「長田・鷹取レポート」


 震災後はじめて神戸に来たのは1年たった頃だったろうか。三宮駅前の歩
 道橋に「被災地の見物人は返れ」というような事を書いた落書があった。

 被災地見物といわれればたしかにその通りだろう。せめて「見物」じゃな
 く「見学」でありたいものだと思って歩いてみても「自分は何もできない
 し、していない」というのがわかっただけ。

 また、ここにこうして書いたところで免罪されるわけではもちろんない。

 とにかく、今回、神戸出張の合間に半日時間があく事がわかった時点で、
 行ってみようと思った。所詮、観光客にしかなれないにしても行かずには
 いられなかった。

 にわか勉強で『阪神大震災と外国人』という本を買って、行く途中の新幹
 線の車中で拾い読みした。
 ベトナム人と日本人が共生しているという南駒栄公園テント村のエピソー
 ドが印象深かった。


 3月13日。まず、三宮に入り、南口のそごうの向かいにある「阪神・淡路大
 震災復興支援館・フェニックスプラザ」という建物に行った。
 手塚治虫の火の鳥のイラストをシンボルマークにしたその建物はたいへん
 立派だった。
 三宮に行く前日、関西の別の地で一緒に仕事をしたスタッフが、ここの仕
 事をしたという話を聞いた。この立派な建物はこれでも「仮設」らしく、
 数年後にもっと立派な建物ができるらしい。
 自分自身も被災者である彼は、「そんな金があるなら、被災者にまわして
 ほしい」と言っていた。親戚をはじめかなり被害にあったが、義援金は来
 ていないという。

 支援館は、ボランティアの情報ボードがあったり仕事や住宅の相談に乗っ
 てくれたりとその意義を感じる事はできたが、弱者への視点がちゃんとあ
 るかというと、やはり少々欠けているような気がした。


 新長田駅の西側から南に伸びている商店街「新長田1番街」を歩いた。仮
 設の建物で営業している小さな小さな本屋。マンガや雑誌ばかりだが、そ
 の中で2冊、『神戸アジアタウンから 元気やで KOBE』『長田随想』
 (どちらもひごろ書房、フォトジャーナリストの牧田清氏が写真や解説を
 寄せている)を購入。

 「復興元気村 パラール」というところは、文字通り「元気」を感じさせ
 てくれるところだった。サーカスを思わせるような大型のテントの中に、
 ダイエー西神戸店と小さな個人商店とが共存するように集まっている。
 個人商店は、鮮魚、婦人服、日曜雑貨、家具、クリーニング、医院、美容
 院、コインランドリーといったさまざまな業種の店が並んでいる。
 当然、料飲店もある。そのうちの1軒に入って食ったが安くてうまかった。
 震災で店はつぶされてしまったが、商店街の理事ががんばって震災の年の
 10月にはこの場所で再開できるようになったという。

 南駒栄公園テント村のテントは小屋になっていた。
 前掲の『阪神大震災と外国人』によると、神戸市は「避難所にいるすべて
 の人が入居できるだけの仮設住宅を用意した」と豪語したが、仮設住宅の
 多くは遠く、多少の不自由をがまんしても公園に住んでいるほうが生活し
 やすいらしい。

 近辺は工事が進んでいた。どうやら地下鉄が通るらしい。地下鉄の駅がで
 きたら、ここに住んでいる人たちは追い出されてしまうのではないだろう
 か。
 昼間なのでほとんどの人が働きに出ているのだろう。人影はほとんどない。
 たまたまいた人物に恐る恐る声をかけ、こちらに住んでいるんですかと聞
 いたら「ここにかかわっている者です」と言った。おそらくボランティア
 なのだろう。少し話をすると「それで?」と聞かれた。それ以上、言葉が
 続かなくなって、見学に来ただけでは申し訳ないという気持ちは持ってい
 るという事を告げ、南駒栄公園からは去った。

 新長田はケミカルシューズ産業がさかんらしく、南駒栄公園の近くには仮
 設の建物で操業している工場群があった。

 長田周辺を歩くと、そうした工場や内職の募集広告がたまに目に付く。
 他に目に付いたのは、コンテナハウスなど仮設住宅のモデルルーム。

 新長田から鷹取にかけての火災で消失したあたりを歩いた。
 以前神戸に来たときは時間がなかった事もあり、電車で往復しながら見た
 だけで結局降りて歩かなかったが、今回は歩いた。

 いまだに、ほんのわずかに新築や建築中の家屋があるだけで、震災後2年
 たっても状況は好転していないようだ。

 「開発事業のため1区間移転します。」と貼り紙が出ているたこ焼き屋。
 たしかにすぐ近くにほとんど同じ形だが作りがプレハブの新しい店舗がで
 きて開店の準備をしている。「引き続きよろしくお願いします」との貼り
 紙。6日後にオープンの予定だ。

 三宮に戻って電話したら、仕事の打ち合わせの時刻が伸びていた。
 ずいぶん歩いて疲れていたけど、もう一度戻る事にした。

 今度は、新長田の北口にある図書館に行った。同和関係や震災関係の本も
 いくつかあった。

 行政が作った仮設住宅にも行った。形が仮設住宅というだけで、ここに住
 む人々は普通に出かけて社会で普通に働いている。ただ、住宅に帰れば仮
 設であり不便なのだと思う。
 南駒栄公園などのように現在でも仮設住宅に入っていない人は、さらにた
 いへんな環境だ。テレビのアンテナは立っていたがパソコン通信やインター
 ネットなどやっている人はいない気がする。

 鷹取教会は、他国語のFM放送「エフエムわいわい」の拠点になっていた。
 自身も被災したこの教会は、三宮の復興支援館と比べると形すらよくわか
 らないほどの設備だが、弱者に対する視点はあきらかに感じる事ができた。

 震災時、外国人にとっては避難命令も危険を示す貼り紙も避難場所や救援
 物資の受け取り方も日本語ばかりだったため、その分不利だったという。

 自分が歩いた範囲では、この教会と南駒栄公園を除いては外国語のポスター
 が貼られている所はなかった。外国人が多く住んでいる事を感じさせるの
 は、図書館に韓国/朝鮮のコーナーがあったぐらい。
 靴産業で働く約6割は在日韓国・朝鮮人らしく、長田区の人口の約8%は
 外国人というから、もっとその存在を感じてもいいような気がした。
 中国語らしき言葉を話す人々とすれちがったりもしたが、日本人と外国人
 との文化的交流があるとはあまり感じられなかった。

 まわりが焼失した中で唯一残った銭湯「幸せ湯」は、壁に俗っぽいペイン
 ティングがされ、非常に目立っている。
 その隣のたこやき屋でたこ焼きを食った。6個で100円だった。
 小学生の女の子が3人集まり、そのうちの1人が他の2人にテレビの話を
 一生懸命している。


 震災の後がいまだに残る街並みを歩いて感じたのは、それぞれの場所で生
 活する人の生活感だった。人気のなかった所でさえもそれを感じた。
 それに比べると、自分はただの旅行者であり生活者ではなかった。


     1997年3月16日 小林アツシ(BXD01655@niftyserve.or.jp)
     1998年1月8日  誤字を修正


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