艦内神社

戦艦山城

 

 

艦歴

大正 2年11月20日 横須賀海軍工廠で起工

大正 4年11日 3日 進水

大正 6年 3月31日 就役

昭和 5年  月  日 大改装(〜昭和10年)

昭和17年 6月  日 ミッドウェー海戦に主力部隊として出撃、戦闘には参加せず

昭和19年10月22日 捷一号作戦(西村艦隊 旗艦)、リンガ泊地から出撃

昭和19年10月24日 スールー海でハルゼー機動部隊の攻撃、被害なし

昭和19年10月24日 カミギン島北方で魚雷艇の襲撃、被害なし

昭和19年10月25日 未明 スリガオ海峡夜戦、午前4時19分 沈没

 

スリガオ海峡夜戦

昭和19年10月25日未明、戦艦山城を旗艦とする西村艦隊はミンダナオ海を抜けレイテ湾への

突入をめざし、志摩艦隊に先んじて敵艦艇が布陣するスリガオ海峡に突入。

戦艦扶桑が米駆逐艦の魚雷4本を受け燃え上がり火薬庫に引火、大爆発を起こして真っ二つに

裂けて漂流後に沈没。

午前 3時51分、山城は米戦艦・巡洋艦からレーダー射撃を受け敵砲火の閃光を目標に応戦。

西村中将は「我魚雷を受く。各艦は我に省みず前進し、敵を攻撃すべし」と残存艦に最後の指令

を発信した。

その後も命中弾と魚雷攻撃により速度が低下、機関が停止、火薬庫に引火して爆発を起こした。

この爆発迄の間、山城の前部主砲は砲撃を続けていた。爆発の衝撃により艦橋が前に崩れ落ち

るのが確認されている。

は傾斜し篠田艦長の総員退去命令から2分後の午前4時19分、右舷へ転覆し艦尾から沈没。

戦死 1,600余名、生存者は10名足らずとされている。

 

スリガオ海峡夜戦に至る間、西村中将は最上から飛ばした偵察機の情報により数倍の水上勢力

があるというレイテ湾内部の敵情を把握していた。西村中将は逐一状況を栗田長官に報告してい

るが、栗田長官からの指示は全く無く、また後続艦隊の志摩長官とは事前協議が出来ないまま出

撃したため、単独突入を決意したものと見られる。

 

戦艦山城 古絵葉書

 

艦内神社

石清水八幡宮

.                    所在地  京都府八幡市

.                    創建    貞観2年(860年)

.                    主祭神  八幡大神

.                    社格    勅祭社・二十二社・官幣大社・別表神社

 

石清水八幡宮

 

横須賀臨海公園

神奈川県横須賀市

戦艦山城之碑

碑文

軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ

太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和十九年十月捷第一

号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し、数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲

火の的となり又魚雷艇及び駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部砲塔からは間断のな

い砲撃が続けられたので有りましたが、悲愴にも力つきた。

山城は乗員千六百余名と共にスリガオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和十九年十月二十五日

午前四時十九分。

ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊祭を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争

の惨禍の起こることのないようにすることを決意し此の碑を建立する。 

平成七年十月二十五日  軍艦山城之碑建立委員会

 

鎮魂の霊地

更新日:2009/12/31