雲水日記セレクション 第一回 "Unsui Diary Selection" #1 (我はない、ゆえに「あり」) よしもと
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去年の暮れ頃には、椎名林檎の歌声をあまり好きになれないでいた。
でも、遅れ馳せながら、椎名林檎の『無罪モラトリアム』を聴いて、ホント、今更なんだけど、あまりのよさに驚いている。
やっぱり、何かについて語ろうとするなら、それについてちゃんと知ってからにしないとだめだな、と痛感。そちらの方へちゃんと足を突っ込んで腰を落ち着けてから、あらためて、それについて語らなければ。自分の目で耳で確認しなければ。これは、自分に言い聞かせているのだけど。
「ここでキスして」は、サビ部分だけはよくラジオとかテレビで聴いていたのだ。テレビでCMも流れていたし。
「ここでキスして」のサビ部分は、割とキャッチィなフレーズだと思う。一般受けしそうな感じなのだ。事実、椎名林檎はあの歌でブレイクしたと思うので、「ここでキスして」は、一般市民にも受け入れやすい曲だったのだ。(正確にいうと、「ここでキスして」で注目されて、真にブレイクしたのは、「本能」の看護婦姿なのだろうけど)
でも、なんといっても、「ここでキスして」で凄いのは、彼女のヴォーカルだ。曲とかアレンジとかの善し悪しなんかわたしには語れない。ただ、彼女のうねるような声に、歌い方に、ただホレボレとするだけである。あのヴォーカルの凄さは、やっぱり一般的な曲に化けても隠し切れてない。(本人は、別に隠してるつもりはないだろうけど)
あの曲は、サビだけ聴いてもだめで、曲全体を通して聴いてやっとすごさが分かる。いや、凄さがぱっと分かる人はサビだけでもシビレるんだろうけど、わたしにはそれくらいの時間が必要だったのだ。
あの1曲の中で、聴いてる人間にこれだけのイメージを与えてくれるというのは、やはり、声が、歌い方がすごいのだ。彼女にしか歌えない歌い方なのだ。息使いひとつにも、彼女にしかない魅力が感じられる。
この曲の歌詞だけ読むと、一見、普通の女の子の気持ちを書いてあるように思える。(本当はよく読むと、どこかが少し違う)これを椎名林檎が歌ってるのを聴いたら、歌詞は変わってないのに、全然普通の女の子に聞こえなくなるから不思議だ。彼女全部の存在をかけた凄さみたいのが、伝わってくる。うねるようなヴォーカルに、暗い、深い、醒めた情念が感じられる。
彼女のヴォーカルは、一見可愛らしい感じさえするけれど、ふとした声の瞬間瞬間に、なんともいえない凄みがちらりと垣間見えるのである。一瞬のことなんだけど、ちらりと。
それがとても印象に残る。情念の残像。
わたしは断言するけど、この「凄み」は、「女」にしかないものだ。
相対的「女」ではなく、絶対的「女」。そんなイメージ。聖と穢、どちらもある。そして、それは娼婦に近いものだろう。古代、神殿にいた神殿娼婦のイメージと重なるのだ。聖と穢、両方のイメージを、彼女はたくみに使い分けている。
このような、絶対的「女」を売りにしてきた女性は、勿論、これまでも大勢いる。彼女たちと、椎名林檎との決定的違いは、そういった絶対的「女」のイメージ力に振り回されていないということだ。
絶対的「女」をうまく制御できなくて、そのイメージに押しつぶされるかされないか、の違いなのだ。
彼女たちにできなくて、椎名林檎にできたこと、それは、自分の中のこの絶対的「おんな」を客観的に認識している、ということだ。
彼女の暗い情念は、ただの泥臭いものにならずに、寸止めのところで、止まっているのは、どろどろになっていないのは、醒めているからである。
客観的な情念なのだ。
情念を思考しているのだ。情念シュミレーションというか。
彼女は、いつでも、情念を「演じて」いるのだ。醒めた客観的な目線には、ユーモアも含まれる。
このような椎名林檎の作品を聴いて、わたしの中で結びつくのは、内田春菊なのである。
そこにあるのは、「母」でも「少女」(未婚の女性)でもない女。おんなという個人。
彼女たちに共通しているのは、自分の性をちゃんとわかっているというところ。自分の性を自分なりの考えで認識しているところ。
この場合の「性」とは、文化的な性差であるところの「性」ではないのである。かといって、肉体的性差だけでもないのである。
遥洋子の『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』によれば、ジェンダーが文化的性差である、という考えは古いのだ。
ジェンダーとは、正しくは、「肉体的差異に意味を付与する知」である。
社会的性差とした場合には、ジェンダーとは、ただの社会的役割になるわけで、それなら、すでに、椎名林檎のような人には、あまり意味はないな、とわたしは思うのだ。
そんなジェンダーなら、問題にする必要はあまり感じない。
なぜなら、すでに、ありたいようにある人人には、ジェンダーなど問題にもならないからであり、もし、男女の性差について考えるとするなら、それは、肉体的差異でしかないし、しかし、その差異については、今更つべこべ言う筋合いではないし、(そういう身体で生まれているのだから)それならば、そうした肉体的差異についてどう考えるのか、という点がポイントになるのだ。
肉体的性差というものは、どうしようもないものだ。現にここにあるモノだから。
何をどうしようとも、肉体的性差はすでにある。あとは、それをどう考えるかということだ。
そこで椎名林檎である。
彼女は、これでもか、というくらい、「おんな」をいう性をみせつける。それも、ただのメスというだけで終わらないで、それを音楽に昇華させている。彼女は、おんなであるということを、知性と才能を媒介にして、見せ付けているのだ。しかも、それは、彼女が、自分の中の「おんな」に振り回された結果ではなく、彼女が自分で「おんな」を客観的に認識しコントロールした上でのものなのである。
彼女はちゃんと男性がどういう自分をどういう目で見ているのか、彼女に何が求められているのかを正しく認識しているし、そういう自分を客観的に見つめることもできる。
そういうのをちゃんと分かった上で、あえて、「おんな」である自分を演じて、商品にしているのだ。それは、やはり、おんなである自分と、ちゃんと向き合った証しではないだろうか。カラダを売るのではなく、「おんな」を売る。そうするためには、自分の「おんな」を客観的に扱えなくてはならない。
なぜなら、商品とするためには、それが分離していなくてはならないからだ。椎名林檎も内田春菊も自分の中の「おんな」を客観的に扱うことのできる存在なのだろう。
このような自分の中の「おんな」と決着のついた女性たちに、怖いものなど、ないに違いない。
そして、彼女ら「おんな」が「おんな」を個人に売るという新しいカタチは、これまでの、男が「おんな」を男に売るという商売を揺るがしていくだろう。
第一章では、ジェンダーとからめた、椎名林檎のビジネス戦略について考えてみた。(そんな内容だとちゃんとわかってもらえたかどうかは、いまいち不安であるけれど)
今度は、椎名林檎の思想について、わたしなりに考えてみたい。
先日、テレビで椎名林檎が歌っている姿を見かけた。
眉毛がない、というのは、日常性が希薄になる。
椎名林檎は、曲が変わるたびに、本人の顔も変えているような気がする。毎回顔が違うのだ。
彼女は、その曲を「演じて」いるのだろう。彼女の肉体と歌と音を使って。
それは、本当の彼女がなくなる瞬間だ。
それこそが、彼女の望んでいることなのではないかとわたしは思う。
つまり、自分=エゴがなくなるくらいのただの存在になることを、だ。
たとえば、彼女の曲、「幸福論」に、こんな歌詞がある。
時の流れと空の色に
何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君の
そのままを愛してる故に
あたしは君のメロディーやその
哲学や言葉 全てを守り通します
君が其処に生きているという真実だけで
幸福なのです
彼女は、時の流れとか空の色と同じように、自分の中のエゴをなくそうとしている。
そして、ただ、相手をそのままに愛そうとしているのだ。
人が誰かを愛する時、一番簡単なのは、片思いでいることだ。
ただ愛するだけなら、割と簡単にできることだ。だからストーカーが増えるのである。
愛というのは、一方通行の時が一番楽なのである。
なぜなら、そこには、相手を思う自分しか存在していないからだ。
自分しか存在しない世界にいること、これは、簡単なことだ。
人が誰かの存在を認める時、そこにようやく、自分の世界に穴があくのだ。
他人の存在を意識する事。これが、その人のはじまりだ。
他人の存在だけでなく、時の流れや、空や、木や、その他の世界そのものを、そのままに意識すること。この認識するという行為に、自分の思いこみ、エゴ、自分という歪みを入れないで、いかにして、そのまま認識するか。
これが、わたしの思う「幸福論」で、椎名林檎の思想ではないか、と思うのである。
「愛する」ことは、ともすれば、相手を自分のものにする、相手を自分と同一化する、というだけのことになってしまうのである。
だから、椎名林檎も、「幸福論」の中で、愛する相手の哲学や言葉や色色なものを、守りたいと言ってるのではないだろうか。
相手を自分の思想にしてしまってはいけないし、相手の思想を自分のものにしてもいけないのである。相手と同化してはいけないのである。
相手の思想をそのまま守りながら、なおかつ、相手を愛する。そして、相手にも愛される。
「愛し愛される」ということは、難しいことなのである。
けれど、人を愛し、愛されることは、思っている以上に、温かなことなのである。
それは、人の生涯の孤独を、一瞬だけ、癒してくれる。
その一瞬こそ、幸福。
そして、エゴのない一瞬を認識することこそ、「ある」ことなのだ。
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