浜市西区
火葬された殉難者の遺骨残灰埋葬地
当時の火葬場長の回想(抜粋)
久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収されたが、場長以下は接収期間中もそのまま勤務を続け、
昭和23年10月から昭和25年4月までの間に行われた巣鴨関係の刑死者の火葬には、火葬が終わるまで
米軍人が監視した。
昭和23年12月23日に死刑執行された東京裁判7人についても、その遺体はここで火葬に付せられたが、
厳重な警戒のうちに遺骨は米軍が持ち去り、残灰は米軍人から急き立てられ、私達職員の手でその場で残
灰を捨てる穴に埋めた。
しかし、翌日小磯国昭元首相の担当弁護士がこれを取り出し、後に伊豆山に埋葬したということである。
当時の久保山火葬場長により建立された供養塔
巣鴨プリズンでの処刑が打ち切られてから、火葬場長は供養塔の建立を発願しGHQに許可願を提出したところ、
建立は許可されたが「供養塔」の三文字以外の書き込みは許可されなかった。
サンフランシスコ講和条約の締結後、穴に埋められていた遺骨の残灰は取り上げられ六十等分され、東京裁判
7名を含む60の殉難者遺族に手渡された。
興禅寺
神奈川県横浜市保土ヶ谷区
市川伊雄大和尚顕彰碑
碑文
(前略)大東亜戦争後 東京軍事裁判判決により連合軍の東條元首相外六氏は 久保山火葬場において其の
遺骨の全てが遺族に還らざるを知り 愕然出家の身として黙し難く身の危険をも顧みず其の遺骨を搬出 密かに
当寺に安置回向其の冥福を祈る等 僧侶として其の気概気風の豪にして高邁の姿に 後日世の注目を集めたが
大和尚は終始一貫経典の心に有り 正義を貫く和尚一代を畢生の念願とした
光明寺
神奈川県横浜市保土ヶ谷区
六十烈士忠魂碑
顕彰記
この碑は、天をも畏れぬ赦し難き不法な極東国際軍事裁判の結果、巣鴨刑務所で極刑死せられ、
当地久保山で荼毘に
付された東條首相以下六十名の忠魂碑である。
この殉国烈士の慰霊は、日本協会や有志の方により行はれていたが、昭和四十三年当光明寺境内に碑が建立らせれる
に及び日本協会に次いで昭和五十七年以降は当会(日本郷友連盟神奈川県支部)が毎年慰靈祭を挙行している。
平成十年六月 日本郷友連盟神奈川県支部
碑文
列記の諸氏は大東亜戦争において尽忠報国の誠を貫きたるに拘らず旧敵国の一方的裁判により巣鴨において極刑を受
けられた 本会(日本郷友連盟神奈川県支部)は深く之を悼み諸氏を此地に合祀して忠霊を慰めかつ其の偉功を攻勢に
伝えんことを誓う
更新日:2007/07/01