タイトルのない夏
Trinity
両谷承

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十二


 電話が鳴った。シンジは目を覚まして、電話を探す。自分の部屋ではないことに気付くまでに、呼び鈴は五回ばかり鳴った。部屋の明かりを点けて、受話器を取る。ホテルのフロントの女の子が、カズに電話が入っていることを告げた。寝呆け声で、繋いでくれるように頼む。――このホテルに宿を取ってからもう三日になるが、電話なんか掛かってきたことはない。

「もしもし」

「もしもし。サイトウです」

「サイトウ、さん?」

 少し、間が空いた。

「――ミキです」

「ああ。どうかしたの」

 なぜここの連絡先が分かったんだろう。

「昼間、『スラム・ティルト』に電話したでしょ」

「うん」

 ベッドの脇に置かれた時計を見る。午後八時半。ツーリングに出ると、なぜかやたらと早寝早起きになってしまう。

「マスターからそこの番号を教えてもらったの」

「なるほどね」まあ別に、あり得ないことではない。「なにか、用なの」

「そういうわけじゃ、ないんだけどさ。ねえ、シンジくん」

「なんだよ」

「どうして、そんなところにいるの」

「どうして、って」

 バイク乗りがバイクで出かけるのが、この女の子には何か不思議なのだろうか。

「理由なんか、ないけど」

 ミキは少しの間、黙った。シンジはまだ半分眠っている頭で、次の言葉を待つ。

「――ねえ」ミキらしくない、ためらったような口振り。「ねえ、あたしが原因じゃないよね」

 なんの話をしてるんだろう。

「あんた、おれに逃げられなきゃいけないようなことしたの?」

「なに云ってんのよ」妙な深刻さが、少しだけやわらいだ。「寝惚けてんの」

「うん」

 ミキは絶句した。とは言え事実だから仕方がない。ミキがなにを云いたいのかぐらいは分かってはいるのだが。

「ねえ、あたしのこと」

「うん」

「あたしのこと、どう思う?」

 そんなことを云われても、返事に困る。

「どうって」

「好き?」

「ああ」

「キョウくんより?」

 ――そう云うことか。

「まさか」

「まさかって、何よ」

 気に入らない返答を貰った、と云うよりどこか拍子抜けしたみたいな口振り。

「おれはあんたもキョウも好きだよ」

「そんな話じゃないでしょ」

「まあ、キョウと寝るんだったらあんたとの方がいいな」

「ふざけてんの」

「ふざけちゃいないよ」

 ミキは黙ってしまった。眠い。

「じゃあさ、ユカリさんとわたしだったら?」

 ミキの話し方はどこまでも明るい。どこかでプライドを押し潰しているのかもしれない、と少し思う。あまり考えたくないので頭の片隅に追いやってきたのだが、自分にはどこかしら周りの連中の自尊心に障る部分があるようだ。――不愉快になる。

「キョウくんがわたしのこと、手に入れたいんだって。知ってた?」

「知ってた」

 正直に云う。意に介したふうでもなく、ミキは続ける。

「で、考えてみたんだ。わたしは誰が手に入れたいんだろ、って」

 返事が出来ない。

「きみたちはみんな、素敵よ。静岡の彼なんかより、ずっとね。でも、八木沼慎二が、いちばんほしい」

「おれよかキョウの方がいいと思うぜ」

「そんなのは、きみが云っていいことじゃない」

 静かで、はっきりした云い方。キョウが惚れる女だけある。

「おれは、あんたの手に入るかな」

 きっと、これもシンジが云うべき言葉じゃないのだろう。それでも、シンジには分からない。誰かが欲しいという、そのことが。自分自身に対して、少し苛立たしかった。

 ミキが笑った。聞き慣れた、軽やかで涼しい声で。

「まさか。って、これもおかしな云い方よね。――でも一応、失恋だよ」

「悪い」

「そんな謝り方はないんだよ」

 ミキがまた、笑う。その笑い方は、確かに愛しい。キョウの無邪気な爆笑や、カズのシャイな冷笑と同じように。

「ま、いいや。おかしなものね、なんだか気分が軽くなった」ミキは本当にすっきりした、というふうに云った。「ねえ、明日は帰って来るんだよね」

「そのつもりだけど」

「みんな、待ってるから。じゃ、電話切るね。おやすみ」

「ああ」

 受話器を置いて、ベッドに潜り込む。十五秒後には、シンジは熟睡していた。


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