"La Jollaからのボトルメール" 第六回
"Bottle-Mail from La Jolla" #6

(Good bye and Good luck)

平岩"Ted"徹夫6


 帰国して半年がたつ。帰国後の時間の流れはとても速かった。"アメリカ滞在はあっというまだったね"と言われるケースが多いのだが、われわれとしてはけっこう長く感じていた。特に最初の4ヶ月と来たら…。どうしてこうも時間の流れが速いのだろうか、日本では。新聞はとっていないし、TVも地上波は見ていない(NHKもである)。世間から隔絶した生活をしているのだが…それでも変わりない[*1]

 帰国してからもうひとつ驚いたことは、危機感がないことだった。アメリカにいた時は地方のニュース番組でさえ、日本の経済状態が悪く、アメリカを含む世界に多大な迷惑をかけていることを報道していた。また、よほど思いきったことをしない限り(日本人にはできそうもないとのコメント付きでだが)、回復は見込めず、破産しそうだと言われていたのだ。ところがどうだろう、見たこともないような新型の車ばかり走っているし、たった4万キロしか走っていないチェイサーが二年の車検付き+liquid+バッテリなどすべて交換、整備済みで50万円もしないのである。町には相変わらず人で溢れているし、出国時よりなにもかも派手になっていた。どこにもこの国が破産寸前であるとの危機感がみられない。このお気楽さ加減はどこから来ているのだろうか…。どうしてこんなにも楽観できるのだろうかと。


…と約一年前に書いた文章は依然として改訂する必要がないようだ。経済状態はますます悪化しつつあるし、職は首になりそうだし…。国立の研究所を全部潰しちゃうんだからな…。

 



 遅い、遅すぎたよ….


 われわれの前に再び姿を表わした戦闘妖精雪風。作中の時間は、旧作からほとんど立っていないのだが、われわれを取り巻く時間は十年以上経っていた…。その間に航空宇宙技術は、一見停滞していたかにみえるものの、すさまじい変化を積み重ねていた。1985年時には近未来をうまく描けていたと思う。前作において実現可能な気分がする技術を描いたわけだが、この新しい作品では残念ながら現実に追い越されてしまっている。 秘密が多い航空軍事技術に関しては、今見えるもの実現しているもの記事ネタになるものはずいぶん昔に開発が始まったようなものばかりだ。たとえば85年頃CCVの研究が盛んに行われていた。がもうほとんど研究は終了していたと考えて間違いはない。今ではF16CCVのようなカナード、フィンがなくとも、CCV的な機動はできるようになってきている。いまでは却って余計なものを積んで、機体重量を重くするほうが大きな問題なのだ。また、今ホットなのは遠隔で戦闘機をコントロールする研究である。AIAAでもカンファレンスが始まっているUnmaned Command Air Vehicle,UCAVもしくはUAVと呼ばれるものである。AW&STやInteraviaなどで記事となったものを見ると、現在開発中の機体はまるでBatmanにでてくるようなものだ。しかし2015までにはUSAFの1/3が無人になると言われている…。fully-developedになったVRは、人間の感覚に対して本物と変わりないようなimageを与えるだろう。人間が乗ってるかのようにしてコントロールするある種の"フィリップナイト"は実用可能であり、現にUAVと組み合わせて開発中である。極度に指向性がある通信システムを構築できれば、乗っ取られる可能性も少なくなるだろう。これと空力による機動のかわりに、スラスタを使えば雪風の世界で重視されている格闘戦性能は極限までいけるだろう…格闘性能が一番重要なものであるならば。ベトナム戦争以来高いkinetic energyがある側が空中戦において優位に立てると考えられている。きわめて論理的な話である。いくら高い推力があるエンジンであろうとも、車と違いスロットルを開けても加速するまでには時間がかかる、撃墜されてしまうに十分な。推力は飛行速度の関数でもあるから騙されやすいのだ。dryで推力が高いからといって加速がいいわけでは決してない。だからAOAを120度にできるような機動、プガチョフのコブラにみられる高いAOAの機動も、現実には必要がないどころか危険なのだ。簡単に"ブーメランのように…"とあるが速度を落とし運動エネルギを削いでしまうことは命取りである。相手が気がつかない内に撃墜する、これが戦闘機がこの世に現れて以来の鉄則である。物理が変化しなければかわりそうにない鉄則ではないか。そのためには運動エネルギを失ってはいけない。運動エネルギを失えば撃墜される可能性が高くなってしまう。撃墜されなければ勝てなかったとしても負けではない。防戦一方のフェアリイ空軍にとって格闘戦に巻き込まれては戦略的に負けなのだ。


 超音速で飛行可能な航空機の推進機関において最も複雑なものはエンジンではない。インレットもしくはインテークと呼ばれる空気取り入れ口が実は最も複雑で重要なのである。どうもその点を、雪風シリーズでは勘違いしているようだ。いくつかpointを取り上げてみよう。

 エンジンインレットには一連の衝撃波が生ずるものの、"数種類"の衝撃波は存在しない。そもそも衝撃的に生ずる圧力変動である衝撃波に"種類"というものはないと思うが…したがってここは"数個の"とか"数枚の"としたほうが正しい。この衝撃波はランプなどの障害物によって発生する。このランプの位置、角度は、"(飛行)速度の関数として決定"できない。衝撃波は空気中を伝播していた情報(音などの圧力上昇)があとにあとにと先送りになり、たまってしまったから一気に借金を返済しようとしたものだからただならぬ変動になる。ということで周囲の影響や媒体(つまり空気それ自体)の影響を十分含んだ物になり、媒体自体の状態量、温度圧力などの関数でもなければならない。したがって、速度のみの関数ではなくマッハ数の関数(それだけではないのだが、主にと考えてほしい)になる。航空機は大気圧から1/100気圧ほどになる高高度まで動く。そこでは圧力だけでなく温度も大きく変化する。そのため音速が変化してしまうので同じ対地速度であってもマッハ数が異なり、マッハ角も変化、衝撃波群の形状も変化してしまう。それゆえ、"速度の関数という一義的で単純な"プログラムでは成り立たず、AOA、大気温度、静圧、ピトー圧などを元に最適値を求める必要がある。前作pp265に、"雪風エンジンコントローラは瞬時に各種センサから大気状態を調べ、エンジン動作を最適状態に"とあるからAICSは簡易なコントローラでないはずなのだ。マッハ数、音速は比熱比の関数だから、気体の成分に依存している。厳密にいえば酸素、窒素比などの成分が変われば変わってしまう。フェアリイと地球の大気成分が異なるからこそ、地球に来てテストしたのではなかったか? とすればAICSの記述は前作と矛盾する。


 機体に関していえば、エアブレーキは雪風、FRX00/99からはなくなっていなければならない。合計4枚のスタビライザがあるのだから。全動翼であれば、これらの迎え角を変えればエアブレーキになる。YF23が使用しているとおりだ。しかし、pp228にはエアブレーキの存在をほのめかしている文がある。とすればなんのために折畳み式のスタビライザなのだろう。


 吸気口に発生する衝撃波(群)を正しく制御利用できなかった…エンジンの燃焼効率が著しく低下…エンジン自体が破壊された…とある。インレット(インテークでも可)が正しく作動せず超音速流を飲み込んでしまい、エンジンコンプレッサ全面で衝撃波が発生すればエンジンが破壊されうる。が、地面にいて対地速度が0に近い状態ではないから流路ががばっと開くことは考えられない。逆にインレットがアンスタート状態(チョークつまり絞り過ぎてふんづまる状態)になれば、必要十分な空気を流せなくなり、フレームアウトとしてしまう。高速飛行中にフレームアウトすると極めて強い衝撃が生ずると、SR-71やXB-70の開発記録を読むと記述されている。これらの問題は、"空気が乱れる"と言う問題とは異なる。したがって、"加速しないから"インレットセッティングがうまくいっていないかもしれないと考えることは可能でも、エンジンが破壊させることはないだろう。また、"乱されたならば…アフタバーナの炎が…出力低下するのは当然だった"とあるが、アフタバーナはエンジン作動状態が悪くなればblow outしてしまい、黒煙を引くどころではない。可能性を追っていけばありうるかもしれないが、どーも想像力だけで記述している気がする。


 新しい"戦闘妖精雪風"を読むのは楽しかった。帰国してはじめての本だったからまた特に楽しかったのかもしれない。しかし…昔のSFを読んでいる気がした。最初の"雪風"を読んだ時のインパクトはもはやない。現実の技術をかじっている限り技術に関する記述がどうにも古臭いし、間違いが多いからでもある。その点では興醒めだったと正直にしるす。ではどうすればもっといい作品になりえたか。

 長篠の戦いにもあるように、籠城戦は外部から援軍がくるという前提でしか成立しない。つまり守勢だけの戦闘、戦略や戦争は成立しないということだ。たたいてもたたいても出てくるし、本拠地や正体すらわからないが攻撃を仕掛けてくる敵が存在する、異質な世界。神林長平が記述した世界は極めて異質である。そのbackgroundを記述できればそれだけでSFとなりうるものだったのではないかと考える。守勢だけしかとれず、どうしても負けられない環境での戦闘は戦術はどうなるのか。戦う人間の心理はどんなものになるのか? そのような環境を描くものとしてのひとつの解答として、戦術戦闘電子偵察機と記述されたシルフィードはリアリティがあった。EF-111の存在もそれに輪をかけていたかもしれない。東西ヨーロッパ全体をたった三機でカバー、ジャミングし電子情報を収集できる能力は雪風と良く似ていた。負けられないから負けた場合のデータも搾り取るというのはよくわかる。が、良く考えると集積したデータは即時性がなければ役にたたず、ただ持ち帰るだけでは意味がないのではないのか? The Gulf Warを見ればデータのshareが極めて重要だとわかる。負けられない状態で格闘戦を考えた高機動できる機体が必要なのか? 志気に最も影響をおよぼすのが仲間の未帰還、戦死であるのに、なぜ有人の機体が飛び回るのか? Mach3で飛行するミサイルを、トラック一台程度の設備のレーザで撃墜できる(それも弾頭と推進部の間をねらい撃ちして、だ)現代では、UAVがいつ実戦配備されるかという時代にはもはや"雪風"で記述されたメカニズムは古すぎる。その異質な環境をもっと深く掘り下げてくれていれば と思わずにはいられない。



 そもそも日本人(とひっくるめて良いかどうかは疑問だが)、論理に基づく議論、考察することができないようだ。WW2での日本の愚かさはすべてこれを起点としているし、(最近は消え去ったかに見える)教科書問題、石原慎太郎を筆頭とする議員の愚かな発言もすべてこの、論理にまつわる能力不足を明らかにしている。振り返ってみれば日本人はこの国を作り上げた時からこの能力に欠損があったのかもしれない。日本書紀、古事記とも自らの都合のみを優先し、理をと事実を無視して作り上げたものである。元軍人が戦後書いた回顧録や、つい10年程前に最盛期を迎えた仮想戦記ものと同列のものである。日本書紀の場合は特にその傾向がひどい。いろいろな記録や書物があったので作ってみた…とその一等最初の箇所に堂々と記述しているのである。万葉集から始まる短歌も結局はその流れに従った物であろう。目に見える物を観念と置き換え、観念こそが事実であると信じ込むすべをわれわれは国語という科目で学ぶのである。日本人には創造力が不足しているととかくいわれるが、そんなことはない。ないのである。創造力は現実に対処する新しい術をつくり出す能力である。現実が見えても見えないし理解できない者には創造力は発揮できない。大学を卒業するまで現実を認識し記述する術を学ぶ教育を全く受けられないのだから。私が研究者として過ごした10年でもっとも苦しく感じ、今もって達成し得ない能力こそ、この論理的に見、考える能力である。この能力と知識がなければ、研究者としてもっとも重要である"問題を見つける"能力が欠け、したがって解決もできず、論文もreportも書けなくなるのだ。  UCSDに留学して二年たくさんのことを学んだ。いま私はPh.D. candidateとなった。final defenceまではまだ長い道のりがある。日々の研究業務に追われて自らのことをこなす余裕は極めて少ないが、ぜひとも学位をとらねばならない。40も近いというのにまだ学生である。しかしながら大学、大学院で学んだことのなんと狭かったことか。まだまだ学生のようにして学ばねばならないことが多くある。留学して学んだもっとも大切なことが、そのことだった。


 人間は大別して二系統の言語体系を構築した。その一つは意志伝達を目的としたもので、もう一つは論理を記述するものだった。神林長平はこれまで前者に当たる、言葉とその力にまつわる世界を構築してきた。まるで工学的な実験をするかのようにして物語を作成してきた。言葉は世界を変えてしまうような力がある…そうかもしれない、言葉を使う動物、人間にとっては。言葉は結局人間の意志、概念から現れたものだ。それでは人間以外では? かれはJAMにそのような"なにものか"を見つけたのではないか? 人間とも、言葉ともつながりがない"もの"。生命とやらももっているかどうかもわからない。それとどうコンタクトするのだ? 前作では発見できなかった本来の脅威、つまり作者自体の世界観に対しての脅威を見つけたからこそ、この2作目が書かれたのではないか、と思う。物語は後半になればなるほど饒舌になる。人間とかけはなれたものを描こうというのだ。言葉は役にたたないが事を説明する…それゆえ饒舌になる[*2]。私はその脅威とは、JAMすなわち論理で構築される世界なのではないかと考える。それゆえコンピュータが戦闘の矢面に立つのである。言語体系で論理を記述しても、世の中のことをすべて記述できるわけではない。コンピュータも、神林長平は記述していないけれども、人間の論理記述方法に従って記述された限りJA Mに対して立ち向かえるかもしれないが、理解はできないはずだ。言葉で記述、理解できないものが存在する…神林長平は新たな敵を見つけたと考える。人間の言語で表現しえないものをどう表現するか興味深いところだ。神林長平は再び、みずからの世界を構築するため出撃したのだろう。Good bye and good luck。

Tetsuo "Ted" Hiraiwa


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【著者注】*1 公共放送と喧嘩した。見ないのに金を払う必要はない。それゆえ地上波は全く見ていない。CSだけである。CNNとDiscoveryとHistoryCHとESPNが命である(笑)。新聞をとらないので紙ゴミが減って助かっている。スーパーマーケットなどの広告がはいらないから不便だろうとも思っていたがが、食料品は単価が安いので食料品でけちったり安いものを買う努力をしてもセーブできる金額はたかが知れている。新聞を購読する金額で相殺されてしまうし…。
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【著者注】*2 内容が少ない論文ほど饒舌、長文になりがちである。内容が十二分にある場合はpp361のコンピュータの答えのように、A=B的な文章の羅列になるものだ。私事でもうしわけないが、こういう文章を四六時中書いているので、こういう文章がでてくるととてもうれしい。これこそが文章だと思う。前作ではこの雰囲気をもつ文章がもっとあったものだが…。
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