目を閉じると、いつでも思い出すことができる。
ヴェルダンの深い森を思わせる深緑の髪、それらを陽光に透かしたような若葉色の瞳。
どちらかといえばシレジア人に近い、ユングヴィには珍しい彼の容姿は、それだけで周囲の目をひきつけた。
好奇の視線にさらされながら黙って弓騎士としてひたすら修練にうちこむ姿を、父のリング卿も、そして自分も好ましく見守っていた。
いつからだろう。視界の隅に彼の姿を探すようになったのは。
優しい眼差しを向けられるたびに心騒がせる自分に気づいたのは。
***
「……そう……ついにこの時がきたのね……」
呟いて、エーディンは遠い眼差しで窓の外の空を見上げた。
イザークの隠里ティルナノグのはずれにあるエッダ教の修道院は、まもなく迎えるはずの春の陽光に包まれていた。彼女がこの地に身を預けてから既に五年が経過している。
「はい。俺はオイフェ様やデルムッドとともに諸国の見聞に出ることになりました。母上には先に報告しておこうと思いまして」
「気遣いありがとう、レスター。ほんとに立派になったわね……」
しばらく見ないうちにまた一段とたくましく成長した彼女の息子は、苦笑して頭を掻いた。
「母上にそう言っていただけるなら大丈夫かな」
ウルの血統がなせる技か、息子レスターもまた弓騎士の道を志していた。その技量もさることながら集中力は天下一品だと彼らの守役であるオイフェが誉めていたことを思い出す。本当に、立派になった。これならば、もういいのかもしれない。
「この旅から戻ったら、セリス様の立太子式が行われるそうです。俺も、そのときには正式に弓騎士として叙勲されることになります。俺も父上のように立派な弓騎士を目指します」
はきはきと告げる声。いつかは、この日がくると思っていた。
「そう……では、あれをあなたに渡さなくてはならないわね」
「母上?」
「少しお待ちなさい」
訝しげな息子にそれだけ告げて席を立つ。
自室に戻ったエーディンは部屋の片隅に立てかけられた細長い袋を手に取った。口紐を解くと袋は音もなく床に落ち、美しい装飾を施された弓が現れる。
手入れしなおされたそれは装飾こそわずかにくすんではいるがその美は何ら損なわれてはいない。通常の弓騎士が馬上で用いるものよりわずかに短いそれは、美しいばかりではなく持ち主の技量を十二分に発揮するための工夫が凝らされている。使い勝手と美の共存は並みの職人ではできない芸当だ。それは、かつて彼女が夫のために探しつづけてシレジアでようやく手に入れたものだった。その名を、『勇者の弓』という。
エーディンはその弓をそっと胸に抱きしめた。
「ミデェール……まさか私たちの子供が本当にこれを手にする日が来るなんてね……」
呟いた夫の名が切ない記憶を思い起こさせた。
***
「デュー、本当にここなの?」
不安そうに尋ねたエーディンに、金髪の少年は胸を張って答えた。
「そうだよ。エーディンさんはおいらを疑ってるのかい?」
「そういうわけではないけれど……」
困ったように呟いて、エーディンは目の前のみすぼらしい建物を見やった。
シレジア王国、セイレーン城下。小さな町ではあるが人々は活気に満ちている。にぎやかな表通りから一歩裏手に入ったところに、その建物はあった。デュー言うところの、『武器屋』である。ここに自分がずっと捜し求めていたものがあると聞いてやってきたのだが、建物の外見からはとても想像がつかない。
迷いを見せるエーディンに、デューはちっちっちっと指を振ってみせた。
「エーディンさんわかってないなあ。このシレジアは天馬の国だよ?その最大の敵になる武器を表でおおっぴらに売ってくれるわけないじゃん。それに、ほんとにいいものを探すならこういうところのほうが都合がいいんだ。なんたって値段が良心的だしね」
彼の言い分はこうだ。表通りに堂々と店を構えるような武器屋には普通に流通する品物しか置いていない上に品物の値段に流通経費が上乗せされているためにやたらと高くつく。その点、こういった裏通りにひっそりと店を持つところは独自のルートから品物を仕入れるから値段も良心的だし案外掘り出し物が多い。それなりに金を持っていてそれなりの品を求めるだけなら表通りの店でいいが、彼女が言う品を手に入れるにはこういった店でなければダメなのだと。
「ま、値段の交渉はおいらに任せてよ。さ、入ろう」
「……ええ」
デューに促されるままにエーディンは薄汚い扉をくぐった。
薄暗い店内には所狭しと剣や槍、斧や弓などが並べられている。デューはそれらに見向きもせずにまっすぐに店主に歩み寄っていった。
「こんにちは、おじさん」
どうやら既に顔なじみらしい。赤ら顔の主人は陽気に答えてくれた。
「よう、こないだの坊主じゃねえか。今日は何の用だ?」
「うん、ちょいと探し物をね。探し主はおいらじゃなくてこの人なんだけど」
デューに促されてとりあえず頭を下げる。フードを下ろしたその素顔を見て主人はひゅーと口笛を吹いた。
「こりゃまたえらい別嬪さんを連れてきたもんだな。目の保養ってのはこういうことを言うのかねえ」
「だろ?いっつもおまけしてくれるおじさんにサービスだよ」
「そらありがてえ。こんな別嬪さんの頼みとあっちゃあきかねえわけにはいかねえな。さ、何でも言ってくんな」
うなずいて、エーディンは口を開いた。
「実は……『勇者の弓』と呼ばれる逸品を探しているのです」
その名を耳にして主人がすっと目を細めた。
「…そりゃまたぶちかましてくれるな。ここシレジアじゃ弓は禁制に近い品だ。しかも勇者シリーズとはね……あんたが使うってわけでもなさそうだな。よかったら理由を話してくれるかい?」
エーディンは小さく頷いた。
「はい。私の夫は、今セイレーン城に滞在しているシグルド軍配下の弓騎士なのです。最近は何かと騒がしい世の中ですし、少しでも助けになればと……」
主人はうーんとうなった。
「そうかぁ……だが、勇者シリーズといやあ当人の技量を十二分に発揮させてくれる代わりに扱いがえらく難しいことでも知られてるんだぜ。たとえ手に入れたとしても扱えるかどうか……」
デューが口をはさむ。
「ミデェールさんはすごい腕っききなんだ。あの人なら大丈夫さ」
「そうかい?しかしなあ……」
「トーヴェ城で何やら不穏な動きが見られるとも聞きます。戦になれば天馬騎士相手に弓兵の出番が増えるのは必定……少しでもよい武器を持って戦いに臨んでほしいのです」
「ちょっと待てよ。あんたのだんなさん、確かシグルド軍だって言ってたよな」
「はい、そうですが」
「シグルド様といやあレヴィン王子の命の恩人じゃねえか。いや、あのフーテン王子はともかくとしてもラーナ王妃様ともとても親しくされてるんだろ?ってことは、あのダッカーやマイオスから王妃様を守ってくれるってことだよな?」
「ラーナ様は私たちの命の恩人ですから。助力させていただくのは当然のことですわ」
はっきりとうなずいたエーディンに、主人はぽんと膝を打った。
「よっしゃ!決めた、あんたに売ってやる!ラーナ様を守ってくださるおやさしい方々に武器を売らねえなんて無作法はできねえもんな」
「まあ、では……」
「ああ、確かに『勇者の弓』はここにあるぜ。手入れもばっちり行き届いてる。値段は……そうだな、こんなもんでどうだ?」
さらさらと主人が紙に書きつけた金額にさっそくデューが口をはさんだ。
「おじさん、そりゃ高いよ。もうちょっと負けとくれよ」
「おいおい坊主、勇者の弓だぜ?ここシレジアじゃめったに出ねえ珍品だ。これでも大負けに負けてんだぞ」
「さっきの話きいたろ?ってわけでもう一声!」
「しかしなあ、大切にしてくれるかどうかもわからん相手に……」
「そーだ、ミデェールさんの腕を判断するならいいのがあるよ。ほら、おいらがこないだ持ってきた鉄の弓!」
「ん?あれか」
主人が視線を流した先には以前から見慣れた鉄の弓が立てかけてある。所持品が増えてきたミデェールが手放したものだ。
「そうだよ。おじさん、手入れがすごく行き届いてるって誉めてたじゃん。あれ、ミデェールさんがユングヴィにいたころから使ってたやつなんだよ」
「ほう、それなら……」
「だろ!せめてこの端数だけでもさ」
「うーん、そのくらいなら……よし、これでどうだ」
「決まり!よっ、太っ腹!さすが武器屋歴30年!」
「よせやい、てれるじゃねえか」
どうやら交渉は成立したらしい。エーディンはほっとしたように微笑んだ。
彼女がミデェールと結ばれたのは幼馴染のシグルド率いる軍がアグストリアに滞在していたころのことだ。彼は万事に控えめな性格であったから、二人が結ばれたのはひとえにエーディンの幼いころからの一途な想いとその行動力あってのものだねであった。
ミデェールにしてみれば、エーディンは主家の娘である。妻として迎えるにもためらいがあったに違いない。実際、彼は正式に夫婦になった後も彼女を「エーディン様」と呼びつづけた。こればかりは譲れない、と漏らした彼にエーディンは内心少しばかり不満であったのだが、それは些細なことに過ぎなかった。
手に入れた勇者の弓を入れた袋を大切に胸に抱きしめてセイレーン城に戻ってきたエーディンを出迎えたのは双子の姉のブリギッドだった。
「おやエーディン、お帰り。どこに行ってたんだい?」
5歳のときに行方不明になって以来海賊に育てられた彼女はよく言えば気さく、悪く言えばバンカラで大雑把に成長していた。外見はよく似ているのにかもし出す雰囲気はまったく正反対の二人はとても仲がよい。再会したばかりのころわずかにあったわだかまりも今ではすっかり解けている。
「ただいま、お姉さま。目的のものがようやく見つかりましたの」
微笑んで答えたエーディンに、ブリギッドが目を輝かせる。
「本当かい?さっそく見せておくれよ」
「ええ、もちろん。お姉さまの部屋にお邪魔してもよろしくて?」
「ああ、かまわないよ。ジャムカも日課の訓練から戻ってくるころだけどいいかい?」
「ええ」
ヴェルダンの王子ジャムカは先ごろブリギッドと正式な夫婦となった。ブリギッドのお腹には今四ヶ月になる子供がいる(つまりは現代で言うところの『できちゃった婚』なのだがシグルド軍では誰一人気にとめなかった)。弓兵同士気の合うところを見せていた二人だけに、予想通りの結果と言えよう。二人の会話は夫婦というよりも戦友同士といった色が濃いが、それも彼ららしいともいえた。
二人がブリギッドとジャムカに与えられた部屋を訪れると、ジャムカはまだ戻ってきていないようで部屋は静まり返っていた。
「レスターはいいのかい?」
問うたブリギッドに、エーディンは微笑して答えた。
「今はラケシス様に見ていただいていますから。あちらもデルムッドが生まれたばかりですし」
「そうかい。悪いね」
「いいえ。お姉さまにも見ていただきたかったんです。弓のよしあしは実際に使っておられるお姉さまのほうがおわかりになるでしょう?」
「だといいんだけどね」
小さく笑うブリギッドにうなずいて、エーディンは袋の口紐を手早く解いた。
現れた弓を見て、ブリギッドは小さく口笛を吹いた。
「これは……掘り出し物だね。シレジアじゃ弓はろくなものがないってジャムカが嘆いてたけど大したもんじゃないか」
「デューのおかげですわ。あの子がいいお店を見つけてくれたから」
「そう、あの子がね……ミデェールは果報者だね。さっそく持っていくんだろ?」
「ええ。そろそろ訓練も終わるころですし」
「ありがとう、いいものを見せてもらったよ。引き止めて悪かったね」
「そんなことありませんわ。お姉さまのお墨付きがいただけて安心しました」
「ジャムカももう少し早く戻ってくれば見せてやれたのにね。あいつ、あれでいい弓には目がないんだ。あのキラーボウだって国中を血眼になって探し出したらしいよ」
いたずらげに言うブリギッドにくすりと笑う。
「ええ、存じてますわ。お姉さまと最初に会話されたのも確かイチイバルのことでしたわよね」
「ああ。持ってる美人のことすっ飛ばして『いい弓だな』ときやがったからね。最初はぶん殴ってやろうかと思ったよ」
「そんなことおっしゃって……最初に外見のことを口にされるような殿方でしたらお姉さまが相手になさるはずありませんのに」
「まあね」
答えるブリギッドはとても誇らしげで。しぐさは普段と変わらないのに、愛される自信と喜びに満ちた姿はとても女性らしく輝いて見える。姉夫婦の対等な関係が実はうらやましくもあるエーディンだった。
自分とミデェールではこうはいかない。彼を愛しているし、彼に愛されていることも知っている。けれど、自分たちは決して対等にはなれない。自分がウルの血を引く限り。彼がユングヴィに仕える騎士である限り。
「エーディン?」
訝しげな姉の声でふっと我に返ったエーディンは、小さく笑い返した。
「すみません、ぼうっとして……」
「具合でも悪いのかい?あんたは産後の肥だちもあまりいいほうじゃなかったからね。このあたりは寒いし、風邪でも引いたんじゃ……」
「大丈夫ですわ。ただ、ちょっと……お姉さまがうらやましかっただけ」
「うらやましい?」
「ええ。私とミデェールではこうは行きませんもの……」
そう言って微笑むエーディンに、ブリギッドはあきれたように返した。
「何言ってるんだい。夫婦なんて人それぞれだろ。あれだけ大事にされててまだ足りないのかい?贅沢だねえ」
大事にされすぎるのも時には苦痛なのだと、彼女は知ることがあるだろうか。エーディンは言いかけた言葉を呑み込んだ。それは彼女の言うとおり贅沢なのだ。それくらいは自覚している。
「さ、そろそろ戻っておやりよ。あんまり待たせるわけにも行かないし」
「ええ。ではお姉さま、またあとで」
姉の部屋を辞したエーディンは廊下の向こうからジャムカが歩いてくるのに気づいた。どうやら日課の訓練を終えたようだ。向こうでもエーディンに気づいたようでわずかに表情を緩ませるのが見えた。
「お疲れ様。いつもの訓練ですの?」
「ああ。ミデェールはもう少し残ると言っていた。すぐにあがってくると思うが」
「ありがとうございます」
こうして穏やかに言葉を交わせるようになったことが少しうれしい。以前は彼の静かな、それでいて隠し切れない熱を秘めた眼差しが苦手だった。彼が自分に対して抱く感情が自分がミデェールに対して抱くものと同種であることに気づいてからは、その熱に引きずられそうな自分が怖かった。いっそ流されてしまえれば楽だったのかもしれない。けれど、さらわれた自分を傷を負ってまで追いかけてきてくれた忠実な騎士の存在は心の隅から消え去ることはなかった。心のままにそれを告げるしかなかった自分を、彼は微笑で受け入れてくれたのだった……
今では姉の夫となったヴェルダンの王子は、今も変わらぬ穏やかな眼差しを向けてくれる。それは何もかも奪い去るような熱ではなく、慈しむ暖かみに満ちている。
「探し物は手に入ったのか?」
問われて、エーディンは素直に微笑を返した。
「ええ。ご覧になりますか?」
「いや。ブリギッドはもう見たんだろう?彼女に聞くからいいよ。実物を見てほしくなってしまっては遅いからな」
「まあ」
くすり、と笑う彼女にジャムカは肩をすくめた。
「当然だろう?勇者の弓は弓兵にとって垂涎の品なんだ。ミデェールは本当に果報者だよ」
「お姉さまと同じことをおっしゃるのね」
「同じ弓兵だからな」
そういうものだろうか。だがそれが彼ら二人の絆のひとつであることは間違いない。
「早くミデェールに見せてやるといい。きっと喜ぶだろう」
「ありがとうございます。では、またあとで」
本当によく似た二人だ。エーディンは微笑して頭を下げた。
途中でラケシスの部屋に立ち寄って息子を引き取ったエーディンはゆっくりと自室を目指した。
息子のレスターはまもなく六ヶ月になる。隔世遺伝か青い髪を持って生まれてきたのは少し残念だったが(彼女はミデェール似の緑の髪の子が生まれればいいと常々願っていた)瞳は父親にそっくりの若葉色だ。うれしそうに小さな手をいっぱいに伸ばして勇者の弓の袋にじゃれ付く姿に思わず微笑する。
「あなたもお父様のように立派な弓騎士になるのかしらね……」
自室の前でドアを開けようとしたところへ、ちょうど内側からドアが開いてミデェールが顔を覗かせた。
「あ、エーディン様……お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
こんなときでも敬語を忘れない夫に苦笑して、エーディンは室内に入った。ミデェールが横から腕を伸ばしてレスターを抱き取る。
「どこかへお出かけでいらしたのですか?レスターもいなかったようですが」
「ええ、ちょっと……ミデェール、あなたに見せたいものがあるの。こっちにきてくれる?」
「はい」
彼はちょっと首を傾げたが、すぐにレスターをゆりかごにおろして歩み寄ってきた。
「何でしょう?」
緑の瞳がまっすぐに見つめてくる。この瞳に出会うと何もいえなくなってしまうのが常だった。何も言わずとも自分の言おうとすることをすべて理解してくれるのが目の前にいる男だったから。だが、今日はそういうわけには行かない。小さく息をついて、エーディンは手にしていた細長い袋を彼に差し出した。
「あなたにこれを受け取って欲しいの」
「これを……?」
「ええ」
不思議そうに荷物を受け取った彼は、その袋を開いて思わず目を見張った。
「これは……『勇者の弓』……!」
さすがに音に聞こえたユングヴィの弓騎士団バイゲリッターの末席に名を連ねていただけはある。ひと目で弓の名を言い当てたミデェールに、エーディンは小さく頷いた。
「ええ。ずっと探していてこの間ようやく見つけることができたの」
ミデェールの細い指がかすかに震えながら勇者の弓の意匠をなぞる。ユングヴィ本国では精鋭部隊にのみ与えられる、文字通り勇者の代名詞である。
この弓なら喜んでくれるに違いない。エーディンはそう信じて彼の言葉を待った。だが、ミデェールは困ったように見つめ返してくる。やがてその口をついて出たのは思いがけない言葉だった。
「エーディンさま……本当によろしいのですか?私などにこの弓を持つ資格があるとは……」
エーディンは目を見張った。慌てて反論する。
「何を言うの。お父様だってあなたの力は認めていらしたのよ。あなた以上にこの弓にふさわしい人はいないわ」
「ですが……私は弓騎士としてはまだまだ未熟者です。この軍には私などよりもこの弓にふさわしい人物がいらっしゃるというのに、私などが……」
ためらいがちに呟くミデェールに、エーディンは強く首を振る。
「いいえ、いいえ!違う……!」
強い否定の言葉に、今度はミデェールが息を呑む。白い頬を伝う涙に気づいて彼は慌てた。
「え、エーディンさま?」
「あなたは勘違いをしているわ。私は、バイゲリッターの一員としてのあなたにこの弓を渡したいわけじゃない。私は……私は、ただ私の夫の無事を祈りたいだけよ……!」
「……!」
言葉を失ったミデェールに、涙をぬぐおうともせずに彼女は言い募った。
「確かに、私はあなたにとって主家の娘かもしれない。でも今の私はあなたの妻なのよ。なのにどうして遠慮するの。妻として夫の心配をすることさえ許してくれないの?」
ああ、まただ。自分はまたわがままを言っている。忠誠心篤い騎士である彼にこんなことを言ったところで困らせるだけだと、わかっているのに止まらない。
「あなたを愛しているわ。でも、時々あなたの気持ちがわからなくなる。本当に私を愛してくれている?私のわがままにつきあってくれているだけではないの?」
「エーディン様!」
鋭く遮られた。そのまま力強い腕に抱きしめられる。
エーディンは小さく息を呑んだ。そのまま、細く息をつく。その顔立ちのためか女性的に見られがちなミデェールであるが、弓を引く騎士らしくその肩幅は意外に広い。腕にもしっかりと筋肉がついている。それを知ったのはこの腕に初めて抱かれた時だった。そんなことを思ったとき、小さな声がした。
「……お許しください」
「ミデェール……?」
「私は……こうなる日をずっと夢見ていました。かなうことのない大それた望みだと、わかっていながらずっと忘れることができなかったのです。こうしてあなたを抱きしめる夢を……」
それは、自分もだ。答えようとしたが、声がうまく出ない。
「あの日……ユングヴィ城であなたがさらわれた時は、これが分不相応な夢を見た私に与えられた罰なのだと思いました。それ以来、私は決して油断することのないよう自分を戒めてきました。あの時の、自分の身を引き裂かれるよりも辛い思いを忘れないためにです」
「…………」
「あなたと結婚して以来、ずっと夢を見ているような気がしていました。いつも不安でした。いつこの夢が覚めてしまうのかと……油断していたらこの幸福はすぐに私の手から逃げていってしまうのではないかと……でもそのことであなたをさらに苦しめていたなんて、私は夫失格ですね」
小さく吐息をついて。エーディンは、夫の背にそっと腕を回した。
「……いいえ、そんなことはないわ。私も同じだったの。いつも不安だった。でも、私はあなたがそんな思いをしていることにすら気づかずにただ自分の不安をぶつけていただけだった。私こそ、あなたの妻として失格なのかもしれない……」
背に回された腕が強くなる。
「そんなことをおっしゃらないで下さい。あなたに愛されている。そう思うことで私は強くなれたのですから……」
「本当にそう思ってくれるの?」
「もちろんです、エーディン様」
「では私をエーディンと呼んでちょうだい」
そう言ったエーディンに、ミデェールは耳まで赤くなった。
「え……そ、それは……」
「夫が妻を様付けで呼ぶなんておかしいわ。敬語はあなたらしいからまだ我慢できるけど……ダメ?」
「……どうしても、ですか……?」
「ええ、どうしても。……今だけでもいいから」
少し強気に言う。どうしても、聞きたかった。
ミデェールは困ったように笑って、ちょっと咳払いをした。そして、彼女の肩に手を置いたままようやく口を開いた。
「では……えー……愛しています、エーディン」
言い終えてさらに真っ赤になるミデェールに、エーディンは花のような笑みを浮かべて答えた。
「私もよ、ミデェール。この広い世界であなたに出会えた奇跡を神に感謝します」
そのまま二人はくちづけを交わした。結婚式で神前で行った時のような神聖なそれに、二人はしばし酔いしれたのだった。
***
目を開ければそこは古びた修道院の自室で。
しばしの幸せな夢から覚めたエーディンは細く息をついた。
それはかなうはずのない恋だった。
それなのに、かなってほしいと願わずにはいられなかった。
優しいあの人はそれに応えてくれたけれど、代わりにたくさんのものを失ってしまった。
かなうはずのない願いを抱いてしまった罪。求めてはいけない相手を求めてしまった罪。この苦しみはその代償なのだろうか。
だが一つだけ言えることがある。自分は、それでも幸せだったのだ。
あのひと時があればこそ、今の苦境をすら受け入れることができてしまうほどに。
自分と仲間たちを襲った悲劇は到底許容できるものではなかったけれど、それでも自分たちは幸せだったのだ。
自分が育てた光の子供たちにも、いつかわかるときが来るだろう。
「……あなたも、あの子達を見守っていてくださいね」
手の中の古びた弓に語りかけて、エーディンは静かに自室をあとにしたのだった。
(終)