タイトルのない夏
Trinity
両谷承

九へ戻る。十一へ進む。



 キョウがやっとの思いでミキに電話を掛けることが出来たのは、一昨日のことだ。もう夜の十時を回っていて非常識を咎められてもおかしくない時間だったが、幸運なことに電話口に出たのはミキ本人だった。

 電話がつながってしまうと、キョウは自分でも意外なくらいスムーズに用件を伝えることが出来た。誕生日のランチと、昼下がりのドライブ。どうということのない、デートの誘いだ。そう、ただのデート。何を緊張しなければいけないような事でもない。

 ミキの声は電話線を通すといつもの印象よりだいぶハスキーで、クールに聞こえた。ミキはまず午後いっぱいに予定が入っていることを告げた。断られている、というふうにもとれる言い方だったが、キョウは動揺せずに対応できたことに自分で驚いた。ランチをディナーに、ドライブを夜に。ミキは気持ち良く承諾してくれた。

 井の頭線の吉祥寺駅の改札で、午後六時半。それだけを決めて、受話器を置いた。なんだか言葉足らずのようにも思えたけれど、まあ自分としては上出来だろう、と分析した。緊張感と何とも言えない焦燥感が浮かんできたのは、カルロス・クライバーの『カルメン』の海賊版をなんとはなしに鳴らしはじめてしばらく経ってからだった。

 あさっては、どこへ行くのだろう。ディナーなら、時折立ち寄っているビストロにいけばいい。若くて生真面目なシェフが、安くておいしいワインを店の奥からひっぱりだしてきてくれるだろう。

 そのあとに、アルト・ワークスをどちらに向けて走らせよう。吉祥寺に戻ってこられないほど遠くまで走らせてしまえばいいのかもしれない。でもそんなことが自分に出来る気もしない。

 クライバーと観客とオーケストラが一体となって、思わず笑ってしまいそうになるくらいの熱狂を生んでいる。乗り遅れた歌手たちがいくらか辛そうだ。――どうしても思考がまとまらない。

 考えても仕方ない。頭のなかで渦巻いている色々なことをあっさりと放棄して、キョウは酒を呑んで寝てしまうことに決めた。

 翌日は時間をかけてアルトを洗車した。夜になっても正体の分からないいらだちはおさまらなかったので、キョウはシンジに電話して、ビールを買ってくるよう云った。なんだか自分の行動がちぐはぐなような気もしたが、そんな気分も二秒くらいしか続かなかった。どうせ明日は、夕方まで暇なのだ。


 シンジが帰っていったのが夜明け前くらいだった。キョウは昼前に目を覚まして、自分が二日酔いなのに気付く。うすぼんやりした頭に、記憶はなかなか戻ってこない。

 どうしてシンジなんか呼んでしまったのか、どんなことを話しながら呑んでいたのか、まるきり思い出せない。それでも、今日がどんな日なのかは忘れていなかった。

 午後六時半。あと、七時間足らず。頭のなかで時間を逆算して、のっそりとベッドを抜け出す。冷蔵庫のアイス・コーヒーを喉に流し込み、煙草を一本吸ってからキョウはまた眠り込んだ。

 次に時計を見たのは、午後三時過ぎ。シャワーを浴びて髪を乾かし、新しい下着を付けるとすることが無くなってしまった。アルコールの影響下からはなんとか抜け出せたようだが、おかしな倦怠感がある。何でもいいから、身体を動かさなきゃいけない。この部屋を出て、どこかへ。

 麻の茶色のジャケットと砂漠色のチノ・パンツを選んで、ポケットに小さな包みを入れる。デザート・ブーツを履いて、駐車場に向かう。


 マスターがポンコツのビートルを廃車にしてから丸二年空きっぱなしの『スラム・ティルト』の駐車場にアルトを入れて、十メートルほど離れた店に入る。店内はなぜだか中年女たちで混んでいた。カズが忙しそうに立ち働いている。カウンターの隅に隙間を見付けて陣取ると、マスターが近付いてきた。

「面倒な注文、すんなよ」

「――アイスコーヒーでいいや。なんだか、流行ってるね」

「ああ。今週は、ずっとこうだ」

 三十代後半から四十代くらいの女たちが十数人のグループを作って、騒がしくさえずっている。ボーズのスピーカーから流れているカズが選んだらしいモダン・ジャズが、ほとんど聞こえない。

「ねえ、店の駐車場借りてていいかな」

「好きにしな」

 マスターはドリッパーから目を離さない。カズがお冷やをトレーに乗せてきた。

「なんだい、ドライブじゃなかったの」

「なんで知ってるんだ」

 カズは小首を傾げて少し笑った。こういった仕草を見ていると、本当に女の子と見間違えそうになる。

「ミキちゃんから聞いた」

「――おしゃべりな女だ」

 落ち着いた口調で云ったつもりなのに、カズは心のなかの動揺を見透かしたような目でキョウの顔を覗き込むと、そのまま行ってしまった。


 そのままキョウは二時間ばかりを『スラム・ティルト』でなんとなく過ごした。『エイリアン・スター』もプレイしてみたが、どうにも集中力を決定的に欠いているらしくまるきりスコアが伸びないので二ゲームでやめにした。

 マスターは忙しそうに立ち働いているし、こんな時にはいつもなら間違いなくちょっかいを出してくるカズも何を考えているのか近付いてこようとしない。自分から彼らに話し掛けたりすると、余裕のなさを悟られてしまいそうでどうも気が引ける。いつもの店でいつもの席に座っているのに、どうにも落ち着かない。それでも自分の部屋で約束の時間を待つことを考えると、遥かにましな気もした。不毛な時間も、ひとりっきりで過ごすのとそうでないのとは訳が違う。

 マスターの指示なのかカズは頼みもしないアイスコーヒーのお代わりを運んできたりもしたが、ついにミキのことは訊ねようとしなかった。勘定を払って店を出るときにカズは右手の親指を立ててみせたが、そのにやにや笑いの意味はキョウには分からなかった。


 駅を挟んで北と南で、吉祥寺は随分と表情が違う。よそ行きの顔を見せる北口と違って、井の頭線の改札のある南口はどこか普段着という感じがする。

 約束の時間の十五分前に、キョウは待ち合わせの場所に辿り着いた。待たせるより待たされるほうが、精神衛生上いい。

 乗車券の自動販売機の前に据え付けられた灰皿に三本目のハイライトをねじ込んだ頃に、約束より十分余り遅れてミキが現れた。クリーム色のTシャツに刺繍の入ったベスト、コットンのパンツ。人込みのなかでもすぐに見分けがついたが、キョウは気付かないふりをしてミキが見付けてくれるのを待った。

「ごめん、遅れちゃった」

 ミキが駆け寄ってきて、少し息を切らしながら云った。ピンクのアイシャドウにオレンジの口紅。手にはL・L・ビーンの緑色の包み紙を持っている。

「平気だよ。それ、誰かからの誕生日プレゼント?」

「これ?」ミキは右手に目を遣る。「そう。ユカリさん、知ってる?」

「シンジんとこの」

「そう。彼女が買ってくれたの」

「ユカリさんとふたりだったの?」

 シンジも一緒だったのか、という聞き方はさすがにプライドに引っ掛かる。

「うん。シンジくんのうちでふたりでお誕生日パーティーをやって、それから出掛けたんだ」そういって、ミキは残念そうに付け加える。「シンジくんは起きてこなかったから。昨日の晩随分お酒呑んでたらしくてさ」

「ああ。うちで呑んでた」

 キョウが云うとミキは少し妙な顔をして、それから吹き出した。

「なんだ、そういうことだったんだ」

「そういうこと。――それじゃ、これからおれがお誘いするのは、誕生日パーティーの二次会って事になるのかな」

「とんでもない。光栄ですわ」

 嫌味のない笑顔でミキは云った。キョウは意を決して、チノ・パンツのポケットに突っ込んだ左手の肘をミキに向かって差し出す。自然な仕草で、ミキは腕を絡めてきた。


 聞いたことのない銘柄の赤ワイン――南アフリカ産で、生意気に腰の座った味がする。童顔に似合わない髭を生やしたシェフがテイスティングをさせてくれて、キョウは一も二もなくオーケイを出す。グラスに注いでもらって、まずはカウンターに並んで座っているミキと乾杯だ。

「戻ってこない十代に」

 思い付きの科白は、やっぱり気の利いたものにはならなかった。それでもミキはふんわりと笑ってくれた。グラスが小さな音を立てる。

「キョウくん、誕生日はいつなの」

「十二月」

「なんだ、やっぱりわたしが一番年上なんじゃない」そういって、ミキはワインに口を着ける。「あ、おいしい」

「誤差の範囲だよ」云っては見たが、フォローになっているのかどうかは自分でも分からなかった。レンズ豆のポタージュをウェイトレスが運んでくる。口に運ぶミキの横顔を見ながら、キョウはジャケットのポケットを探る。小さな包みは確かに入っていた。あとは、それを手渡すタイミングだ。

「ミキちゃんさ。ユカリさんから、何をもらったの」

 キョウが云うと、ミキはカウンターに置いた緑のパッケージに目を遣った。

「これ? ――ナイフ」

「ナイフ?」

「そう。すごくごついやつ。――ユカリさんが云うにはさ、絶対に使っちゃいけないけど、わたしみたいな女はこういうものを持ってるべきなんだって」

「どういう意味なんだろう」キョウは自分のグラスに、自分でワインを注いだ。「誰に向かって使うなって云うのかな」

「分からない。ユカリさんって、そういうところが不思議よね」

 そういわれても、キョウはユカリさんをよく知らない。一度だけ、寝たことがあるきりだ。

「おれとしちゃ、あんたみたいな女にはこんなもののほうがふさわしいと思うけどな」

 ポケットから包みを出して、カウンターに置いた。

「わたしに?」

「おれが知ってる女の子で、今夜が誕生日なのはあんただけだよ」

 ミキは包みを手に取った。

「あけてみて、いい?」

「プレゼントはあけるために包んであるんだ」

 どうやらリラックスできているらしい。言葉が澱みなく口から流れ出る。なんとなく、どの言葉も誰かからの借り物のような気がするけれど。

 ミキは丁寧にリボンとテープを外して包み紙を取り、箱を開けた。細い銀の鎖が付いた、小指くらいの大きさの小さなドイツ製のハーモニカ。

「――きれい」

 右手に吊り下げて、カウンターのうえのアルコール・ランプに透かすようにする。「これ、鳴るの」

「世界一のハーモニカ会社の製品だぜ」

「うれしいな」ミキは首から下げているクロスのペンダントを外して、代わりにハーモニカを下げた。「似合うかな」

「似合うと思ったからそれにしたんだ」ミキの表情に満足しながらも、キョウは思わず付け加えてしまう。「今日もらったプレゼントの中じゃ、ランキングはどれくらいかな」

「わかんない。そういう比較って、するもんじゃないんじゃないかな」

「でも、シンジがくれたもんよりいいだろう」

「シンジくんは、何もくれなかったよ。会ってもいないもん」

 テリーヌが運ばれてきた。


 キョウが知っているどんな女の子よりも、ミキは酒に強い。小羊肉のローストは腹にこたえていたが、ちょうど半分づつ分け合ったワインでは緊張しているキョウは酔わなかった。

 キョウはミキの腕を取って、『スラム・ティルト』の駐車場までエスコートした。ミキの顔はいつも『スラム・ティルト』で見かけるようにピンク色に染まっていたけれど、見慣れない薄化粧のせいで雰囲気は随分と違っていた。

 助手席のドアを空けてミキをアルトに乗せ、自分も乗り込んでイグニッションをひねる。エンジンが始動すると同時に、カーステレオからソプラノが聞こえてきた。

「これ、誰」

「バーバラ・ボニー」

 クラッチをつないで、アルトを吉祥寺通りに出した。緩やかなカーブを曲がって、道なりに南へ向かう。


 免許を取りたての頃にシンジとカズを乗せて走った道を、思い出しながらキョウはアルトを走らせてゆく。連雀通りを折れて三鷹通りへ。あの時、がちがちになってハンドルを握るキョウを尻目にシンジとキョウはアルトの狭いバックシートに缶ビールを一ダースばかり持ち込んでばか騒ぎをしてくれたものだった。懐かしくなるほどの昔ではないが、その時の腹立たしくも愉快な気分を思い出して思わず顔がゆるむ。

「どうかしたの」助手席のミキが問い掛けてくる。「思い出し笑いなんかしちゃって」

 調布、狛江。にっかつの撮影所の脇を通り過ぎて、世田谷通りへ。夜の街の中を通り抜けながら、キョウはその時のことを出来るかぎり面白おかしく話して聞かせた。いつもながらミキは陽気な酒で、キョウがカズやシンジの口調を真似てみせるたびに小さな笑い声をあげる。

「ねえ、きみたち三人って幼なじみかなにかなの」

「どうして? そんな風に見えるかな」

「うん。て云うか、兄弟みたいだよ。仲がいいしさ」

「気のせいだって。前にも云っただろ、俺はあいつらが大嫌いだって」

 ミキが小声で笑った。――あのふたりに根深い劣等感を持っているキョウとしてはいくらかは本音なのだが、そんなことをミキが分かってくれるとは思えない。仕方なくつづける。

「吉祥寺に昔から住んでるのは、シンジだけだよ。おれが親父の転勤で中学二年の時に転校してきたら、クラスにシンジがいたんだな。最初は、なんだか無口な野郎がいるな、くらいに思ってたんだけど」

「仲良くなれたんだ」

「――まあ、ね。あいつ、かっこいいじゃんさ」

 ミキが笑顔で頷く。少し気に入らない。

「だもんで妙に目立つんだけど、まるっきり愛想悪いしさ。クラスの悪い連中とはどうにも仲よくできないみたいだったけど、いつのまにかおれはよくつるむようになってた。その頃はおれも奴も気が短かったしさ」

「喧嘩とか、よくしてたの」

「そんな風に、見える?」

「見えなくもないけど」

「そういう風に見えない奴が、一番危ないんだよ。あんたの知ってる連中のなかでも、さ」

 キョウは煙草を銜えた。ミキが、突然キョウの胸元に手を伸ばす。その感触にキョウはぎくりとしたが、ミキは平然とキョウのジャケットの内ポケットからライターを抜き出して、煙草に火を点けてくれた。

「――ありがとう」

「どういたしまして」

 キョウが助手席に目を遣ると、街灯のなかに浮かぶ大きなふたつの目が話の続きを促していた。

「いまいったの、カズくんのこと?」

「そうだよ。四年くらい前の、四月くらいだったかな。あいつ、いきなりおれたちに絡んできたんだ」

「どこで」

「井の頭公園。確か土曜日でさ、おれとシンジはベンチに座って昼飯を食ってたんだ。そういや、花見の頃だったかな」信号待ちの間に、キョウはCDを入れ替える。この信号を右折すれば、多摩堤通りだ。「いったい、何が原因で揉めたんだったかな。おれもシンジも喧嘩はそう弱いほうじゃないけど、あいつはとにかく強いんだよ。ほら」

 キョウは歯を剥きだしてみせた。

「この二本、差し歯なんだ」

「それ、カズくんが?」

「そう。叩き折られた。――こっちはふたりだったから、負けはしなかったけどさ。その時は後味が悪かったな」

 ミキは黙って聴いている。カーステレオからホロヴィッツのピアノが流れてきた。シューマンだ。

「やっと歯も入れて忘れかけた頃にシンジから連絡がきて、もう一回同じ時間に同じ場所にいってみようって云いだした。何考えてんだろって思いながら、付き合ったさ。そしたら、カズの奴やっぱり現れやがんの。今度は妙になついてきてさ。――それ以来、って訳さ。シンジは駒場だから別の大学なんだけど、カズはおれの後輩になっちまった」

「へんなの」

 ミキはくすくす笑った。

「やっぱり、そう思うよな。いまでも、あいつのことはよく分からない」

「へんだよ。だって、いつもいっしょにいるのにさ」

 アルトは多摩川に沿って走ってゆく。川辺なのに、あまり涼しくは感じない。丸子橋を渡って、キョウは車を停めた。

「どうしたの? 降りるの」

「あのさ。――おれ、あんたに惚れてる」

「そうなの」

 そんな返事はない。

「考えてみたことは、なかった?」

「カズくんにも、云われた」

 酔っている口調ではないけれど、どこかぼんやりした雰囲気。かわされてるのかもしれない、と思う。

「恋人、いるの?」

 少し間があって、ミキは小声で答える。「まだ、ちゃんと別れたわけじゃないけど」

「じゃあ、シンジは?」

 返事は返ってこなかった。ミキを見つめる。言葉の弱々しさを裏切るような、はっきりした強い視線が返ってきた。そのまま何も云わず、両腕を伸ばしてキョウは助手席の女の子を抱きすくめる。ほそっこい身体なのに、感触はやわらかかった。

「あんたを、手に入れたい」

 やっとの思いでそう言葉にすると、ミキにくちづけする。

 キョウの身体を突き放すようなことは、ミキはしなかった。シンジが腕を放すと、ミキはキョウをしっかり見据えて云った。

「ちゃんと家まで送って帰ってくれるんだよね」

 口元が、寂しげに笑っていた。キョウが初めて見る表情だ。


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