タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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目覚ましが鳴る前に、カズはベッドから脱け出した。「スラム・ティルト」でバイトを始めてから、夏休みにはいる前よりも生活が規則的になってしまった。
ステレオの電源を入れると、コールマン・ホーキンスが流れはじめた。たっぷりしたサックスを聞きながらカズは小便をして、それからシャワーで身体中にべっとり付いた寝汗を洗い流す。
バスタオル一枚を羽織っただけの姿で、冷蔵庫のヴォルヴィックを飲む。台所に面したもうひとつのドアの向こうから、物音がした。 「姉さん、いるの?」
「何時だと思ってんのよ」不機嫌そうな寝惚け声が返ってきた。「近所迷惑だから、そのサックス何とかしな」
「だってもう、九時だよ。会社はどうしたのさ」
「日曜でしょうが。このぼけなす」
ドアが開いた。姉のユウコはほとんど全裸のカズを見て一瞬、絶句した。
「こりゃ失礼」
枕が飛んでくる。カズはあわてて肩のバスタオルを腰に巻きなおした。
「今度そんな格好して家ん中うろうろしてたら、叩きだすからね。――あーあ、目が覚めちゃったじゃないのよ」
「目が覚める程綺麗かな、ぼくの身体」
「下んない事云ってないでとっとと何か着てきな、このおかま野郎」
牛乳をかけたコーン・フレークに、オレンジ・ジュース。家族の食卓と云うには、あまりにも実用一点張りで趣がない。とはいっても、カズに文句の云えた筋合いではない。
「姉さんさあ。おかまって云うの、やめてよ」
「おかまはおかまじゃんさ」
ユウコは空いたグラスにオレンジ・ジュースを注いだ。毎朝ボウルに二杯のシリアルとグラスに四杯のオレンジ・ジュースを、ユウコはその華奢な身体に流し込む。
「違うって」
「どこがさ。云い方が気にくわないっての? ホモだろうがゲイだろうが、要はおんなじじゃないさ。トシコちゃん、昨日も電話してきたんだよ」
カズにとって一番聞きたくない名前が、ユウコの口から出てきた。
「ぼくは、おかまじゃないよ。――男と寝たことだってないしさ」
話をそらそうとしてカズが云うと、ユウコは鼻で笑った。
「おかまのプラトニック・ラヴ? 女の子ひとり分の純情踏ん付けといて、云うもんだね」
よほど虫の居所が悪いのか、ユウコは「一方的な女の子の味方」スタイルを決め込んでいる。もちろん、からかっているのだ。
「その辺で勘弁してよ。あーあ、早起きしちゃったな」
「日曜は、バイト休みだっけ」
「そう。休みに入ると、曜日の感覚がぶっとんじゃってさ。――そう云や、珍しいじゃない。日曜の朝にうちにいるなんてさ」
「うん。――別れた」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「新記録じゃん。まだ三ヵ月だよ」
「うるさいわね」
「姉さんも純情、踏み付けられたくちなんだ」
「あのね。――事情、聞いてみたいか」
「聞いてあげるよ」
ユウコの「事情」は、たっぷり半時間分あった。話し終えると、ユウコは水着とタオルを鞄に詰め込んで出ていった。おおかたプールにでも行って、新しい男でも探すのだろう。二十代も後半に入ったとはいえ、声を掛けてくる男には不自由しないぐらいのルックスは維持している。
ひとりになったカズは、とりあえず洗濯を始めた。下着を干し終えると、今度は靴の手入れに取り掛かる。買ったばかりのウェスタン・ブーツを仕上げた頃合に、玄関のドアのむこうで聞き慣れたクラクションが鳴った。
カズとユウコのアパートは一階にあって、玄関は通りに面している。ドアを開けると、赤と白に塗り分けられたスズキ・アルト・ワークスが停まっていた。キョウが、降りてくる。
「車、直ったんだ」
「壊れてねえって」サングラスを掛けたキョウは気分がよさそうだ。「車検だって云ったじゃねえか。なあ、おまえ暇か?」
「暇だよ。どっか、行こうよ」
「おう。出てこいよ」
カズは仕上げたばかりのウェスタン・ブーツに足を突っ込んだ。
カズはアルトの助手席に乗り込んだ。むっとした熱気がカズの身体を包む。
「ねえ、エアコン直してないの?」
「ん? ああ、外しちまった」
「なんでさ」
「要らねえからだよ。軽量化だって」
キョウはイグニッションをひねって、エンジンを掛けた。カー・ステレオが目を覚まして、フル・オーケストラの響きが狭い車内を満たす。
「カーステは外さないんだ」
「外さねえよ」キョウはサイドブレーキを戻して、ミッションをローにいれる。「こいつがねえと、調子が出ねえんだ」
「ブルックナーで調子が出るとも思えないけどな」
アルトは発進した。カズの家から三つ目の交差点を曲がって、五日市街道に出る。
「――そうか。それで昨日、『スラム・ティルト』に来なかったんだ」
「まあな。ちょっと、車の具合を試してた」
「どうだった?」
「うん。いまいちだなあ」正面を見据えたままキョウは渋い顔になる。「第三京浜のS字に百四十で突っ込んだら、シャーシがよじれる」
相変わらず無鉄砲だ。カズはため息をついた。
「あのさ。二回も事故ってる軽自動車で、そういう事は止めた方がいいと思うよ」
「そうかな。でもよ、十五年前のアメリカ製バイクで最新のドゥカティと張り合う馬鹿だっているんだぜ。――そう云やさ、おまえミキちゃんの家、知ってるか」
ミキとやらが誰だったか思い出すのに、少し時間が掛かった。
「ああ、ミキちゃんね。見当はつくけどさ、なんで?」
「いや。誘ったら一緒に来てくんねえかな、と思ってさ」
どうやらそれが目的で、キョウはカズのアパートに現われたらしい。
「無理だと思うな」
アルトが赤信号で停まった。太くて漫画の主人公みたいに形のいい眉を寄せて、キョウはカズの方を見る。
「どういう意味だよ」
「今頃ミキちゃんは、十五年前のアメリカ製バイクのタンデム・シートに乗ってるはずだよ。――キョウ、信号が青」
アルトはぎこちなく発進する。
「――あの野郎。いつ、口説いたんだ」
「シンちゃんが口説いたわけじゃないけどね。乗りたがってたのは彼女の方だったな」
云って、カズはキョウの顔を覗き込む。カズに見えるのは、いつもと同じ狂暴な単純さと男性的な繊細さだ。そんなカズの視線にはまるで気付かない様子でキョウは黙ったまま車を左折させて、環状八号線に乗り入れさせる。
「なあ」キョウはハイライトを銜える。「ハーレイって、そんなにいいのかな」
「うーん。ぼくは、好きだけどね。シンちゃんは悪口ばっかり云ってるけどさ」
「おまえの見解なんて訊いてねえよ。女の子って、ああいうの、好きなのか」
突然、腹が立ってきた。
「知るわけないじゃん、そんなの、ぼくに訊いたって。なんだよ、どいつもこいつも女の話ばっかでさ」
思わず、声が大きくなる。キョウはちょっと驚いたようだ。
「――どうかしたのか」
「姉貴だよ」
「おねえさん、か?」
「そうさ」カズの口は止まらなくなっている。「朝っぱらから、トシコの話なんかしやがってさ。気分悪いよ」
「トシコちゃん、ねえ。ここんとこ見ねえなあ」
「やっと忘れてたのにさ」
「そこまで云うかよ。結構可愛い奴だったじゃねえか」
「ぼくは頭の悪い女が嫌いなんだよ。あいつのせいで、ますます嫌いになった」
ちょっと困った様子で、キョウはコンソールの灰皿にハイライトを押し付けた。悪いとは思いながらも、こんな時にカズはキョウをいじめたくなってしまう。
「ねえ、キョウ」
「あ?」
「キョウって、女の子好きだよね」
「いきなり、何を云いやがる。――そうだなあ。恋愛っちゅうのは、女の子がいなきゃできねえしな」
「じゃあさ、キョウは恋愛ってのをやらかしたいから、女の子を好きになんの?」
「ううむ」こんな間抜けな質問にも、キョウは真剣になって答えを探してくれる。「そんな事はない、と云いたいところだが。なんかよ、いい女がいてそいつの事考えてっとするだろ。そうすっととりあえず、その女の事考えてる自分がいるってのは実感出来んじゃんよ」
喋りながらキョウは少しずつ照れだして、最後には含み笑い混じりになる。
「そういう時に、女の子の方は何考えてんだろうね」
「わかんねえよ。カズは女の子、嫌いなのか」
今度はカズが困る番だ。
「どうなんだろうね。素敵な女の子、ってのはいるけどさ」
「多分、そういうこったよ。いろんな女がいて、いろんな男がいるんだ」無理矢理な一般論で結論を出して、キョウは続ける。「ところでよ、ミキちゃんってのはやっぱりいい女だと思わねえか」
話が、元に戻ってしまった。カズは心のなかで嘆息する。
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