佐藤健志氏の金城哲夫論について

ウルトラセブンを中心に

川端望


CONTENTS


1.はじめに


 佐藤健志の怪獣・アニメ評がけっこう話題になっているようです。私も、彼については色々と考えるところがあり、あるときは読書会でテキストにしようとして、他の先生に反対されて取りやめたりもしました。

 ただ、ここで発言しようとすると、例によってセンスのなさを暴露しそうなので、ちょっとためらうのですが、せっかくの機会なのでちょっとずつ書くことにします。


 佐藤健志の「ウルトラマンは、なぜ人類を守るのか?」(別冊宝島『怪獣学!入門』所収)に接したとき、私は複雑な感慨を禁じ得ませんでした。というのは、ひとつは彼の評論が、従来のウルトラシリーズ研究を越える作品評価や視点を打ち出してると思ったからです。全体としては、表題にみられるような、作品世界の基本構造にかかわる問題に立ち入っているし、個々の作品についても、これまで多くの人が暗黙の了解で見過ごしてきたところに、結構面白い問題を発見していたからです。他方では、彼の評論は、彼自身がそのつもりでしょうけど、たいへんポリティカルです。そして、彼のめざす方向性に感じる危機感というのも、ないではありません。特に、単なる社会体制の問題だけでなく、『紅の豚』に対する「中年オタクの思想を排す」といった評論タイトルに見られるように、私自身の生活圏に関わることのように思えたからです。


 そういう佐藤への敬意と不安と、対抗意識みたいなものがあって、何か一言、自分でも言いたいと思い続けて一年以上過ぎてしまいました。ここで、もし止めろという声がなければ、金城哲夫論、特に『ウルトラセブン』の時期に絞って、ちょこっとだけ書きたいです。対話の直接の対象は、前掲稿と、このもとになり、かつ、時期的には後で単著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』に収録された「ウルトラマンの夢と挫折」とします。ただ、ここアメリカの宿舎には両方ともないので、記憶と、これまで書いたノートを頼りにすることになります。要は、おまえは時間が余ってるのだろうという声が聞こえてきそうですが、まあ、日本で仕事をしてるときよりはそうです。そして、去年などは、日本にいると、部室にこういう文章をアップする余裕があまりなかったのです。

 さて、佐藤の評論は、チーフ・シナリオ・ライターである金城哲夫がウルトラマンにこめた思想・理念と実際の作品世界の構造を検討し、その矛盾と展開をなぞり、これを現実世界での「戦後民主主義の破綻」につなげています。でも、私は、もう少し異なる文脈で、金城作品は考えられないかと思うのです。


2.金城の戦略と、二つの作品群


2.1.金城哲夫のテーゼ


 池田憲章によると(『ファンタスティック・コレクション ウルトラセブン』)、金城哲夫は第1話「姿なき挑戦者』シナリオの余白に、「このシリーズのテーマ」と題して次のように書き残しています。

 「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」

 これは、結構重大なことを言ってないでしょうか。

 ヒーロー番組の場合、作品世界と視聴者の世界の間に、どうしてもある種の単純化を持ち込むことを要請されます。相似性とでも言ったらいいのでしょうか。つまり、作品世界の主人公の立場がそのまま視聴者の立場であり、子どもたちは「ウルトラマン、がんばれ!」と応援するという対応関係です。そのためには、「怪獣もしくは宇宙人=悪。地球人とヒーロー=善」という、基本的な図式を保っておかねばなりません。

 ところが、完全平和の現実性はないと、しょっぱなから金城は言っているのです。それなら、「宇宙人=悪。人間=善」という図式にも、地球防衛の立場にも現実性がなくなります。作品世界の基本的前提を、「宇宙人の侵略がなければ地球人は到底一致団結などできない」という、ある意味ではさめた眼でとらえているのです。しかも、たださめてるだけではありません。そういう非現実的な完全平和と、それを乱す宇宙人、という図式の中から、何か、現実へのインパクトが生まれないか、と模索しているのです。このインパクトは、「そうだ、ぼくたちも悪と戦うぞ」という単純なものに限られず、色々な可能性に開かれています。戦争映画が、戦争賛美か反戦かに単純化されないのと同じです。

 この複雑で、媒介項の多いテーゼは到底スタッフ全体の共通了解にはなり得ないでしょう。池田は、このテーゼが実際に作品のテーマであったかのように論じていますが、それは無理ではないでしょか。むしろ、このテーゼは、金城が個人的な理由から、『セブン』の製作方針にひそかな修正を加えようとして書き残したものではないか……。そんな風に、私は考えてみたいし、考えられると思うのです。

 金城は『セブン』のチーフ・ライターです。従って、「宇宙人=悪。人間=善」という前提に従った本格娯楽作品を、シリーズの要所要所に配置しなければなりません。自分なりのテーマを追求するとしても、それは、基本的前提の範囲内にとどめることを要請されます。けれど、まさにそのことが、金城には欺瞞に思え、耐え難かったのではないでしょうか。佐藤を含めて多くの人が言っているように、彼は、占領下の沖縄出身を強く意識していたこともあり、人間の相互理解や完全平和がいまだ実現していないことへのこだわりを捨てられず、「強いものが弱いものをやっつけるのは間違っている」という信念を持っていました。こういう人がウルトラシリーズのメイン・ライターであれば、当然自分の表現したいことと作品世界の基本的前提に矛盾を感じるでしょう。

 特に、『ウルトラセブン』の製作にあたっては、妥協的な要素があったときいています。『ウルトラマン』の世界を完結させた後、少なからぬスタッフは、もっと別の空想世界へ飛び立ちたかったのではないでしょうか。しかし、TBSやスポンサーとの関係で、「巨大ヒーローと防衛隊の話」として『ウルトラマン』と類似のシリーズにせざるを得なくなりました。例えば、実相時監督がこれをかなり否定的にとらえていたことが、氏の著書『星の林に月の舟』からはうかがえます。しかも、これはどういう経過でそうなったか忘れましたが、『セブン』の世界の地球防衛軍は、かなり本格的な軍隊で、すなおに軍隊として描かざるを得ないところがあります。科特隊のように、ファンタジー調にはできません(なお、佐藤はこれを「ファンタジーという居直り」と言ってますが、それは「この非常時になにをやっちょるか」の類ではないかと思います)。金城が「正義の軍隊」を理屈抜きで活躍させられる人でないことは、数々の伝記的文章からくみ取れます。なんと言っても、沖縄は日本軍が日本人を少なからず殺したところなのです。

 こうした状況下で、金城は、なんとか矛盾を解決する方法を考えたに違いありません。基本前提に従って自らの職責を果たすことが、同時に自らのテーマを表現することになるような、逆説的な文脈はないだろうか。そして、それは発見されました。上記のテーゼこそ、その文脈だった、と私は推測します。


2.2.佐藤健志の評論方法


 ここでいったん、佐藤の評論方法にふれましょう。佐藤は、金城のかかえたこの矛盾に着眼し、その展開として主要作品を解読しようとしました。多くのセブン論が、金城の素直な思想表現としてセブンをほめたたえていただけに、そこに矛盾・葛藤を見いだしたことは、誰よりも鋭いと思います。これまでの少なからぬ怪獣評論は、「子ども番組であっても、これだけのことができる」という形でなされてきました。しかし、子どもはとにかくとしても、テレビ局やスポンサーとの関わりの中で作品世界に生じてくる種々の外的制約が、脚本家の表現しようとすることとどのような関係にあり、そこから何が生まれてくるかを見なければならなかったはずです。このことを気づかせてくれたという点で、佐藤の評論はファンの間に一石を投じています。

 ところが、佐藤は、この矛盾の一極だけに関心を集中します。つまり、作品世界の制約の方は無視して、「金城が矛盾してる」とだけとらえ、この矛盾が解決できないと、「金城が破綻した」とだけとらえるのです。これは、あまりに一方的です。

 この態度は、もう少し具体的な次元では、佐藤が、さっき言った作品世界と視聴者の世界の相似性を前提しているというところにあらわれます。作品の中で「強いものが弱いものをやっつけるのは間違っている」という考えが破綻すれば、ただちに金城のテーマも破綻すると決めてしまっているのです。ペダン星人は裏切ったではないか、何が宇宙人同士の約束だ、甘いことを言うな、これは金城もとらわれていた、戦後民主主義の「権力的でない政府はありうる。話し合いで解決せよ」という幻想と関係している云々……。

 こうなるとやや単純であって、「殺人シーンが多いから子どもに有害だ」とか「資本家階級の恋愛を描くからブルジョア的だ」の類になりかねないと思うのですが、今それより大事なことは、こういう風に作品世界と現実を直結すると、金城の逆説的な戦略が見えなくなってしまうということです。そして、実際、そのことが佐藤の作品評価の中身にも影響していると私は思うのです。


2.3.二つの作品群


 金城の作品群の検討に入る際に、一話完結式テレビシリーズという『セブン』の形式についてふれておかねばなりません。シリーズは、独立性の強い個々のエピソードの集合として成り立っています。金城といえど、自分が書くべき作品のすべてに、作品世界を相対化するしかけをつくり出すことは、あまりに至難でした。結局金城は、いくつかのエピソードでは作品世界の大前提そのものに挑戦したけれど、少なからぬ作品では「地球人=善、宇宙人=悪」という地球ナショナリズム的前提をおき、その範囲内でテーマを追求することにとどめたのです。もちろん、二種類にスパッとわりきれるものではないけれど、前者の態度が強い作品(作品群1と呼ぶ)と後者にとどまる作品(作品群2と呼ぶ)の区分は比較的見えやすいのではないでしょうか。

 私の意見では、「狙われた街」、「ノンマルトの使者」の二本は明瞭に作品群1に属します。この二本では、作品世界内の地球ナショナリズムを相対化することがテーマを表現する上で不可欠です。

 これに対して、「姿なき挑戦者」、「宇宙囚人303」、「空間X脱出」、「零下140度の対決」、「蒸発都市」、「史上最大の侵略(前・後)」は、むりやり二種類に分ければ作品群2に属する。究極的には地球ナショナリズムが前提されているからです。

 両者の中間には、「魔の山へ飛べ」と「ウルトラ警備隊、西へ(前・後)」があります。ただし、後者は作品群2の枠の中で、これを乗り越えようと試み、それ故、矛盾が激しくなって、佐藤に指弾されることとなりました。

 この分類に従う場合、佐藤の一面性がはやくもみえてきます。彼は、作品群2しか分析の対象にせず、「狙われた街」と「ノンマルトの使者」を完全に無視しているからです。

 では、作品群1と2の違いとは具体的にどうであり、佐藤が1を無視したことの問題とは何でしょうか。


3.セブンはなぜ地球を守るのか


3.1.モロボシダンとウルトラセブン


 金城は、第1話「姿なき挑戦者」において「金城はなぜウルトラセブンが地球を守る気になったのかなどという動機づけについてはまったく説明しようとしせず」「モロボシ・ダンをいきなり登場させた」。これが金城の苦悩のあらわれだと指摘した佐藤の文章を読んで、ハッとさせられました。佐藤は、金城が『マン』でそれなりにテーマ的な決着をつけたために、『セブン』の世界に発展性を見いだせなかった、あるいは見いだすのに苦労したことを見抜きました。これは、別の言葉で言うと、通常、『新マン』や『エース』以降について言われるシリーズ化の弊害が、『セブン』からすでに見られると言うことであって、『セブン』がシリーズの最高峰とされることが多いだけに、問題提起になっているでしょう。

 もともと金城は「宇宙人ヒーローにとって、地球が守るに値するのは当然だ」という前提に安住してシナリオを書ける人ではなかったでしょう。『マン』ではウルトラマンは、何よりも自分が誤って死なせてしまったハヤタを生かし続けるために地球にとどまっていたのです。そして、ウルトラマンは地球人が好きになった。この点、「ファン・コレ」で池田憲章が言ってるとおりだと思います。

 これに対して、『セブン』における「動機づけの欠落」は、地球ナショナリズムを前提するという、作品群2の問題を象徴的にあらわしてるように思えます。これ以降、シリーズを通して、セブンが地球防衛を決意するに至った動機は説明されないのです。

 では、このことから佐藤が言うようなナショナリズムをめぐる示唆しか引き出せないのでしょうか。私は、その前に、「動機づけの欠落」にもかかわらず、金城や他のライターが、セブンが地球にいつづけることの意味を描こうとしたことに、もう少しつきあってみた方がいいと思うのです。

 ダンは第1話では唐突に登場しますが、セブンの地球到着の話が描かれていないわけではありません。ただ、それは、金城ではなく上原正三によって、「地底Go!Go!Go!」で描かれているのです。

 金城執筆でないから、取り扱いに悩むのですが、地球人モロボシ・ダンが何物であるかは、シリーズの基本設定に関わる問題であり、上原が執筆したとしても、そこにチーフ・ライターである金城の構想と大きく矛盾するものが入ることはなかったと思います。また、上原は金城と異なる作風を持ちながらも、やはり出身地である沖縄と日本の関係にこだわり続けたという点で、金城と共通の方向性を持っているとみてもそう間違いではないと思います。『私が愛したウルトラセブン』で一部映像化されたボツシナリオ「300年間の復讐」、「新マン」の「怪獣シュガロンの復讐」「怪獣使いと少年」(果ては『太陽戦隊サンバルカン』の「エスパー」「日見子よ」とか……いいんですけど、別に、あきれてくださっても)などをみても。そこで、金城作品に準じるものとして話を進めます。

 原因不明の落盤事故で、一人の炭坑夫が生き埋めになり、救出と原因調査がウルトラ警備隊に依頼されます。この生き埋めになった男・薩摩次郎は、ダンに生き写しです。実は、彼は、ウルトラセブンが地球に到着したときに出会った青年なのです。断崖を登る仲間の命を救うために、自らザイルを切って谷底へ転落していく次郎を救ったセブンはこうつぶやきます。

 「仲間を救うためにザイルを切った−−なんと勇気のある青年だ。そうだ、この男の魂と姿をモデルにしよう」。

 こうして、次郎と生き写しの地球人・モロボシ・ダンが誕生したのです。

 では、モロボシ・ダンの人格とは、何なのでしょうか。それは、地球人・薩摩次郎のコピーなのでしょうか。それとも、M78星雲人・340号=ウルトラセブンなのでしょうか。

 この点も池田が述べているのですが、モロボシ・ダンは、ウルトラセブンとは別の地球人的人格をもっていたように描かれています。宇宙人セブンがマックス号をみて「かっこいいなあ」というのも何だし、吹雪の中で迷いながら、「基地に着けば、スチームとコーヒーが俺を待ってるぞ」というのも何だし、誰かが言ってたように「アンヌが俺を待ってるぞ」と聞こえないこともないし。

 しかし、一方で、宇宙人として語り、行動している部分も見られます。ペガッサ市と地球の衝突の危険に際してのダンの苦悩は、セリフにはあらわれないけど見事に宇宙人の見地で描かれているし、「血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」というセリフもセブンとしてのものだし、ノンマルトの存在に動揺するのもM78星雲人としてです。

 地球人薩摩次郎のコピーから生まれた人格として、あるいはM78星雲のウルトラセブンとして生きる、モロボシ・ダン=セブン。そこには、地球人であることと宇宙人であることのズレがあります。

 では、ダンであることとセブンであることの関係は、どうなるのか。ここで考えたいことは二つあります。一方では、これまで多くの評論が言ってきたように、それが、金城が描きたかったであろうことと関連してくるということです。しかし、もう一方では、佐藤健志が問うている問題で、「セブンはなぜ地球を守るのか」が説明抜きになっていることが、テーマ表現に制約や予期せぬ文脈を与えないのかということです。


3.2.最終回……セブンはなぜ変身したか


 『ウルトラマン』の第1話が最終回につながっていくように、「地底Go……」は最終回につながっていきます。そこで、最終回のストーリーを追ってみましょう。  長期にわたるたたかいによってダンの肉体は消耗し、そのため、ゴース星人とのたたかいのさなかに倒れてしまいます。レントゲン写真をとられることで宇宙人とわかってしまうことを恐れたダンは、メディカル・センターから姿を消し、ポインターの中でぐったりしているところを明夫少年に助けられます。

 ゴース星人は、ドリル・ミサイルでニューヨーク、パリ、モスクワなどを攻撃し、地球防衛軍に降伏を迫ります。防衛軍は、彼らの基地が熊が岳の地底にあることを察知し、自動操縦のマグマライザーに爆弾を積んで攻撃しようとします。基地にはアマギ隊員がつかまっていますが、彼一人のために作戦を中止にはできません(前・後編なのに、なんか簡単に要約できるなあ)。

 その様子をビデオ・シーバーで知ったダンのところに、明夫少年から通報を受けたアンヌがかけつけてきます。「なぜ逃げたりなんかしたの」ときくアンヌに対して、ダンは、自分がウルトラセブンであることを打ち明けます。そして、あまりに有名なセリフ、

「びっくりしただろう。」
「ううん、人間であろうと、宇宙人であろうと、ダンはダンにかわりないじゃないの。たとえ、ウルトラセブンでも。」
「ありがとう、アンヌ。」

 そして、アンヌの制止をふりきって変身するダン。

「待って、ダン、行かないで!」
「アマギ隊員がピンチなんだよ」
(すがりつくアンヌの手をふりほどくダン。「あっ!」「じょわっ」)

 私は、このシーンを「地底Go……」に重ねて考えたいのです。ダンは、はじめ単に薩摩次郎のコピーであり、M78星雲人セブンとはズレのある人格だったのでしょう。しかし、ウルトラ警備隊の仲間と苦楽をともにしているうちに、地球人モロボシ・ダンという、独立の人格が生まれてきました。その過程は、M78星雲人セブンが地球人を好きになる、特にアンヌを愛する、という過程と重なっていたのではないでしょうか。そうして、セブンとダンという二つの人格が重なっていくならば。それならば、「人間であろうと、宇宙人であろうと、ダンはダンにかわりない」のではないでしょうか?

 あとで突っ込んでみますが、この話は「地球人=善、宇宙人=悪」の地球ナショナリズム的前提でつくられてはいます。『マン』でもそうだったように、最終回でこの図式を避けることは相当困難だったでしょう。しかし、金城は、そこに安住することをよしとしませんでした。確かに、セブンはバンドンとの最初の戦いでは、地球を守るためにセブン上司の制止をも振り切って変身します。しかし、最後の変身の意味は少し違います。ダンが変身しようがしまいが、マグマライザーが自動操縦で敵の基地に突っ込むことは決まっており、変身しなくてもゴース星人は撃退できるかもしれないのです。それでも、ダンは命がけで、セブン上司と、一番大切な地球人であろうアンヌを振り切ってまでも、変身します。それは、アマギ隊員を救うためでした。ばくぜんとした地球全体や抽象的正義のためではなく、アマギ隊員のために、変身する……、そこに、ダンが抽象的な正義の味方でなく、モロボシ・ダンであることの具体的な姿があります。後年、『ザ・ウルトラマン』『ウルトラマン80』などで、いたずらに自己犠牲を描いて盛り上げようとする愛と勇気のダンピングが横行したのとは、次元が違うのではないでしょうか。

 結果としては、大爆発を起こすゴース星人基地から改造バンドンがあらわれ、セブンはたたかわざるを得なくなります。そして、苦戦するセブンを見上げる隊員たちに向かってアンヌが叫びます。

「ウルトラセブンの正体は、あたしたちのダンだったのよ!」

 そしてキリヤマ隊長は、セブンを見て「ダン!」と呼び、これ以後、隊員たちはラスト・シーンまでセブンを「ダン」と呼びつづけます(改造バンドンを出さざるを得なかったことにも意味はあるし、ここで、アンヌとキリヤマのセリフの半分を省略してますが、それはまた後で)。

 よく言われることですけれど、ここで金城は、地球人とM78星雲人という、種族や発達経過、あるいはそうしたカテゴリーの通用しそうにない他者性を際だたせながら、それを超えた、少なくとも超えようとした人々というか諸個性を描きました。そして、ある側面では、『ウルトラマン』を越えた見事な表現に成功していました。『マン』の最終回では、テーマ表現が戦いのいっさい済んだ後、ウルトラマンとゾフィーの会話で、やや唐突かつ説明的になされていました(だからこそ見ていてハッとするという効果はあるにせよ)。これに対して、『セブン』では、ダンとアンヌが互いによせる思いと、アマギを助けに行くダンの決意が、ストーリー進行の要として具体的に描かれています。ここに私は、金城の『マン』以来の執念と、脚本家としての職人技を感じます。もちろん、彼の願いは容易にかなえられるものではなかったし、その困難は、沖縄へ帰ってからの、沖縄人にも本土人にもなり切れないという苦闘と、酒浸りになって階段から転落死するという、彼自身の悲劇さえも生みました。しかし、もし『セブン』を見る人が、その世界になにがしかのリアリティを感じるならば、彼の願いは全くの幻想ではないのだと思います。市川森一が『私が愛したウルトラセブン』の中でゆり子に言わせたように、アンヌの言葉は、彼自身に向かってもいたはずなのです。

「琉球人であろうとヤマトンチューであろうと、金城さんは金城さんに変わりないじゃないの」。


3.3.佐藤健志の最終回論


 ここで、とりあえず佐藤健志の最終回への読み込みに触れておきましょう。彼は、金城はナショナリズムや力による統治を否定する国際平和主義者であったが、それは色々な経過(あとで論じますが「ウルトラ警備隊、西へ」などのこと)で破綻し、ついに開き直ってナショナリズムの全面肯定、つまり、地球を力で守り抜くことに走った、それが最終回だと言っています。そして、ナショナリズムを肯定するならば、当該国民(地球人)が自力でたたかわねばならないにもかかわらず、セブンに依存し続けたことが、セブンを殺してしまったかもしれないという重苦しい結末を招いたのだというのです。ラスト・シーンでソガ隊員が言うように「ダンは、死んで帰っていくんだろうか。もしそうなら、ダンを殺したのは俺たち地球人だ」ということなのです。ナショナリズムや権力を拒否するから、現実とあわなくなり、結局逆の極端なナショナリズムに走ったり、自分を守ってくれた者を殺してしまったりする。そういう破綻の道よりも、適度なナショナリズムや権力の存在を肯定し、自国の防衛と国際貢献・国際協調のために尽くすべし、と言うのです(私の解釈でなく、佐藤が明文でこういう趣旨のことを書いている)。彼は、この論法で『ヤマト』や『ゴジラ』をも論じています。

 その政治的主張そのものの是非はとにかく、『セブン』最終回への読み込みとしては、どうしても一面的です。彼は、ダンが、ゴース星人打倒のためでなく、アマギを救うために変身したことを無視しているからです。ここ抜きに金城の思想も破綻もあるかと、私は言いたい。金城は、ダンが、アンヌとわかりあい、アマギ隊員のために変身したことを、正義一般や地球(国家)全体への献身とは異なるものとして描いたのです。単なる自己犠牲でなく、種族その他を越えてわかりあうことへの挑戦として。だから、ダンが死んだかもしれないとしても、ラスト・シーンに何の救いもないとは、私は思いません。セブンは、地球人ダンになって、アンヌを愛し、アマギを助けることができたのだから、悲劇的結末かもしれなくとも、「破綻だ、価値がない」ということにはならないはずです。

 金城は、自ら書こうとしていることが、現実世界でどれほど困難であるかを感じていたからこそ、悲劇の要素を入れざるを得ませんでした。しかし、同時に、悲劇を覚悟してでも求めずにいられないものを描いたのだと、私は思うのです。

 ところで、なぜ佐藤健志は、ダンの行動を地球全体のための自己犠牲としかとらえないのでしょうか。それは、彼がダンや隊員たちという個人を直接にアメリカや日本という国家と重ねており、これを動かすべからざる前提にして話を進めているからです。もし、こうした国家観で作品を裁断せずに、ダンの行動を見ていけば、佐藤は自分の主張と逆の結論さえ出てくることに気づいたかもしれません。つまり、最終回からは、草の根の諸個人が理解しあうことぬきの、天から降ってきたような国際協調なんてまゆつばなんじゃないの、という教訓も引き出せないことはないのです。私は、自分でこういう教訓を作品論としてふりまわすつもりはないですけれど、佐藤がその着眼点の鋭さにもかかわらず、ここで評者と作品との「対話」でなく一方的「裁断」を行っていることを示しておきたいのです。作品論で主観が入るのは当たり前ですが、作品と対話しながら自分の考えを形成していくのでなく、作品がどうあろうと絶対動かさない前提でぶったぎる、というのはどうなのでしょうか。かつての自分の本の読み方がたぶんにそうだっただけに、気になってくるのです。


 かなり強く批判しましたけれど、じゃあ佐藤の指摘はまったく我田引水かというと、私はそうは思っていません。最終回には、金城が自らのテーマを表現しようとしても仕切れないようなある制約があって、それが、佐藤が指弾する側面をなしていると思うからです。それは、作品群1と2の区別にかかわります。しかし、ややこしいのですが、その側面をもっと掘り下げていくと、やはり佐藤とは異なるところに、私はいきつくのです。


3.4.「地球防衛友だち」


 唐突ですが、H大学獣医学部のやんごとなき生活を描いた佐々木倫子『動物のお医者さん』の第何巻だったかに、外国の雑誌に論文を投稿してレフェリーからの手紙を待っている、菱沼さんと神谷くんの「返事待ち友だち」の話があります。それは、「どうせ臨時の友だちだ」というはかない関係で、片方に返事が来るとたちまち消滅してしまうのです。

 さて、では「地球防衛友だち」だったらどうでしょうか。ひょっとすると、やっぱり、その目的の前でしかわかりあえない、臨時の友だちなのでしょうか。

 『セブン』の作品群2の場合、どうしてもこういう側面が出てこざるを得ません。金城が描いたダンとアンヌ、隊員たちの友情や信頼といったものも、作品群2の中では、地球防衛という大目的に即して語られることが多いのです。

 たとえば、「宇宙囚人303」では、地球に逃亡してきたキュラソ星の指名手配犯を倒す中で地球とキュラソ星に国交が生まれ、ダンは「宇宙でも、この地球でも、正義は一つなんだ」と確信します。「魔の山へ飛べ」では、フィルムに生命を吸着させてしまう生命カメラに撮影されてしまったダンが、アマギ隊員の努力で救い出され、「まさに命の恩人です。ありがとう」と言います。また「零下140度の対決」では、地球防衛軍を凍り付かせようとして失敗したポール星人が、「われわれが敗北したのは、セブン、君に対してではない。地球人の忍耐だ。人間の持つ使命感だ。そのことを、よく、知っておくがいい。ハ!ハ!ハ!」と捨てゼリフを残して去っていきます。

 地球を守ることを通じてセブンが、あるいは薩摩次郎のコピーがダンという人格になり、アンヌを愛し、ウルトラ警備隊の仲間と信頼しあっていくプロセスを描くのであれば、その「地球を守る」ことの意味が描かれれねば説得力がありません。しかし、金城にはそれができませんでした。彼は、地球の完全平和ということ自体に説得力を持たせるのは不可能だと思い、冒頭の逆説的戦略に出ざるを得なかったのです。ところが、この戦略は毎回は実行できないので、作品群2では、「セブンはなぜ地球を守るのか」が不明のままになってしまったのです。先述の「動機づけの欠落」です。上原は、おそらく金城の意向もくんで、「地底Go!……」でこれを何とか修復しようとしました。その結果、ダンという存在が何であるかがかなり具体的になり、最終回では、金城の努力で、前回述べたような表現に成功した、と、私は理解します。

 しかし、「動機づけの欠落」そのものは埋まっていませんでした。薩摩次郎が仲間を救うためにザイルを切ったことへの感銘は、地球を守る理由にはならないからです。そして、最終回でさえも、前回述べたようなセンと微妙に交錯しながら、動機不明のまま「地球を守る」というセンも見えてくるのです。最終回は、ある種の二重性を持っていると思うのです。そして、佐藤健志は、この後者に気づいたのです。

 佐藤は、鋭くも、セブン上司とダンの会話が、『マン』でのゾフィーとウルトラマンの会話と似て異なるものであると気がつきました。M78星雲に帰るよう勧告されて、ウルトラマンは「私は帰れない。私が帰ったら、ひとりの地球人が死んでしまうのだ」といいます。何よりもハヤタを生かし続けるために、ウルトラマンは地球にとどまっていたのです。ところが、セブンは「この美しい星を狙う侵略者たちは後を絶たない。僕が帰ったら地球はどうなるんだ!」と、苦しそうに叫ぶのです。ここでは、セブンは「美しい地球を守る」ために、身体に変調をきたしながらも戦い続けるのです。なぜ、そこまでして、……それは、金城にも説明できなかったでしょう。説明できないけれど、最終回はそこまでダンを追い込まねばならない。このシーンから受ける殺伐とした印象は、金城のジレンマに重なるものでしょう。  金城の必死の努力によって、セブンがたたかう理由は、1度目の変身での地球のため、から、2度目のアマギ隊員を助けるために、そして抽象的な「美しい星」への思いはウルトラ警備隊の仲間たち、特にアンヌへの思いに具体化されました。1度ぶったおれることを媒介にアウフヘーベンされたとでも言うべきでしょうか(笑)。

 しかし、それでもなお、原罪は至る所で作用しました。盛り上げるためでしょうけれど、ゴース星人基地大爆発で話は終わらず、もう一度改造バンドンが登場してしまいます。そうすると、アマギのためだけに変身したはずのセブンは、結果として地球のためにたたかうことになります。そして、前回の引用で省略した部分を補ったアンヌとキリヤマのセリフは以下の通りです。

「ウルトラセブンの正体は、あたしたちのダンだったのよ!M78星雲からこの地球を守るためにつかわされた平和の使者で、自分を犠牲にしてまで地球のために戦っているんだわ。でも、もうこれが最期の戦いよ。ダンは自分の星に帰らなければならないの。」
(セブンの頭を強打する改造バンドン)
「ダン!行こう。地球はわれわれ人類が、自らの手で守らなければならないのだ!」
(飛ぶ、ホーク1号のα、β、γ号)

 ここで、実はシリーズを通してただ一度、セブンは「地球を守るためにつかわされた平和の使者」とされています。これは、円谷プロの公式見解とも異なるので、どちらが正史(笑)なのかはわかりません。しかし、最終回のラスト近くで突如として言われるあたり、金城が本当に描きたかったこととのズレが感じられないでしょうか。実際、このシーンは、ダンとアンヌの別れのシーンとは異なるセンが入っています。ここでは、ダンと隊員たちは「地球を守る」上での仲間なのです。地球を守るために命をかけてくれるからこそ、セブン=ダンと隊員たちとの共感が成り立つのです。それは、「人間であろうと宇宙人であろうと、ダンはダンにかわりない」というメッセージとは似て異なります。ちょっと極端に言えば、ある特定の仕事をいっしょにやれる限りにおいて友だちだということと、特定の能力・思想に関係なく友だちだということは異なります。

 で、こうして二つのセンをからませながら突っ走っていった結果、ラスト・シーンも二重性を持っていると思います。一方には、ダン、アンヌ、アマギ、ソガ、フルハシ、キリヤマ、クラタという具体的な諸個性がいます。あるいは、薩摩次郎のコピーを越えた、ダンという宇宙人であろうと地球人であろうとかわらない個性の誕生があります。しかし、一方では、「地球を守るために命をかける」という至上命題があって、その限りでの宇宙人と地球人の交流があります。

 ソガ隊員は言います。

「ダンは死んで帰っていくんだろうか。もし、そうなら、ダンを殺したのは俺たち地球人だ。やつは傷ついた体で、最後の最後まで、人類のためにたたかってくれたんだ。ダンを殺したのは俺たちだ。あんないいやつを……」

 このセリフは、ただちに「なぜ、そこまでしてセブンはたたかったのか」という問いを生まざるを得ません。その答えも二通りあり得ます。一つは、セブンはダンになったのであり、そのダンは隊員たちが好きであり、誰よりもアンヌが好きだったからです。だから、ことのついでにその同類である地球人を守ったのです。この場合、「人類のためにたたかってくれた」というのは、地球人の方の「地球防衛=至上命題」という思いこみから来る大言壮語に過ぎません。金城が追ってきたセンは、むしろこういう解釈につながると思います。

 しかし、私としては残念なのですが、もう一つ、セブンが地球を守る動機がまったく描写されてない以上、とにかく「地球人=善」で「宇宙人=侵略者」だからだ、という答えも十分に可能なのです。これでは迫力がありません。ソガ隊員が感動し、悔やむのは当然としても、そこに共感することは、今の私にはできないのです。ここでは、作品世界を構築しきれなかったという点で、ある種の破綻があります。それは、「動機づけの欠落」が作品群2にもたらしたものであり、最終回さえもその弱点を克服しきることはできなかったということなのです。


3.5.『セブン』最終回の位置について


 ここで冒頭の問題にかえるならば、金城が「このシリーズのテーマ」とまで言い切った逆説的戦略は、最終回では発動されなかったと言えるのではないでしょうか。

「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」

 宇宙人の侵略でもなければ地球人は団結しないのであり、その団結による平和の達成は、一方では現実世界と異なるがゆえのインパクトを持つし、またそういう特殊な平和ゆえの色々な特徴を帯びてくるでしょう。そこから何が生じるか……というのが、作品群1だと、私は思います。

 これに照らして最終回を考えるならば、次のようになると思います。(1)最終回は、作品群1の世界には属しません。上述したような文脈では理解できないのです。(2)そのかわりに、平和という特定の事項を突き抜けたダン、アンヌ、隊員たちのドラマを描くことができました。これは、金城が当初「テーマ」としたものとはむしろ異なり、「ウルトラマン」のテーマをふくらませた形になりました。(3)しかし、「完全平和」=「地球人=善」の図式の抽象性から抜けきることはできずに、全編に二重性を残したままに終わりました。

 従って、よくも悪くも、最終回は、シリーズを見事に完結させたものとは言い切れない、というのが私の考えです。

 多くの『セブン』論は(2)だけをみてきました。そこでは、作品群1との関係はまったく問われず、最終回が大団円とされてきました。

 佐藤健志は、(3)に気づき、多くの作品論に反旗をひるがえしました。そして、「動機づけの欠落」が、最終回になにがしかの破綻をもたらしているという脈絡に気づいたという点では、彼は誰よりも鋭かったのです。彼の評論に刺激されなかったら、私も(2)のみを見て、最終回をほめちぎり続けていたでしょう。この点で、彼の評論に大きな価値があると私は信じます。

 しかし、彼は(1)と(2)を完全に無視しました。そして、前回述べたように、その国家観から作品世界を裁断し、都合のいいところだけを使った政治的結論を作り上げてしまったのです。


 では、最終回がなり得なかった作品群1の世界とは何でしょうか。『セブン』の作品世界は、そこでは何らかの決着がつけられたのでしょうか。また、1と2が並立させられようとした時には、どのようなことが起こったでしょうか。以下、こうした話に入っていきます。


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