投函された一通の手紙
連載第8回 (秩父市 三木久幸)


 たこいさんへ。

 こんにちは。

 糸納豆有り難うございました。

 封筒を開けたらいきなりきれいな表紙が出てきて、驚きました。きれいですね。カラースタイルライターですよね? やるなあ。(編註:いくらなんでもカラースタイルライターであそこまで綺麗な印刷ができるわきゃない(笑)。三木は巻末の「Technical Note」をよく読むように(笑))

 今回の目玉はやっぱり「映画の宝箱」ですね。デジャブの続編を、という話をしてた時に「マイライフ・アズ・ア・ドッグとトトロの比較から宮崎駿論へ展開させる」と言ってた原稿がこれな訳ですね。その話を聞いたときは「どうやって?」と思ったけど、そうか、そういう結論に持っていくのか、と感心しました。面白かったです。それに、文体の若さがほほえましい。ずいぶん前の原稿ですよね。僕は確か、自分の原稿をNKKの寮の同室の奴のワープロで打った覚えがありますから、6年近く前。編集後記が、まるで少女漫画の短編集に初期の作品が入ってて、欄外に「絵柄が変わっちゃって」なんて書いてるノリみたい(笑)。

 CAREも面白かったです。地方都市の話が特に。実感できる話ですね。ストリートスライダーズはあまり詳しくないのですが、今回のアルバムは僕も買ってしまった。初めにアルバムを聞いたときは、「Boys jump the Midnight」みたいな曲がないぞ、と思ってしまった。そういう奴が村越を辛くさせんだよ、って言われそうです。でも、何回も聞いてるうちにハマってしまって、ライブ版も買ってしまった。ライブ版の方がもっと良かった。

 たこいさんのお薦めの『ハイペリオン』は実はまだ読んでおりません。会社の売店で注文しております。手紙を書くのは、読んでからにしようかとも思ったのですが、本がなかなか来ないので書き始めてしまいました。そう言えば、今年の正月は『ソリトンの悪魔』を読んで過ごしました。これは「スカっとさわやかSF」で、井熊さんの旦那サンにも薦められるのではないかと。単に小松左京っぽいってだけかな?(笑) 半年くらい前の話。会社の先輩に「東北大の農学部って駅の裏なの?」って、いきなり聞かれて「いや、違いますよ」って答えました。理由を聞けば『パラサイト・イヴ』にそう書いてあった、と(笑)。僕も読みました。面白かった。後半がいきなり漫画っぽくなって、少し残念かな。しかしこれ、やっぱり仙台が舞台と思えるのですが細部が少し歪曲されてますね。これでは懐かしの「仙台SF」には入らんのでしょうか(笑)。あ、SFじゃないか(笑)。

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』も読みました。小説読んでるでしょ? たこいさんは読みました? これはどう評価すればいいのでしょう? 『ツインピークス』と雰囲気が似てるのかな、とも思いましたが、『ツインピークス』を見てない(笑)。なんか、3巻目でいきなり雰囲気が変わって、変な感じでしたが。バットで人を殴るのって気持ちよさそうだ、と思ってしまいました(笑)。

 ジョジョも第五部に入ってしまいましたね。いくつもの謎を残したままで(笑)。第四部の宇宙人って、本当の宇宙人だったんですか(笑)?

 ところで、今回もサンプリングの話なのです。タイトルは、「オザケンみたいにカラオケを歌おう!」。前回のサンプリングの話、後半が今一つきっちりしてない感があるので、その辺をもう少し考えてみようかと。

 教科書的に言えば、小説や音楽など「表現されたもの」を読んだり聞いたりすることは「二次的な体験」な訳ですね。誰かが「一時的」に体験したことや考えたことを表現を通じて追体験する訳です。更に、小説や音楽に対してリアクションとして行う表現、批評やパロディが「三次的な表現」であり、これを読むことが「三次体験」。これも、いいでしょう。これらを読んで想起されるのは、その小説(音楽)を読んでいる(聞いている)体験な訳です。

 批評、パロディには、表現者の対象に対する態度が提示される。

 でも、最近のサンプリング音楽、パクリ音楽を本当に三次体験とカテゴライズできるのだろうか。そこら辺が判らない。聞いてる奴は本当に「あぁ。こういうの好きなんだ、判る判る」というリアクションをするのか。そこのところが判らない。パクリの王子様・小沢健二は「僕の音楽はオリジナルだから」と常に発言し、若い人はリバイバルヒット曲を「かえって新鮮な感じ」と受け入れる。その辺を考えると、どうもパクリ音楽を批評の一種、元ネタへのリアクションととらえてはいけないのかも知れない。

 街に出ると聞こえてくるのは、風の音や鳥の声なんかであるわけはなく、ひたすら音楽です。もう、最近の街ときたら。コンビニでも音楽、街角でも音楽、喫茶店でも、テレビ見てても、音楽のとぎれることはない。

 そんな風に音楽を耳にすることは、もう一次体験に近いものになりつつあるんでしょうか。なら、かつてのブルースマンたちがギターのボロ〜ンという音を組み合わせて歌った様に、街で耳にした音楽を組み合わせて「自分の音楽」を作ることができるのかも知れない。でも、その時に気を付けなきゃいけないのは、「何となく良いと思って」作った音楽が「もともとあった何か」に似てしまうこと。「音の断片→音楽」だったブルースマンの頃と違って、「音楽→音楽」である最近の人たちには、その危険性はなおさら高い。

 パクリをやるにはかなりの知識を必要とするし、やり方にもかなり自覚的でないといけない。つまり、「テクニック」が「知識」にとってかわる。サンプリング世代の技術論と言うわけです。たくさんの音楽を知っていることは、単なる「技術」にすぎない。それに対する態度も、技術の一部。ギターが上手いか下手か、どのギターが好きか嫌いか、その程度の事でしかない。

 ここでまた小沢健二の発言を引けば、「僕の音楽はサブカル的に見てもすごいと思う。でもそんなことはどうでも良いことで。僕が他の曲の断片を使うのは、ただそれが良いと思ったから」。この人の発言によれば、パクリ・サンプリングの手法を使っていても、作った人の人間性を込めて作ればオリジナルの物になるし、リアクションではない本質的な物がつくれる。「人の表現を使って自分を表現する事はできる」そう考えているんですね。そうなると、もうこれは「三次的表現」とはいえないのでは?

 誰かの「鳴らした音」は、鳴った瞬間にもう「鳴ってる音」になってしまう。鳴ってる音は理屈以外の所で良い悪いが判断され、「音の断片」として表現の材料となっていく。それには「知識」と「それに対する態度」という技術とセンスが重要になる。で、それを自分の表現したいものに沿って構築していく。これで、これまでの表現と全く変わりなく、本質を表現することができる。つまり、「人の言葉で自分を表現できる」。

 そうなると、元ネタの立場は? オリジナリティってなに? って話にもなるけど、もしかしたらこれを突き詰めた極限には純粋なビジネスの話があるだけかも知れない。そう思わされるほど、小沢健二の発言は確信的です。

 これは、SF小説の世界では小道具や舞台設定で、かなり以前から行われていることかも知れませんね。共通言語としての小道具、舞台設定。それがジャンルとして確立したりして。(でも、『ソリトンの悪魔』なんかは「70年代の日本SF」を「めざして」書かれていて、共通の言語となった小道具や舞台設定を使うというのとは、ちょっと違う感じもする。)

 で、実践編。

 自分の身の回りで、人の言葉を使って自分を表現する、という言葉ヅラから僕が連想するのは、カラオケなわけです。(お〜い、読むのやめた、なんて言わないで〜。)他にも編集テープってのもあるけど。カラオケの選曲という奴、これが結構侮れない(笑)。例えば、僕は会社の若いモンとカラオケに行って電気グルーブの「N.O.」を入れたのは良いが、「馬鹿なヤングはとってもアクティブ」って歌詞が! まずい、回りはみんな僕より若い。ヤングだ! で、とっさに「馬鹿なオヤジは」と言い換えた事があります(笑)。カラオケでガナる歌詞というやつは「自分の発した言葉」になってて、それは十分に自分を表現してしまう。それを直感したエピソードでありました(笑)。

 でもまじめな話、カラオケというやつはその時の心を表現してる気持ちにさせてくれる。しかも、一応それを聞いてる奴が居る。人の言葉を使った自分の表現が可能な場であるわけです。

 なんか、飲み会が悪口大会とかいう類の、ネガティブなムードに浸りきってるときなんか、「これでも聞けい!」ってな感じでオザケンの「強い気持ち・強い愛」なんか歌いたくなりません? そんなとき、「オザケンはすごいよなあ、ここまで言い切っちゃうんだもんなあ」なんて躊躇する必要はない。自分が発すれば、それは自分の言葉。オザケンの歌で表現しても、本質は自分のもの。がつんと歌ってやりましょう! (で、歌いきれなくてこける上に喉を潰すという、これは僕の毎度のパターンなわけで...。)

 まあ、カラオケの話はともかく。

 オザケン流の「人の言葉で自分を表現する」という手法を、ここに書いたトーンでほどは、信じ切れない僕もいるわけです。本当にそれは「表現」なのか、という疑問。それは「編集」じゃないのか? じゃ、「編集」は「表現」じゃないのか、という反論。少なくとも「創造」ではないだろう、という再反論、じゃあ表現ではあるわけで...、などなど。80年代後半に大学生活を過ごした僕は「表現の内容はとっくに出尽くしてる。方法を換えてくのが表現の進歩だ」と思ってました。

 でも、もしかしたら内容も手法も、もうとっくに出尽くしたのでしょうか。ノーベル賞をとった利根川進は、「文学も哲学も教育学も、いずれ大脳生理学の元に統合される」と言ってました。「その時には感動すらも「感動物質」とか「感動反応」とかいったもので説明されるはずだ」と。そうだとすると、「感動」にそれほどパターンがあるとも思えない。いつか出尽くしてもおかしくはない。え? そんなの、もっとずーっと前、神話や伝説、民謡やクラシックの段階で出尽くしてる? そうなのかもしれない。

 でも、そうならそうで、歌や表現をあるサイクルの中の一環として楽しめばいい。すると、結論は前回と同じ。

 どんな手法を使っていても、良いものは良い。それだけですね。


 結局、長くなってしまいました。続いて、僕の近況でも。

 今年の秋に結婚します。相手は、言語療法士という、言語障害を持つ人のリハビリの手伝いをする仕事をしています。

 先日、彼女の勉強しているペーパーのコピーを見ていたら、引用文献の著者の欄に藤森美里、今村徹とあるのを見つけました。神経生理学とか、Brain Medicalとか、そういうタイトルの雑誌です。

 結婚後の住居は熊谷と秩父の間にある花園町と言うところです。電車で一時間の長距離通勤となります。埼玉のド田舎で、東京並の長距離通勤です(笑)。

 今回は時間のかかった手紙になってしまいました。一カ月以上かかった(笑)。内容は、う〜ん、時間かけてもそんなに良くならないですね(笑)。文章も読みやすくならないし。それにしても、前号の坂中のメイルで「読みにくいのは三木だけじゃない」って(笑)。それじゃフォローになってない(笑)。

 そうこうしてるうちに、売店に頼んだ『ハイペリオン』が入荷してしまいました(笑)。長距離通勤の電車で、じっくりと読もうかと思います。楽しみです。

 では、また。

1996.3.7 Miki


編註:今回の三木の手紙に関しては、編集の手間の軽減のために一度封書で届いたのと同じ内容のテキストを電子メールで再送してもらいました(笑)。以下はその時の三木のコメント。

 タイトルは、「投函された後に電送された、一通の手紙と一通のメイル」(笑)でど うでしょう。
 嘘です(笑)。なんか適当にいいのを考えて下さい。おまかせします。そのままが良いような気もしますが(笑)。
 それから、私の身分は寄稿者と言うより、投稿者で良いです(笑)。「ジャンプ放送局」の常連みたいな感じ?(笑)

 タイトルについては、僕もこのままがいいと思う(笑)。……ので、三木はこれからもとりあえず必ず一回は封書を投函するように(笑)。


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