テレキャスター・ダンシング Monkey Strut 両谷承
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国道ぞいの街並みが少しずつ落ち着いた色あいに染まっていくのを、尚美はクーペのサイド・ウインドウ越しにぼんやりと眺めている。エアコンの効いた車内で尚美に聞こえてくるのは、カーステレオからのダンス・ビートと上岡さんの声だけだ。
上岡さんの口調は快活だけれど、午後いっぱいのドライブの後で少し疲れているように感じられる。ウィンドウの外を流れてゆく風景に目をやったまま尚美が打つあいづちも、なんとなくそらぞらしい。
この街に来てはじめて会った時の違和感が、もう四回めのデートになった今でも尚美の身体のどこかにしつこく残っている。どうしても、上岡さんとうまく気持がかみ合わない。−−尚美のこんな気分に、上岡さんはまるで気付いていないようだけれど。
「木曜の夜、いなかったよね」
上岡さんは煙草をくわえて、窓を細くあける。エンジン音と一緒に、あたたかい湿った風が吹き込んでくる。
「バンドの練習があって、それから仲間とドライブ行ってたんです」
キャディラックで、なんて言えない。言ったらきっと笑われてしまうだろう。
「バンド、ねえ。楽しい?」
「楽しいっていうか−−なんか、楽器三つで喧嘩してるみたいで。そうだ、上岡さんも一緒にやりませんか」
「俺が?」
「あたし、リード・ギターとボーカルひとりでやってるんですよ。上岡さんがギターで入ってくれれば、だいぶ楽になるな」
「こら。よしてくれよ」
「でもあたし、上岡さんのの弾くギター好きだったんだけどな」
「もう、そんな元気ないよ。二十歳も越しちゃったしさ」
クーペは交差点を曲がる。西陽がまっすぐに入って来て、尚美はフロント・ウィンドウのサンバイザーを下ろした。サンバイザーの裏側には、小さな鏡が取り付けてあった。
鏡をのぞき込むと、ピンクの口紅を塗った尚美がにらみ返した。どことなく人形めいたかたくて少し冷たい表情をしていて、不自然におとなびて見える。
クーペは鉄道の高架をくぐって、市街地に入ってゆく。上岡さんはウインカーを出して、いつものように上岡さんのアパートに続く道へとクーペを向けた。
上岡さんはかまわないと言ってくれるのだけど、尚美はどうしても上岡さんの部屋に泊まる気になれない。
上岡さんの腕はあたたかいし、その中でこのまま眠ってしまえば素敵だろうな、とはいつも思う。なのに、十二時をまわる前に尚美は上岡さんのベッドを脱け出してしまう。なぜなのかは、自分でもよくわからない。
尚美をアパートまで送ってくれる車内では、上岡さんはすっかり無口になってしまう。昼間、デートの最中にはあれほどいろいろな事を話してくれるのに、と尚美はいつも不思議に感じる。それでも、真夜中に黙って車を走らせる上岡さんの隣に座っている時間の方が、尚美はずっと好きだ。
「ねえ、上岡さん」
「うん?」
訊きたい事があるんです、と言おうとして尚美は言葉を飲み込んだ。こうやって送ってもらっている時が上岡さんと一緒にいて一番楽しい時間なのだし、それを壊してしまうような事は言いたくない。
「どうしたの」
「−−なんでもないです」
「そう」
上岡さんは言葉を続けない。カー・ステレオだけが鳴り続け、尚美も黙ったまま暗い街灯に浮かび上がる上岡さんの顔を見ている。
きっと、何かが変わってしまったのだろう。−−唐突に尚美はそう思った。目だけは十六の頃と変わらないまま上岡さんを見つめているけれど、あの頃の息づまるような想いはない。三年前よりもずっと冷静でいられるし、笑われてしまうようなとんちんかんな受け答えもしないですむ。ひょっとするとそれだけ、ほんのわずかでも大人になったという事かもしれない。
住宅地の入り組んだ街路をスムースにすり抜け、上岡さんはクーペを尚美のアパートの前に停めた。上岡さんが先に降りて、助手席のドアを開けてくれる。クーペの外は人通りもない、真っ暗な十二時過ぎの街。
「ありがとう、ございました」
助手席のドアを閉めて尚美が言うと、上岡さんは口元に苦笑を浮かべた。
「そういう固い言い方、やめてくれないかな」
ゆっくりと優しく、上岡さんは尚美の肩に手を回して抱き寄せた。かかとのある靴をはくと、尚美と上岡さんの目の高さはほとんど変わらない。反射的にまぶたを閉じた尚美の唇の上で、上岡さんの唇が小さく音を立てた。肩を抱かれたまま、尚美は上岡さんの鎖骨に額を当てる。上岡さんの体温が伝わって来る。
「にいちゃん、その辺にしてくんねえかな。そっちの女の子にちょっと用があんだけど」
ぶっきらぼうな声があたりの静けさを崩す。上岡さんの腕が尚美の身体から離れた。声の主は細長いシルエットのまま、尚美たちの方に近づいて来る。
「あんた、なんであたしの家知ってんのよ」
「ハルさんから住所を聴いた」和は不機嫌そうに言う。「どうしても渡したいもんがあってさ。けっこう、さがしたんだぜ。−−へえ、こいつがあんたの男かよ、尚美」
「尚美ちゃん、こいつは誰なんだ」
上岡さんはすっかり当惑している。慌てているのは尚美も同じだ。
「うちのバンドの、ベースです。−−和くんさ、渡すものがあるんだったら大学でにしてくれないかな。びっくりするじゃない」
「早く渡したかったんだよ。−−なあ、俺そのにいちゃん、見た事あるような気がするぜ」
「同じ大学なんだろ」警戒しているのか、上岡さんはざらついた口調になる。「だったら、どこかですれ違った事くらいあるかもしれないな」
「そうかな。−−やっぱり、俺の勘違いかも知れねえ。あんたにそっくりな格好した奴なんて、大学中にうじゃじゃ歩いてるからな」
和は喧嘩腰だ。初対面から不作法な口を利くのは尚美の時も同じだったけれど、和が上岡さんを見る目は、まるで違っていた。
「言いたい事があるんなら、はっきり言えよ」
上岡さんらしくない、気色ばんだ声。和は一瞬凶暴そうな笑みを覗かせるとつい、と視線を外らした。
「やめとくよ。別に、あんたに言いたい事なんかねえし」和は尚美に向かって、右手の紙束を突き出した。「今日は、こいつを渡しに来たんだった」
「なによ、これ」
尚美は内心うろたえてしまって、それを表に出さないよう押えつけるのに精一杯だ。
「楽譜」
「いらないって言ったじゃない」
「こいつは、いるんだよ」
和の真剣な口ぶりに、尚美はそれ以上何も言わないで楽譜を受け取った。初めて会った時のような試すような強い視線を−−口元は少しも笑わないまま−−ひとしきり尚美に向けると、和は尚美たちに背を向けて神経質な足どりで離れてゆく。おやすみ、の一言も残さずに。
「なんだよ、あいつ」暗がりに消えてゆく和の黒いジャケットの背中を見つめたまま、上岡さんは低い声でつぶやく。「尚美ちゃん、あんな奴とバンドやってんのか」
尚美は何も言い返せない。和を弁護するなんて気はさらさらないけれど、和に代わって上岡さんに謝ろうとも思わなかった。
上岡さんはひとつ舌打ちして、クーペに乗り込む。無言のままドアの向こうに立ちつくす尚美に、上岡さんはとってつけたような甘い微笑みを見せた。
「おやすみ。また、電話する」
それだけの言葉を残して、クーペは発進する。ひとりっきりになった尚美は楽譜を胸に抱えて、アパートの部屋に駆け込んだ。
パンプスを脱いで部屋に上がると、尚美はベッドに身体を投げ出した。
どこかすっきりしない、混乱した気分が残っている。
どうしてあんな、どっちつかずの態度を取ってしまったのだろう。上岡さんはきっと、怒っているに違いない。本当は、尚美は和の不作法をまずとがめなければいけなかったのだろう。
それが、尚美には出来なかった。恋人であるはずの−−今でもどこかあやふやで、確信が持てないけれど−−上岡さんを、うろたえながらもつき放してしまった。ひょっとすると上岡さんは、尚美が両天秤をかけていると思ったかもしれない。男の子ふたりの言い合いを黙って見ているなんて、まるでどちらを選ぶか決めかねているみたいに見えただろう。
本当に、そうだったんじゃないか−−ふと頭に浮かんだ考えを、尚美はすぐに打ち消す。そんなはずはなかった。上岡さんは尚美の夢だったのだし、今、尚美はそれを手に入れたのだ。少なくとも、そのはずだった。
あたしは、上岡さんの何を知っているのだろう。−−悪い考えが、次から次へと浮かんで来る。上岡さんは、確かに優しい。一緒にいるあいだ中、ずっと尚美の事を気づかってくれる。その事は、尚美にはとても嬉しい。
だけどそんな上岡さんは、十六の尚美が胸がつぶれそうなほど好きだった軽音部一のギタリストとはどうしてもうまく重ならない。
昔の上岡さんが昔の尚美にとって何だったのかは、よく知っている。だけど今の上岡さんは、本当は今の尚美にとって何なのだろう。自分の心の中の事なのに、尚美ははっきりした答えを見付けられない。
天井に向かってため息をつきながら、尚美は自分の右手がまだ楽譜を握ったままなのに気付いた。広げてみる。
五線紙に雑な音符でメロディ・ラインがしるされていて、コード・ネームが書きこまれているだけだ。歌詞も曲名も書かれていないので、何の曲だかちょっと見ただけではまるで見当がつかない。
尚美は楽譜をテーブルに放り出した。何も考えるのはよして今夜は眠ってしまおう、と思った。
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