タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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午後六時で『スラム・ティルト』をあがって、カズはアパートに戻った。まずはシャワーを浴びて、身体中にこびりついた汗を洗い流す。それほど汗をかくほうではないのだけれど、市民運動の会合でもあったのか今日に限って店内は貧相なおばさんたちで満員で、めずらしく二時間半も立ちっぱなしでいる羽目になった。こういった汗とは早々に縁を切りたい。
ユウコはまだ帰ってきていない。今日は金曜日だから、本当に帰ってくるかどうかも分からない。CDプレイヤーにバド・パウエルを放りこんで、カズは洗濯を始める。いい姉だ。弟に下着を洗わせていつも平気な顔をしている。まあ、見てくれのいい女なんてそんなものなのかもしれないが。
カズはユウコが好きだ。その計算高さやスノッブさも含めて、カズは四つ年上の姉をかわいい女だと思っている。とは云え、十九年近くに及ぶユウコとの付き合いがカズの中にいくぶんかの女性不信を根付かせたのかもしれない、とは思わないでもない。この辺りの話をすると、すぐにキョウは嬉しそうにフロイト的な解釈を並べ立て始める。挙げ句に自分にも女の兄弟が欲しかった、いまこんなに女でひどい目にあってるのは自分に弟しかいないせいだ、などと云いだす。
洗濯物を干し終えてスパゲッティを茹でながらキョウの口調を思い出していると、だんだん顔が見たくなってきた。『パリの四月』にあわせて口笛を吹きながら、スパゲッティを手早くバジルと和える。何だか一日中おんなじ店で過ごすことになるけれど、まあいつもの事だ。
「なんだ、誰もいないじゃん」
店に入るなりそう云うと、マスターが近付いてきた。
「なにいってんだ」カウンターの端に座ったカズに、マスターが小声で云う。「奥にいるだろ、客が」
そちらを見やるとひと組みのカップルが、まだ九時前だというのにすっかり酔っ払った風情でしっぽりと酌み交わしている。
「すげえ。客じゃん」
「すげえって、うちはバーだぞ」
「それで」
「バーに客がいるのは、あたりまえだ」
「そりゃまあそうか」どういう会話なんだろう。「ねえ、ぼくのボトルってなんか入ってたっけ」
「半年くらい前に、エズラ・ブルックスを入れたっきりだな」
「そっか。それ、出してもらってもいいかな」
「先月、キョウとシンジがふたりで空けちまった」
大笑いだ。さすがに、誰にも怒る気になれない。
「勘弁してよ。――仕方がないな、新しいの入れてよ」
「ひとりで呑むのか? 珍しいな。金はあるのか」
「キョウじゃないんだから。おかげさまで昨日、たっぷりいただきました」
皮肉半分で云ったのに聞き流されてしまった。マスターはカズに背を向けてバック・バーに向かう。カウンターに置かれたミニチュアのダース・ヴェイダー卿と見つめ合いながら、カズは頬杖を突く。シンジもキョウもいない。カウンターでひとりなのは別段珍しいことではないけれど、何だか今夜はそれが気に入らない。
ロックグラス、氷、バーボン。それだけをカズの目の前に並べて、マスターは洗い物をはじめた。カズはひとりで呑み始める。なぜだか今夜に限って、どうも甘ったれた気分になってしまった。店内に流れるオーティス・レディングまでもが嫌味ったらしく聞こえる。こんな気分の時に、酒を呑んではいけない。なのに、呑みたくなるのは決まってこんな時だ。
シンジかキョウがいれば、こんな気分にはならない。だから、悪酔いしたカズの姿はマスターしか知らない。うまく出来ている。――やくたいもないことを考えながら、身体にアルコールを流し込む。
四杯目をグラスに注ぎ始めたときに、店のドアが開いた。入ってきたのは、ミキひとりだ。
「こんばんは」
カズの隣に腰掛ける。落胆を胸の底に押し込めて、カズは笑顔を作る。
「こんばんは。ひとりなの」
「そう。今日は、カズくんだけなんだ」
「奥に、お客さんがいるよ」
「あ、ほんと」
ミキは思わず口を手でおおって、マスターの方を見る。マスターはさすがに苦笑して、洗い場からミキの頭を小突く真似をする。
「失礼な事云っちゃったな」
「大丈夫だよ。さっき、ぼくも似たようなこと云っちゃったから」
「店員が云うのは、さすがにまずいんじゃない」
「いいのいいの」
「何がいいってんだ」
振り向くと、マスターが立っていた。にんまりと笑ってみせる。しかめっ面のマスターに自分が甘えているのが分かって、少し嫌な気分になった。ミキに向き直る。
「オーダーはいかがいたしましょう」
真面目に云って見せると、ミキは少し笑った。
「じゃあ、ラム・トニックを頂きましょうか」
まるでシンジのようなオーダーだ。また、カズの胸におかしな嫉妬めいたものが沸き上がってくる。こんな時に、キョウだったらきっと煙草に火を点けるのだろう。カズはグラスを口に運んだ。
「珍しいね、ひとりで呑んでるなんて」
「なんかさっきも同じような事云った人がいたなあ」窺い見たミキの顔には、少しの曇りもない。「キョウやシンジがひとりで呑んでても、誰もそんなこと云わないんだろうけどね」
カズの言葉に、少しいぶかしげにミキが首を傾ける。そこに、ラム・トニックが届けられた。
「すいません」
マスターに笑顔を返して、ミキがタンブラーを手にした。小さな泡の上ってゆく透明な液体を飲み下すミキの白い喉を、カズは見つめる。
「ミキちゃんさあ」
「なあに」
ミキはタンブラーを置いて、ふんわりと微笑みながらカズを見る。
「ミキちゃんさ、吉祥寺って地元なんでしょ? なのに、毎晩ここで呑んでるよね」
「毎晩って訳でもないけど」
「まあ、それにしてもさ。友達とか、いるんでしょ」
「会ってるよ。でもまあ、昼間に会うことが多いかな」
「ここって、そんなに居心地がいいの」
嫌な云い方になった。でも、そんなことをミキが気取った気配はない。
「うん」何の衒いもなく軽く云う。「きみたちといるのが楽しいしさ」
大きくて澄んだ子供のような目とすっきりと通った鼻筋、優しい線を描く頬。カズの目から見ても、やっぱりミキは飛び抜けた美貌の持ち主だ。笑顔でなければ、きっと男たちは近寄りがたく感じるだろうほどに。カズは、ミキのことが決して嫌いではない。それを自覚して、いっそう遣り切れない気分になる。
「酔っ払って、からむ心算じゃないけど。ぼくらのどこが、そんなにいいんだろう」
まっすぐ目を合わせたまま云うカズに少し戸惑ったような様子を見せて、
「そうだなあ。あのね、こんな云い方は好きじゃないかもしれないけど、きみたちはみんなかっこいいよ」
それだけ云って、照れたように微笑む。
「どんなふうに?」
「みんな、それぞれに」
「あのさ。よければ、だけど、ミキちゃんから見るとぼくらがどんなふうに見えるのか聞かせてもらえないかな」
酔っている。――自覚したところで、どうなるものでもない。ミキの顔を無遠慮に覗き込む自分を、押さえ付けられない。
「たとえばさ。きみは、一番大人だよね。三人のなかでさ。きみだけが年下だからなんとなくひとりだけ一歩引いてるみたいに見せてるけど、シンジくんもキョウくんもきみに頼り切ってる」
少し、驚いた。
「そんなふうに、見えるの?」
「あたしには、ね。キョウくんは、すごく真直ぐなひとだよね。でもその分、子供っぽいところがあるじゃない」
「確かに」
「あんなにハンサムで、きっと女の子たちにはもてるんだろうけど、どこか頼りないよね。なんだか、きみがいないとどうなっちゃうんだろうってところも、ある」
そういってミキはカズを真直ぐ見返した。こんなに丁寧に自分たちのことを見ている人間がいるなんて思ってもみなくて、カズはすぐに言葉が出てこない。
「シンジくんはさ、すっごく不思議なひとだと思う。こんなひとが現実にいるんだ、ってちょっと驚いちゃうぐらい。きみたちふたりがいなければ、なんだか現実にいる人間には思えない」
「よく、わかんないな」
「だろうね。わたしの云い方が、悪かった」ミキはゾンビ・グラスを空にした。「いろんなものに対する関心の持ち方が、普通の人と違ってるっていうかさ。まあ、きみたちはみんなそういうところがあるけど」
「それじゃ、訊いていい?」
「どうしたの。カズくん、なんだか質問ばっかり」
少し困ったような口調。いつもは押さえ込むことに成功しているつもりの残酷さが、顔をのぞかせるのが自分で分かった。
「ここに、男が三人いるよね。寝るんだったら、誰がいいと思う?」
ここでミキが怒りを示したら、顔中でせせら笑ってやろうと思った。だから、ミキの表情に変わらず好意的な真摯さが現れているのを見て、アルコールで濁った頭の隅から自己嫌悪が湧いて出てくるのを感じた。
「たとえばさ」それでもミキの声は少し、硬い。「きみ、って云ったら、カズくんはどうするの」
そこまで云ってミキが軽く笑ったので、カズは救われた。ミキはカズの僅かな悪意を、そらすことなく呑み込んでくれたのだ。
この女の子は悔しいぐらいに、強い。キョウを思い出すような、真っすぐな強さだ。――係わる人間たちに、その弱さを無慈悲に自覚させるような。
「あなたの恋人に敬意を表して、謹んで辞退させて頂きます」
「わたしじゃ不満ってこと?」
「謝る。許してよ」グラスをあおる。「でもさ。彼氏、いるんでしょ」
ミキの視線が少し、凍った。
「また、質問?」
「多分、そうだろうと思っただけだよ」
「どうでもいいことじゃない」
そんなことは、ない。少なくともカズにとっては。酔った頭のなかを感情が渦巻き、カズから言葉を選ぶ分別を奪っている。
「知ってるよね。キョウは、ミキちゃんに惚れてるよ」
ボトルの首を握り、キャップに親指を当ててひねる。キャップはくるくる回りながらしばらく注ぎ口の上でダンスを踊り、やがてカウンターのうえに転がり落ちた。その間、カズはミキの顔から一瞬も目を反らさない。
「明日はさ、わたしの誕生日なんだ」
まるで関係ないことを話しているような口振り。カズは生返事を返す。
「うん」
「さっき、うちに電話がかかってきてさ。キョウくんにドライブに誘われたの」
驚いた。キョウにそんな勇気があるとは、期待していなかった。
「行くの。ミキちゃん」
「そう、返事はしたんだけど」
目の焦点が、定まらない。カズの隣に座っているのは、今度こそ本当にカズからキョウとシンジを奪ってしまう可能性のある女だ。それでも――やっぱり悲しいことに――とるべき態度はひとつしかない。
「行ってあげてよ」
ミキのどこか男性的に整った眉が、力なく寄せられる。
「ぼくはキョウのこと、よく知ってるつもりなんだ」そう、他の誰よりも――もちろん、ミキよりも。「彼が女の子にそんなこというのって、すごい事だよ」
稀なことというほどでは、ないけれど。頼りなげな表情のまま、ミキはカズを見る。顔中の筋肉を総動員して、カズは邪気のない笑顔を作ってみた。
「そうなの」
「そうだよ。それにさ」カズはおどけた表情で、バーボンをボトルから喇叭飲みしてみせる。「あんだけハンサムな男から誘われるんだから、そう嫌な気分でもないんでしょ」
ミキは吹き出した。カズはもう一口ボトルからあおって、むせた。咳と一緒に、涙が少しだけ流れる。
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