私の声が聞こえますか

#5(生い立ちの記その2〜生まれてからの私)

れん理英子


 「生い立ちの記」の続きを依頼されて了った。有り難い事ではあるけど、しかし書き辛いなあ。親兄弟友人を売り飛ばす事などいつでも出来るが、我が身を売るのはちょっと大変だ。しかも私は暗い子供だったからなあ。何だか暗い物語になって了いそうだ。


 昭和36年3月3日、東京の西荻窪で彼女は生まれた。で、この前は西荻の部屋を追んだされた所まで話しましたね。そして当時東京とは名ばかりの未開の地、清瀬に流れ着いたのです。

 彼女は頭髪が乏しくて女の子らしい格好が似合わず、地味な服装をさせられていた。ある日両親に用事があり、叔母に預けられた事があった。この叔母は男の子にしか見えない姪を見て深く心を痛めた。夜、両親が引き取りに行くと、姪に赤い服を着せ、頭に大きなリボンをつけさせた叔母は「ねっ、ねっ、見て見てっ。可愛いでしょう?」と、大層御満悦だった。母親は仕方無く「……可愛いわね……」と答えたものの、心中「我が娘ながら、なんと、まあ、似合わないことっ」と、思った。彼女は二才にして既に母親から裏切られていたのである。

 加えて、彼女は極端に愛想の悪い子供だった。叔母に預けられた時も、何を話しかけても全く反応を示さなかった。そこでリンゴを剥いて差し出して見ると、打って変わった機敏な動作で叔母の手からリンゴを取り上げて自分の口に入れて了い(*1)、後は何事も無かったかのように、再び無反応状態に戻った。

 そんな風だから、近所の人々も彼女を知恵遅れだと噂した。実際に養護学校を勧めてくれた人もいたようだ。しかし暢気で楽天家の両親はさして心配もせず、どーにか育つだろうと思って放っておいた。が、それだけならば良かったのだが、貧乏人のくせに新しいモノ好きの彼等は、当時東京でも珍しかった幼稚園三年保育にこの知恵遅れかも知れない娘を通わせると言った暴挙に出た。彼女自身、この頃の記憶はかなり明確にあるのだが、はっきり言ってパーだった。折り紙などしてても全くついて行けないものだから、最初からついて行く事を諦めてひたすらボーっとしていた。そうすると、いずれ必ず機転の利く子供が彼女の分までやってくれたものだ。彼女の人生訓のひとつ、「私がやらなくても誰かがやる」の思想は(*2)、この頃培われたものと思われる。 このマイペースぶりはとどまる所を知らず、大観衆の運動会でも発揮される。かけっこでの「ヨーイ、ドン!」の合図に、回りが走り去ったのを確認して後、おもむろにのんびり走り始めるのだ。これは単に頭が弱いと言うより、性格の問題もあろう。競争を嫌い(*3)、ひとり自分勝手に生きる姿勢は、30年後も変わってない。末っ子育ちで負けず嫌い(*4)の両親には、頭の弱さより寧ろ、どちらにも似てない娘のこう言った性格に不安を感じたようだ。

 時は流れて昭和42年、彼女も何とか小学生になる。中森明菜も通った清瀬小学校に2ヶ月通った後、阪急ブレーブスのお膝元、兵庫県西宮市に移り住む。回り中が田んぼで囲まれていて、春は一面のレンゲ畑となり、所々野壷が点在する風雅な土地だった。しかし、高度成長の煽りでまたたく間にこの風雅は失われる。悪臭のする河や赤い色の海をあたりまえと思い、チクロの甘味と鮮やかな色の食品を愛して育った子供時代だった。ほとんど雪の降らない土地でもあり、そんな環境から彼女は「北の田舎」に強い憧れを抱くようになる(*5)

 西宮に来て間もなく2人目の弟が生まれる。最初の弟(*6)にすっかり飽きてた彼女は妹を切望しており、この落胆は大きかった。以後、極力弟達とは関わり合わずに生きて行く。

 しかし、彼女にも多少姉らしい所はあった。ある日、近所の子供達と遊びに行く際、下の弟を連れて行かなくてはならなくなった。7歳下の弟が迷子にならないようにと気を使った彼女は、弟の手首にヒモをくくり付けて、自分はもう一端を握っていた。父親が迎えにきた時、姉の後を追ってレンゲ畑を横切って来る幼い息子を見て「あいつも一人前に走るようになったのだなあ」と一瞬感慨に耽った。しかし、天使のような笑顔で走って来た娘に、「おとうさん、はい」と、ヒモを手渡されたその先には、幼い息子がくくり付けられていたのだ。手首は紫色に変色しており、たどたどしい口調で「いたいよぉ」と訴えた。その後、彼女は弟と遊んでやれとは言われなくなった。

 このように、伸び伸び生きてた彼女ではあるが、学校は嫌いだった。男の子はすぐ苛めるし、給食は不味くて食えたモンじゃあないのに昼休みも午後の授業中も掃除の時間まで食べ続けさせられるし、鉄棒は逆上がりが出来なくて放課後も練習させられるし、全く小学校とは地獄のような場所である(*7)

 勿論勉強も嫌いで、授業は全く聴かずにいつも空想に耽っていた。教師からは「他の子供達は聴いてるような振りして聴いていないものだが、れんさんはいつも露骨に窓の外を見ている」と、言われたものだ。それでも低学年の頃はまだ良かったのだが、高学年になると彼女の成績の悪さに両親は頭を抱えるようになる。さすがに「伸び伸び育てば……」などと暢気な事は言ってられない気分である。しかし、本人は「ほとんどの課目は"ふつう"なんだから、全然成績悪くなんかないわっ(*8)。知恵遅れじゃないだけで満足するべきよ」と、思っている。ここは子供時代"ふつう"なんて成績を取った事の無い両親との、認識の違いである。 折しも当時は教育熱も高まり、中学受験や進学塾などが横行し始めた時代である。最も公害の酷い時代に幼い時期を過ごし、ギスギスした時代に十代を過ごさなくてはならない。不幸な世代である(*9)。新しいモノ好きの母親は彼女を塾に通わせてみる。当然の事ながら、彼女は大いに反抗する。ここで彼女の取った手段は、普段の頭の弱さからは考えられないものだった。「先生に言い付けた」のだ。懇談会を数日後に控えたある日の事だ。無理矢理塾に通わせられてる事、塾が自分にとって如何に無益なものであるか、母親は世間の流行を追って何やら勘違いしているのだ、先生の手で母親の目を醒まさせて欲しい、と、切々と担任教師に訴えた。「権力者と戦う時は、より権力ある者を動かす」と言った卑劣な手段を、彼女は十才にして会得していたのだ。

 中学生になると、彼女の成績の悪さは、さらに磨きがかかって行く。体育では「"5"を取るより難しい」と言われる"1"を取った事もあるし、家庭科では時々"2"を取った(*10)。それでも、やりたくない事は絶対やらない彼女の姿勢は頑として変わらなかった。

 中学2年になって、彼女の人生に転機が訪れた。と、言ってもそのきっかけが何であったか、彼女自身も思い出せない。単に時が満ちたと言う事だろうか。突然、「自分の生き方は自分が決めていいんだ」と言う事に気付いたのだ。それまでも放任主義な親の下で自由な育ち方をしてはいたが、所詮最後は大人の決定に従うしかないと思っていた。しかし、この時を境に彼女は完全に自分の価値観のみに従う人間になって了った。もう、親に反抗する事も無く、ただ自分のやりたいようにやるだけだ。元々あまり子供に対して執着の無かった親は、間もなく娘の事は諦めた。彼女の人生は彼女のモノだから仕方ないと言った所だ(*11)

 不思議なもので、この頃から彼女は学校が好きになり、成績も決して良くはないもののかなりマシになり、多くの友人とも交わるようになる。

 やがて高校生になるが、思い返しても、ただのんびりした普通の県立高校で、ひたすら伸び伸びと遊んでいた、との記憶しかない。とにかく学校に行くのが楽しく、人の好き嫌いも無く、男女を問わず先生とも級友とも誰とでも仲良くしていた、明るい時代であった。当然の結果で浪人するのだが、それさえも楽しんだ。

 しかし、もう誰も登校しなくなっていた高校3年の2月、哀しい想い出をひとつ作って了う。もう受験前から浪人する事に決めていたので勉強などする気も無く、かと言ってさすがにこの時期は誰も遊んでくれず、とても退屈していた。ふと、「ひともすなるバレンタインなるものをわれもしてみん」などと、つまらない事を思い付いて了った。当時義理チョコなんてモノは横行しておらず、「チョコレートを渡す」と言う行為は相応の下心を意味する。都合のいい事に、「いいなあ」と思ってた男の子はクラブ活動の為、毎日登校していた。決死の想いでチョコを握り占め、校門の前で彼の下校を待った。遠くに彼の姿を認め、気合いを入れてチョコを持ち直した、と、その時、チョコは彼女の手をすり抜けて行った。校門の前にはドブがあり、折しも雨上がりで満水状態。無情にもチョコはドブの彼方に運び去られて了った。呆然とつっ立ってる彼女に気付いて、彼は「どうかしたん?」と、声を掛けてくれた。全身脱力していた彼女は、「……別に……なんもあれへん」と答えるのがやっとだった。二、三言葉を交わして別れた。それが彼と話した最後だった。ドブに流れた初恋であった。その後の人生で彼女は、一度として義理チョコ以外のチョコを他人に送った事は無い。

 卒業後一年間通った予備校では、大きなカルチャー・ショックを受けた。そこでの友人はいわゆる頭イイ高校を出た人々で、普通の公立高校でのんびりして来た彼女には、驚く事ばかりであった。彼等は勉強、遊び、全てに関して貪欲でエネルギッシュだった。彼女は辟易しながらも、そんな雰囲気を楽しんだ。予備校が引けてからは遅くまでディスコやゲーセンに入り浸り、受験勉強は深夜から朝方にかけてやった。この1年程精力的に遊んでまともに勉強した事は無かった。よくもまあ、そんな体力があったものだが、18歳とはホントに元気な年齢である。

 いよいよ願書提出の段になった。幼い頃から「北」への憧れが強かった彼女は、北海道に心は傾いていた。「東北」に就いては全くイメージが湧かない。しかし、そんなある日、ソ連がアフガニスタンに侵攻した。もしかしたら北海道も危ないかも知れない。彼女は急遽志望校を変更した。こうして全く未知の世界、東北に足を踏み入れるのであった。

 入学も近付いたある日、住む所が無い事に気付く。親にその由を言うと、飛行機の(しかもキャンセル待ちの)チケットとお金を渡され、「行って捜して来い。帰れなくなったらどこかのホテルに泊まりなさい」と言われて、ひとり仙台に旅立った。後に回りの人々の話しを聞けば、男の子でさえ一人で部屋を捜しに来た人は無く、日帰り出来たからよかったものの、突然女の子が一人で行って泊めてくれるホテルなど(当時は)無いとの事。つくづく我が親ながら、大した根性の人達だと感じ入る19歳の彼女であった(*12)

 こうして彼女は一組の布団以外何もない国見の山奥の一室に生息し始める。その後の事は皆さん御存知の通り。ますます多くの人々に被害を及ぼしつつ、自らは楽しく幸せに人生を送って行きましたとさ。めでたしめでたし。


 「生い立ちの記」は一応ここで完結とします。気が向いたら20年後くらいに続きを書くかも知れません。


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【著者注】*1 実際何でも食べて了う赤ん坊で、これまでにもタバコの吸いがら、おまるの中の自分のブツなど、目に付く限りの物を食べている。
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【著者注】*2 他に、「自分さえ良ければ」、「結果オーライ」、「明日出来る事を今日やるな」等の、崇高な人生訓を抱いている。
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【著者注】*3 唯一食べる時だけは、決して競争を厭わないが。
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【著者注】*4 彼女は、5人家族の6割(父、母、弟下)が末っ子で占められた家庭で苦労して育った。彼女の末っ子族への印象は下記の通りである。
 1.負けず嫌いである。
 2.お調子者である。
 3.機転が利き、要領がよい。
 4.マザコンである。
 5.やたら騒がしく、落ち着きが無い。
 如何なものだろうか?
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【著者注】*5 北では冬は家が雪に埋もれて使えなくなり、人々はかまくらで過ごし、スキーを履いて外出する。つららと言う危険なものがあり、朝起きる時には気を付けないと、天井から延びて来てたつららに喉をグッサリ刺されて死んで了う……と、言うのが彼女の「北」に対するイメージであった。
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【著者注】*6 こいつは野壷にハマった事がある。
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【著者注】*7 ハタチを過ぎて彼女は偏食の全く無い人間になったし、また、彼女のその後30年近い人生で逆上がりが出来なくて困った事など只の一度も無い。いったいあの小学校教育とは何だったのだろーか?
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【著者注】*8 高学年になると、苛められ方も手が込んで来る。当時仮面ライダーが大好きだった彼女を、男子達は「仮面ライダーごっこしよう。れんさんが仮面ライダーで俺達はショッカーだ」と誘ってくれる。大喜びで「うんっ!」と言った彼女は、無惨にもショッカー達にコテンパンにされて了う。しかし、また誘われれば、懲りずに「私が仮面ライダーよっ」と、ノって了うのだ。
 やはり知恵遅れだったかも知れない。
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【著者注】*9 東北の人は別である。ヘドラに襲われた事も無いのだろうし、また、東北人のほとんどは進学塾など見た事も無いらしい。
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【著者注】*10 おそらくそんな数字は見た事も無いであろう大学時代や会社の友人達に対して、これは彼女の大きな自慢となっている。
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【著者注】*11 その後も彼女の人生に干渉する事は全く無く、33歳になった彼女に宛てられたバースデー・カードには、「良い選択をして自由に生きて下さい」と記されただけであった。
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【著者注】*12 親元を離れる時点で、彼女は家事と言うモノは全く何も出来ず、一般常識もほとんど無かった。にも関わらず両親は、「この娘は何も出来なくても、どーにでも生きて行く」と、一切の心配をしなかったらしい。
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