日本探偵小説紀行#1

『紀伊半島猟奇行』

宮沢善永


 どうもお久しぶりです。7日より旅行に出て、そのままパソコン持たずに帰省してしまった宮沢です。今日から職場復帰だけど少しぼけてしもうた。

 というわけでその旅行の話します。


 僕は今まで滅多に旅行などしたことないんだけど、今回ひとり旅に行ってきました。場所は紀伊半島。自分の根本を見る旅になるんじゃないかと思いつつ。


一日目 八月七日(土)

日野〜名古屋〜名張


 名古屋より近鉄特急で1時間半ほど、三重県名張市は紀伊半島の付け根のかなり内陸部に位置する。奈良市とも結構近い。別に観光名所でも何でもない。なぜ今回の旅の最初の目的地となったかというと、実は江戸川乱歩先生の出生地なのである。


 出生地ではあるが幼年時代に名古屋に転居した乱歩先生にそこで暮らした記憶は全くない。だが、出生の地に生誕記念碑(1955年61才のときに建立)があり、また市立図書館に乱歩コーナーがあるということは知っていた。


 先ずは市立図書館。駅からちょっと離れた高台の上。真新しい建物。確かに乱歩コーナーは実在した。図書館の利用案内に曰く、《本市出身の探偵小説作家、江戸川乱歩に関するコーナーで、乱歩の直筆原稿をはじめ愛用の遺品も陳列してあります。また、江戸川乱歩賞の受賞作品をはじめ、多くの推理小説を用意しています。》また、毎月第2土曜日には乱歩読書会も催されているそうだ。今度SRの例会でこの案内書配ってこよ、っと。

 遺品、写真等もだが、蔵書の珍しさにも目を奪われた。揃いどころか端本すらお目にかかったこともない昭和20〜30年代の全集とかも随分あった。涎が出る。こんな図書館身近に欲しい。(でも、あとで町中をいくら探しても新古を問わず本屋が見つからなかった。そんなところでは暮らせまい。)

 92年には《ランラン乱歩祭》とかいうのが開かれたそうだ。生誕百年の来年にも何かやるんだろうな。観光資源のないところは大変だ。


 宿にチェックイン後、雨振る夕闇の中を生誕碑探索に出立。場所がよくわからず、地図買ったら一発だった。名張市新町桝田医院の敷地内に立てられているとのことだったが、市街地図に医院が名前で乗っている。

 生誕碑は雨の中瀟洒に佇んでいた。


二日目 八月八日(日)

名張〜伊賀上野〜鳥羽


 午前中は雨も上がったので生誕碑で記念撮影したり、その側の名張川の川辺にて乱歩先生の短編読んだりして過ごす。

 残念だったのは名張名物乱歩せんべいが既に売ってなかったこと。生誕碑建立当時は二銭銅貨の形をした瓦せんべいを発売していたそうなんだが。


 午後より、伊賀上野。名張にはかなり近い。ここは松尾芭蕉と伊賀忍者で有名。芭蕉が実は忍者だったという説もある。

 探偵小説とのゆかりもないことはない。乱歩先生のお言葉《探偵小説にひとりの芭蕉を》もだが、乱歩先生の御先祖は藤堂家に仕え、上野城につめていたんだそうだ。山田風太郎が、乱歩先生の先祖と芭蕉が同僚で、「それがしは、うつし世は夢、夜の夢こそまことと思いますが如何に」とかいう会話を交わす「伊賀の散歩者」なる短編を書いているそうだ。未読だが、一度読んでみたいものだ。

 そしてさらに乱歩先生と芭蕉にはある共通の嗜好がある。やはりこの地方の出身者の南方熊楠を加えてもよい。この話もいずれしましょう。


 芭蕉関連の記念物は大したものなし。でもジャリ向けの忍者科学館で意外な発見があった。

 そもそも服部の氏は聖徳太子の部下に由来し諜報を司ったという。本地垂迹説の行基を国家権力は弾圧したが、それを守って立ったのが役行者らの修験者達である。その後、山岳仏教に日本兵法は流れ、平将門、源義経、楠木正成らを通じて、戦国・江戸時代の忍者につながる。

 忍はこの国の成立とともに生まれ、霊峰高野山を抱えたこの地でずっと受け継がれてきたのだ。


 午後遅く上野を出て、海岸部へ向かう。鳥羽に着いたのは6時頃。一日たたないと次にどうするか予定が決められず、予約を全くしていない。従って、宿探しに苦労する。結局、ツインの部屋にひとりで泊まることに。


三日目 八月九日(月)

鳥羽〜伊勢


 3日目は終日鳥羽にいた。

 さて、鳥羽というところも、乱歩先生に大いにゆかりのある土地である。


 作品では『パノラマ島奇談』(1927)。パノラマ島は、元来は沖の島と呼ばれ、M県のI湾が太平洋へ出ようとする、S郡の南端に、ほかの島々から飛び離れて、・・・浮かんでいる、とある。これはそれぞれ三重県、伊勢湾、志摩郡のことに間違いない。とすると、パノラマ島は、神島に相当する。神島は三島由起夫『潮騒』の舞台となったところだとガイドブックにある。私は『潮騒』は読んではいないが、三島も乱歩狂(たこい君のとこに埋もれている<デジャブ>3.6掲載予定の拙稿参照)だったので、そこがパノラマ島と知りつつ自作の舞台に取ったということは充分有り得ることだ。

 人見広介と菰田千代子が汽車の終点のT駅から、モーター船で沖の島へ向かった、とあるが、そこが鳥羽。


 そして鳥羽は乱歩先生が青春時代を過ごしたところ。

 若き平井太郎は23から24にかけての1年2ヶ月を鳥羽造船所で送っている。事務員として就職したが技師長に気に入られ、仕事らしい仕事はせず、雑誌の編集をしたり、押入の中で日がな一日寝て過ごしたりして暮らしていたという。

 江戸川乱歩先生というと世に出る前に様々な職業を転々としたり、あるいは例の厭人癖など、一種の性格破綻者だったという印象が強い。でも、そればかりでもなかろうという気がする。随筆などに見られる態度は結構あからさまだが、その中にもある種のポーズ、あるいは虚構が混ざっているのではないか。さもなけば平井太郎が鳥羽造船所を辞職した際に5人も殉じて辞めるわけがない(二川至(島田荘司『網走発遥かなり』)こと二山久を含む)。


 そしてこの地で一つのロマンスが生まれた。相手は坂手島の小学校教諭村山隆子。平井太郎青年は鳥羽お伽会なるものをつくり、近辺の小学校をまわっていた。そして鳥羽湾に浮かぶ坂手島の小学校で隆子に出会った。

 この話は非常にほほえましい。自らを恋愛不能者だと言う乱歩先生を射止めたのは彼女にしかできなかったことだ。これについてはあまりにも面白かったので3年ほど前に原稿書いて、コピーも取らずに海野家に送ってしまってある。どうしても知りたい人は『わが夢と真実』所載の「妻のこと」、あるいは講談社版『貼雑年譜』を参照のこと。


 さて、鳥羽は観光地でもあり、いろいろ見てまわると結構忙しい。おまけに当日と明日の宿の手配をしなくてはならなくて、輪をかけて無性に慌ただしかった。

 その中で鳥羽水族館の本館及び新館と真珠島まで見た。

 水族館、パノラマ島にも出てきたよな。

 ミキモト真珠島。偶然ながら本年が養殖真珠百年に当たるそうな。真珠造りの夢殿とか地球儀とかがある。五重の塔もあった。確かこれは二十面相に狙われたことがあったんじゃないかな。


 折角、観光地にいるのだからこうして名所も見てまわりはした。でも、僕は知らない町を歩いてまわったり、静かな場所を見つけて本読んだり考え事したりする方が好きなんだ、ということがわかった。

 若き日の乱歩が歩いたはずの町並みを歩き回った。造船場なぞ敷地も残っていない。高台に立つ鳥羽小学校の校舎は当時からの建物か。

 坂手島にも渡った。こちらの島は特に観光地でもなく昔ながらの風景だった。乱歩夫人の実家らしい雑貨屋があった。坂手小学校の校門にて佇み、八十年前のロマンスに思いを馳せた。


 そしてその晩は伊勢泊り。鳥羽は完璧な観光地で全然宿が取れなかったが、伊勢まで戻ればまだ当日でも予約が取れた。

 夜7時半着。ホテルを探して歩いていたら古本屋があり、ふらふらと入ったら、なんと<幻影城>が一冊350円で!売っていた。探偵小説の神様のお引き合わせ、とばかりに一冊買ったが、よく調べたら持っている号だった。残念。あと4冊なんだけどなかなか集まらない。持ってない号が見つかればもう最高だったんだけどなあ。


四日目 八月十日(火)

伊勢〜多気〜南紀1号〜くろしお24号〜串本


 紀伊半島東岸を南下した日。台風にたたられる。特急南紀1号は尾鷲の次の小駅にて3時間以上ストップ。特急料金全額払い戻しの上、パンの配給まで受け一食分浮いた。

 その間ひたすら南方熊楠を読み耽った。


 それはともかく。乱歩先生の作品のうちで宝探しが絡むものは全て三重県から和歌山県に至るこの海岸を舞台に取っている。北から順に作品名と場所と暗号を記す。

 『大金塊』(1940) 三重県長島 岩屋島(鬼ガ島)
   獅子が烏帽子をかぶるとき
   カラスの頭のウサギは
   三十ネズミは六十岩戸の
   奥をさぐるべし

 『怪奇四十面相』(1952) 和歌山県古座 森戸崎 髑髏島
   紀の森戸崎髑髏島
   髑髏の左眼をさぐれよ
   流るるなんだの奥へと
   ゆんでゆんでと進むべし

 『孤島の鬼』(1930) 和歌山県K(串本) 岩屋島
   神と仏がおうたなら
   巽の鬼をうちやぶり
   弥陀の利益をさぐるべし
   六道の辻に迷うなよ

 そしてまた『闇に蠢く』(1927)のヒロイン胡蝶が紀伊半島南端孤島人外部落の出だ、とある。 


 串本にたどりついたときはもう午後4時近く。取り合えず潮岬までバスで行く。雨は上がったが風が非常に強い。本州最南端碑の前で記念写真取りまくる。燈台もあった。『孤島の鬼』の舞台はそこより西だということは確実だが詳しいところはわからなかった。


五日目 八月十一日(火)

串本〜紀伊田辺〜大阪


 さて、紀伊半島に舞台を取ったのは何も乱歩作品ばかりではない。天藤真『大誘拐』(1979)は僕の日本ミステリオールタイムベスト10に確実に入る名作であるが、この日本最大の半島を自由自在に駆け巡り、最大限の効果を上げている。今回出立前に再々々…読してみたが、やはり巧さに唸らされた。百億円という大金を賭けた大勝負に弱点は微塵もない。しみじみした余韻はまた明日という日を生きる勇気を与えてくれる。

 柳川刀自の本拠地の津ノ谷村は熊野川上流40キロ、国道168号線沿い、新宮警察署の管内にある。モデルとなったのは三重県尾鷲市の土井家であろう。岡本喜八の映画では日高郡竜神村でロケを撮った。

 あの映画もとってもよかったね。でも、どれくらい観客入ったんだろうか。天童真のファンと岡本喜八のファンは絶対見に行ったろうが、それくらいでは高が知れているし。

 あの映画で嶋田久作は東京より赴任してきた新米刑事’東京’役を演じていたが、『帝都物語』本編に加藤保憲の出身地は日高の竜神村とあった。何かの因縁か、ミステリーゾーンが呼び寄せたか。


 あと紀州ミステリーで欠かせないのは蒼井雄『船富家の惨劇』(1936)。戦前では数少ない本格長編で、舞台は和歌山県西牟婁郡瀬戸鉛山村。白浜辺りか。風景描写の綿密さが奇怪な状況と融合し、一種独特の読みごたえを与えてくれる。熊野街道での追跡行が卓抜。

 そうだ、同じ作者の『霧しぶく山』(1937)も奈良県の大峯山だった(大笑)。


 今回の旅行では海岸部をまわるにとどめたが(だってそこしか鉄道が通ってないんだもの)、熊野や高野山の自然もできれば味わってみたかったものだ。


 5日目にして初めて晴れた。

 さて、この日の目的地は紀伊田辺。三人の異能の出身地である。武蔵坊弁慶、南方熊楠、そして合気道の創始者、植芝盛平。

 僕が合気道をやっていることも知っている人は知っていると思う。前々からなにか身体を動かすことを習ってみたいと思っていたが、今年の1月から思い切って始めてみた。なぜ大極拳や気功ではなく合気道、なのかは、やっぱり日本人だから日本の武道、ということなのか。自分でもよくわかりません。現在五級。

 津本陽『黄金の天馬』が植芝師をモデルにした小説だということで、読んでみて植芝師と南方熊楠に親交があったことを知った。


 駅で自転車借りあちこち見て回る。記念物は町のあちこちに散らばっていた。海浜公園のポーズをとった植芝翁の銅像の前でまたもや記念撮影。南方旧居の側のNTTの数階建ての建物の壁一面にやたら馬鹿でかく熊楠の肖像が描かれてたのはちょっと驚いた。熊楠と植芝師のお墓はなんと同じお寺にあり、文武両道での大願成就をしっかり祈念してきたのであった。


 熊楠にも以前から一応の関心はあったので河出文庫の選集(中沢新一責任編集)を持って出かけた。旅行と帰省の間に2巻半読めた。

 南方熊楠。博物学者。一代の碩学。植物学、微生物学、民俗学等の分野に大きな足跡を残す。知の巨人。衆道に対する関心も深い。(熊楠と乱歩を岩田準一が結ぶ!)

 熊楠の文章無茶面白い。紀州くんだりに蟄居していた彼だが、知友や学術誌、地元新聞等に様々な文章を書き送る。古今東西のありとあらゆる文献から引用する博覧強記ぶり。何よりも文体のノリがよい。馴れるまでちょっと時間が掛かりはしたが。


 驚いたことに彼が民俗学の上で用いた手法が僕の『大衆文化』論と非常に似ているのである。各民俗の神話伝説はその奥底に必ず何かが潜んでいる。その捉え方。これは後日もっとゆっくり考えてみたい。


 そしてもう一つ。彼はまとまった業績を残していない。英国留学以来ずっと在野を通した。それなのに後生の評価は伝説的とも言える。

 僕もクリエーターの端くれとして(書評だって、雑文だって、立派なクリエートだ!!)そのことにとっても勇気づけられた。創造者である以上何かライフワークを残したいと常々思ってはいるがなかなか難しい。普段あちこちに書き散らしている雑文はその下準備のつもりでしかなかった。ただ文章は書き続けることでどんどんうまくなる、そう思っていただけだった。

 でも書き続けたものの集積それ自体が筆者の予想をも越えた何か凄い意味を造り出すこともあるのだ。もっとも高品質のものを残さなければ後世の人だって評価はしてくれないわけだが(笑)。

 僕も探偵小説界の南方熊楠を目指そうか。ライフワークは造れた方が勿論いいに決まっているけど(笑)。

 南方熊楠の存在を感じたことだけでも今回の旅の大きな収穫だ。


 そして、さらなる収穫、なんと海水浴までできてしまった。紀伊田辺駅から徒歩10分くらいで市営の(?)海水浴場があった。ひたすら泳いだ。田辺の三人組も泳いだであろう海の水にたっぷり堪能した。僕が海水浴をどれだけ好きなのかも知っている人は知っている。


 夕刻くろしお30号にて大阪へ抜ける。左の車窓に夕闇の絶景が広がる。ああ、あの道路を『大誘拐』の放送車は走り続けたのか、などとも思う。闇にかすむまで見続ける。


 そういうわけでいろいろ得るものも大きくとっても楽しいひとり旅であった。


 乱歩ゆかりの地は東京にも随分ある。池袋立教中学校裏の乱歩邸は何回か行っ たことあるから(門の前までだけれど)、今度は多摩霊園だな。


(一九九三年八月)


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