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第55回 “イタリアンで行こう”
 掲載誌 糸納豆EXPRESS Vol.22. No.2.(通巻第38号)
 編集/発行 たこいきおし/蛸井潔
 発行日 2004/11/20


 唐突ではあるが、天災は忘れた頃にやってくる(C寺田寅彦)。今年(2004年)は天災の年といって過言ではないと思う。次々と上陸する大型台風だけでも、えらいことだと思っていたが、そうこうしているうちに新潟県中越地震が起こって、これを書いている今も、TVでは現地の大変な状況が刻々と伝えられているところである。

 その地震報道を見ていたら、阪神・淡路大震災の被災者にエールを贈っていたマンガをちょっと思い出したので、今回はその話。題して「イタリアンで行こう」ということで……。

幼かった恋はやがてダメになったけど
岐路に立ったときいっぱい考えた
大学生になるより、サラリーマンになるより、俺にはコックが似合ってるってね

 台詞はなかじ有紀『ハッスルで行こう』より。主人公、久保海里は神戸の調理師専門学校に通うコック志望の青年。イタリアンレストランのバイトで先輩コックたちに刺激を受けつつ修行に励む日々。バイト先の同僚で専門学校仲間でもある茅野彩にひたむきだけど静かな想いを寄せている。

 この作品の連載中に阪神・淡路大震災が起こった。LaLa誌上では、連載陣の中でも被災地区在住だった樹なつみ、なかじ有紀らの阪神大震災お見舞いのページが設けられたのだが、そのページに書かれていたなかじ有紀の「神戸は私の大好きな街です。だから私は舞台をよく、ここに選びます。(中略)そしてこれからも、大好きな神戸を舞台に、一日も早い復興を願って、元気で明るい神戸っ子が描きたいです。」という決意表明には、ちょっと目頭が熱くなったことを覚えている。


 なかじ有紀というと、デビュー当時の『学生の領分』から最近の『ビーナスは片想い』まで一貫して「恋愛の幸福感」をモチーフとしたマンガを発表し続けている。片想いの間の一喜一憂、恋人になってからの紆余曲折、その過程で男の子や女の子が感じる些細な幸福感を描かせたら、ちょっと右に出るものはいないかもしれない。でも、この『ハッスルで行こう』だけはそんななかじ有紀の作品の中でも、ちょっと異彩を放っているのである。

 こうまでいうとあるいは言い過ぎかもしれないが、『ハッスルで行こう』以前のなかじ有紀作品は「恋愛の幸福感」を描くこと「だけ」を目的にしていた、と思う。そして、登場するキャラクターは例外なく美少年、美少女ばかりで、バレーボールとか、サッカーとか、バンドとか、モデルとか、それなりに打ち込むものを持ってはいるのだが、それがメインテーマとなることはなく、心理的な葛藤の主な部分はすべて恋愛に注ぎ込まれているといって過言ではない……という表現はやっぱり言い過ぎかな(笑)。

 それが、『ハッスルで行こう』に関しては、恋愛を主軸にしつつも、主人公のコックとしての成長を、サブテーマではなくもうひとつのメインテーマとして描ききることに成功している、と思う。

 その成功の要因としては、なかじ有紀の実家がイタ飯屋を営んでおり、コックをしている父親、弟さん、とその周辺のコックさんたちに綿密な取材ができた、ということ、とりわけ、実際にコックなりたてで修業中の弟さんが身近にいたことが大きいのだと思う。

 余談であるが(笑)、『ハッスルで行こう』の主人公海里には弟に対して非常に傍若無人な姉(笑)がいるのであるが、これにはおそらく実際のなかじ姉弟の関係が投影されているのではないかと想像される(笑)。

 また、実物を間近に取材できるもうひとつのメリットとして、『ハッスル〜』に登場する料理やケーキは実にリアルでおいしそうに描かれているし、ケーキ作りの蘊蓄も実にもっともらしい。

 『ハッスル〜』以降の作品でも、それ以前の作品と比べると、主人公たちの恋愛以外の目指す道、将来の夢などへの描写にはそれなりに重きが置かれているものの、残念ながら、メインの恋愛を彩るエッセンスという域を越えてメインテーマにまで昇華されていた作品はない(と思う)。

「“恋人”かぁ…
 スゴイよね。
 大勢の中、めぐり逢えるだけで、すごい確率なのに、自分の好きな人が、自分を好きって、すごいなあ」

 ということで、『ハッスル〜』の中でもまずは恋愛テーマの方から台詞をひとつチョイスしてみた。

 海里の想い人である茅野彩は、バイト先のイタリアンレストラン「ピッコロ」でコックとして働きたかったのだが、コックの求人枠を一足先に海里が取ってしまったため、ウェイトレスとして働いている。物語の後半では、ウェイトレスとしてのがんばりと、料理の実力(専門学校の卒業制作で金賞受賞)などが認められ、コックに昇格する。

 この台詞は、海里が挑戦することになった料理コンテストの応募作のテーマが「恋人」であることを受けて、彩が自分の恋愛観(?)を海里にふともらす、というくだり。

 ある意味、なかじ有紀作品に共通する「恋愛の幸福感」の源をズバリ一言で表現していると思い、ピックアップしてみた。


 『ハッスル〜』の登場人物は、主人公久保海里とヒロイン茅野彩の他、先輩コックとしては「ピッコロ」のマスター藤倉栄、メイン料理担当でパティシエでもある岡井篤郎、パスタ担当の毬谷夏己(この二人は同じ専門学校の先輩でもある)、マスターの娘で専門学校の同級生の藤倉玲奈、ウェイトレスで彩の高校時代の同級生森部千帆、あたりが主なところ。

 物語の序盤、仕事に慣れるためのウェイターの仕事から、ようやく厨房の仕事に入った海里は、簡単な下ごしらえ以外の仕事を任せてもらえない自分にいらだちを覚える。そんな海里に、普段は無口でぶっきらぼうな先輩、夏己がぽろりとアドバイスをもらす。

「“仕事”ってよ。
 “もらう”より“取る”のが面白くね?」

 そんなある日、海里に「ピッコロ」のバイトを紹介してくれた専門学校の教師、山田が結婚記念日のディナーのために「ピッコロ」を訪れる。恩師に自分たちの最高の料理を食べてもらおう、とはりきる篤郎、夏己の姿を見た海里は、自分もなにかしたい、との思いから、初めて先輩から指示された以外の仕事を自分から申し出て「取る」。

「久保! がんばっとるか?
 早くいい仕事“取れ”」

 と、これは山田がディナーの帰り際にレジで海里にかけた励ましの言葉。海里が初めて「取った」仕事は簡単なほたて貝の下処理だったが、それを機に積極性を発揮するようになった海里は徐々に厨房での地位をステップアップさせていく。

 中でも元々の興味と適性もあって始めたケーキ作りでは、篤郎のアドバイスもあってめきめきと腕を上げ、持ち込んだ試作ケーキのいくつかはランチメニューなどに採用してもらえるようになる。

 このあたりの展開には取材の成果が大いに発揮されていて、海里や篤郎の作るケーキは、実際に出す店があるなら食べてみたいくらいである(笑)。また、荒削りな海里の試作品が篤郎のアドバイスで完成度を上げていく過程なども、素人目にはなかなかもっともらしく描かれている。

 まあ、海里の環境が恵まれすぎていて、決定的な挫折を経験することもないあたり、成長物語として考えるなら若干物足りない面もあるが、主人公が恵まれた環境にあって挫折しない、というのは、かの『美味しんぼ』もそんなもんなので(笑)、料理マンガとしては王道(笑)ということで(笑)。

 閑話休題(笑)。海里の成長物語としての『ハッスル〜』には二つの山場があり、そのひとつはマスターの薦めで参加した料理コンテストでの入賞であり、もうひとつは、海里が入店して2年目のクリスマスディナーに前述の専門学校の恩師山田が久しぶりに客として「ピッコロ」に来店するくだりである。海里の作ったケーキをそれとは知らずに口にした山田がもらしたのは次の一言。

「旨いよ、コレ」

 たった一言ではあるが、恩師の口からその一言を引き出したことこそ、海里にとってはコンテスト入賞以上の勲章といっていい。

 このクリスマスディナーの後、海里の想いが彩に通じる恋愛物語のとしての山場もあり、最終回では専門学校の卒展で海里がシェフ・パティシエを務めて開いた一日パティスリーが大好評を博すところでシリーズは幕を閉じるのである。


「久保くんのユメってなぁに?」
「“一度入ったら忘れられない店”開くんだ。
 まっ。ちっこくてもいいんだけどさ。
 料理もサービスも超一級」

 そんなわけで、たこい的にはなかじ有紀最高傑作認定の『ハッスルで行こう』であるが、ここからの話は作品そのものからは脱線させていただく。

 たこいが『ハッスル〜』に思い入れのあるもうひとつの理由として、たこいが帰省の折りには必ず通っていた「忘れられない」イタ飯屋が仙台にあった、ということがある。「あった」と過去形にしなくてはいけないのが淋しいのであるが、その店はさる事情で昨年(2003年)の5月をもって残念ながら閉店してしまった。

 仙台でイタリア料理、ということで伊達政宗のローマ使節にちなんだ名前をつけられていたその店は、仙台SFクラブの先輩会員が開店に関わっていたこともあり、初めはみちのくSFファンダム人脈の飲み会などで通うようになり、料理と酒に惚れ込んだたこいが、自分が帰省する際の東北大SF研のOB&OGの飲み会にも使っていたので、糸納豆の読者の中でもご存じの方もおられるかと思う。たこい本人はというと、予定していた飲み会の日程とは関係なく、仙台に帰省するとまずは立ち寄って、2〜3品つまみながらビールを飲んだりしたものである。

 仙台の中でも立地的には飲食店の多い場所ではなく、バス通りに面した眼鏡屋のビルの地階にあったその店は、最近の言葉で言えば「大人の隠れ家」という雰囲気。ビールもワインもマスターが自分の舌で選び抜いたものだけを置いている中、たこいの勤め先が小ロットで製造しているエーデルピルスという樽生ビールを置いてもらっているのもちょっとうれしかった。

「だからなぁ海里くん。
俺はお客様が満足して“幸せ”になるよーな店にしたいのよ
 はは……。でも儲けなきゃバカだね」

 これは『ハッスル〜』の主人公海里がバイトに入ってから初めて「ピッコロ」のマスターとさしで飲んだ時のマスターの台詞。このくだりを読むとちょっと思い出してしまうのは、98年の春先のこと。たまたま仙台の工場に関わる仕事が入って、数日間泊まりがけの出張をしたのだが、工場への出勤時間が早いため実家ではなく仙台駅前のホテルを使っていたということもあり、仕事帰りに毎晩のように馴染みの店に通う、というたこいのサラリーマン生活の中でも珍しい経験をした。

 その数晩の中でも、仕事で遅くなり、閉店間際にお邪魔したときのこと。既に店仕舞いを始めていたから、ということもあったのだろうが、たこいにその日のおすすめメニューを出してくれたマスターが、カウンターの隣の席に座ってしばらく酒を酌み交わしたことがあった。

 当時のたこいは、仕事での自信喪失が主原因だった抑鬱神経症の状態から薄皮が剥けるように脱しつつあった頃合いだったのだが、マスターの語る自分の店や料理への想いのたけを聞くことができたことが、少しだけたこいの背中を押してくれたのかもしれない。鬱を抜けてから、幾度かあの晩のことを思い出しては、そんなことを思った。

 最近のたこいは試作品で本格ピルスナービールなんかも自分で作ったりしいるのだが、そんな話を帰省土産にあの店に行くことができないのがちょっと淋しい。遠く焼津の地から、かのマスターの再起を祈って本稿の筆を置くこととしたい。


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