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第42回 “風の歌を聴け”
 掲載誌 TORANU TあNUKI 212〜220号
 (通巻第63号)
 編集/発行 渡辺英樹/アンビヴァレンス
 発行日 1998/12/25


 どうも。TTに原稿を書くのは2年ぶりでしょうか。えらいご無沙汰でした。

 この2年一体何をしていたかといえば、見事に何もしていませんでした(笑)。ここのところ、やっと持ち直してきましたが、特に1997年の1年間に関しては、とりあえず「神経症を患っていた」ということにしてます(笑)。まあ、心療内科とか行ってちゃんと診断してもらった訳ではないですが(笑)、振り返りみるに、クスリなしでよく乗り切ったなあ(笑)、というくらいひどい状態でした(笑)。しかし何がいちばん辛いかといって、傍目には何もしない怠け者にしか見えない、というのがいちばんこたえますね(笑)。いやはや(笑)。

 まあ、そういう陰鬱な話は脇に置いておいて(笑)、久しぶりのテーマは「風の歌を聴け」ということで……。

「風招ぎ(かざおぎ)する者あり……
 風の寄るところを風合瀬(かそせ)と申す。
 今、風は柳生へと吹くなり……」

 この妙に渋い台詞は白土三平『カムイ外伝』第3部「剣風」編より。

 抜忍、カムイを追う新たな追忍は柳生家に下男として預けられている間に柳生の秘太刀を身につけた百日(ももか)のウツセ。忍者でありながら剣に天賦の才を見出したウツセは強敵で、第1ラウンドではカムイを完全に圧倒する。

 しかし、柳生の秘太刀を盗んだウツセもまた、柳生の追っ手に追われる身であった。カムイ、ウツセ、里の追忍、柳生一門入り乱れての乱戦の中、死中に活を求めるカムイの足は尾張柳生家に向かう……。


 『カムイ外伝』といえば、現在30代の世代にとっては『サスケ』や『ワタリ』と並ぶ白土流忍術マンガの一角で、『忍風カムイ外伝』として2クールのアニメにもなっているのはいうまでもない。

 しかし、現在コミックスで全20巻、文庫版で全12巻の大長編の内容を最後までフォローしている人は意外と少ないのではなかろうか。おそらくは、我々の世代にとっての『カムイ外伝』の正しい(?)姿というのは、コミックスで全3巻ほどのコンパクトな作品で、抜忍という主人公の設定からくる重い雰囲気はともかく、基本的には全編にわたって趣向を凝らされた忍術合戦を楽しむべきエンタテイメント作品であった筈なのだ(というのは、『サスケ』や『カムイ伝』のような階級闘争的なテーマ性が皆無とはいわないが非常に希薄であるということ)。

 1981年になって『カムイ外伝』はビッグコミック誌上で復活を果たす。とはいえ、そこにいたのは我々のよく知っている、『サスケ』的なシンプルな描線で描かれたマンガタッチのニヒルなカムイではなく、『カムイ伝』終盤に近い泥臭い描線で執拗に描き込まれた劇画タッチのカムイだった。

 そこにはもちろん、ガロではなくビッグコミック誌上で『カムイ伝』第2部そのものを再開するためのいささか政治的(?)な伏線などがあったわけだが、それはまた別の物語(笑)。

 因みに、現在の定本版コミックスでは、もともとのマンガタッチの『カムイ外伝』は第1部「雀落とし」編、ということになっている(笑)。

「きさまに裏切られて死んだ抜忍たちの苦しみも、ぞんぶんに噛みしめながら死ぬのだ……
 苦しめ、苦しむのだ!」

 子供の頃白土三平原作の忍者アニメのファンだった人の中には、この台詞にピンと来る人も多いのではなかろうか。しかし、これはアニメ『忍風カムイ外伝』からの引用ではなく、ちゃんとマンガ『カムイ外伝』からの引用なのである。

 ビッグコミック版『カムイ外伝』は、とりあえずカムイをほぼ狂言回しとして、炭焼き小屋で隠遁生活を送る父娘の業を描いた「はんざき」編で幕を開ける。これには、新しい「劇画」カムイの顔見せ的な意味合いがあったのではないかと思う。

 続く、「スガルの島」編(第2部)は、やはり抜忍でありながら追っ手の追及を逃れ、海辺の村で漁師の妻としての日々を送るくの一、スガルの村にカムイが流れ着くところから始まる。

 ストーリーは、カムイを追っ手と疑うスガルとカムイの確執、スガルの娘サヤカがカムイに寄せる淡い恋慕の情、鮫狩りの渡り衆として村にやってきた抜忍集団、などが入り乱れて展開する。

 ……と、ここまで書けばわかる人にはおわかりいただけることと思うが、このストーリーは、アニメ『忍風カムイ外伝』のラストを飾った一般に「月日貝」編と呼ばれるエピソードと同じものである。連続性と密度の高いストーリーに、ヒロインのサヤカの可憐さも相まって、クライマックスにふさわしい盛り上がりを演出していたといえる。

 しかしこのエピソード、アニメ放映当時は原作マンガ版にないオリジナルエピソードとして認識されており、徳間書店のロマンアルバムなどの資料でも、ストーリーの原案者などについてはあまり触れられていなかったように記憶している。それだけに、この「スガルの島」編が雑誌に連載されたときは、ふしぎな感慨を覚えたものではある。


 さて、肝心の「スガルの島」編のストーリーはというと、マンガ版の方が青年誌向けの若干の脚色(笑)を施されてはいるものの基本的にはアニメ版と同一のもので、もちろんそれは悲劇になるしかない。

 抜忍集団の頭である不動の正体は実は追忍であり、不動を信じて集まっていた抜忍たちは不動の裏切により全滅。スガルの一家も飲み水に毒を仕込まれて全員殺されてしまう。スガル一家と抜忍たちの無念を晴らすため、最大の奥義「変移抜刀霞切り」の通用しない不動に対して、カムイは新たな必殺技をもって対決する……。

 その後が、前ページに引用した台詞になる訳で、不動を破ったカムイは敢えて不動にとどめをささず、不動を生きながら鮫の餌食として恨みを晴らす……かつてはこのストーリーを子供向けのTVアニメとしてしっかり放映していたのだから、誠によい時代であったといわざるを得ない(笑)。

 で、アニメ版はといえば、この先も続くであろうカムイの孤独な逃避行を予感させつつ幕を閉じる訳であるが、マンガ版ではこのエピソードがさらに冒頭ページで紹介した「剣風」編へと展開していく。

 不動を失った忍びの里は、捨て子であったところを不動に拾われ忍びの技を仕込まれた百日(ももか)のウツセに次なる追忍としての白羽の矢を立てる。そのウツセが既に述べたとおり柳生との確執を抱えていたことから、ストーリーは、カムイ、ウツセ、柳生家を含む三つ巴、四つ巴の入り組んだものとなり、複雑な人間関係や生活感あふれる描写とも相まって、時代劇劇画としては屈指の傑作に仕上がっている。

 未読の方、特に池波正太郎などの時代小説をお好みの向きには絶対の自信をもってオススメする次第である。

「あっしに何かご用ですかい……」
「仕掛人、飛天の酉蔵!」
「あっしが稲葉屋の番頭、三郎ってことをごぞんじなんでやすね……」

 ……する次第であったのだが(笑)、流石にここまでは行き過ぎじゃないか(笑)、というのがこの台詞(笑)。この台詞だけでは、何も知らない人はその作品が『カムイ外伝』だとは絶対思わないであろう(笑)。

 「剣風」編の後、『カムイ外伝』の物語は急速にトーンダウンして、テーマを見失っていく。「剣風」編の後のエピソードは、基本的にはカムイを狂言回しとしてカムイの周辺の人々の生活を丹念に描き込む、といったものが中心となる。その意味では、前ページで紹介した「はんざき」編のような、あまり長くはなく、登場人物も少なく、人間関係も比較的単純なエピソードが多く(因みに単行本では「はんざき」編は「スガルの島」編の後、第3部の第1エピソードとして収録されている)、「剣風」編を読んでしまった読者にとっては、あまりにも喰い足りないといえる。

 その中では、台詞を引用した「飛天の酉蔵」編は比較的長いエピソードである。ストーリーは、「夙(しゅく)の三郎」という仮の名で放浪を続けるカムイがちょっとした行きがかりの上からとある口入れ屋の番頭を務めることになり、商売敵に目を付けられて殺し屋を差し向けられる、というもの。

 その中で登場する殺し屋は「仕掛人」(笑)であり、その裏の世界のシステムなどはほぼ完全に池波正太郎『仕掛人・藤枝梅安』の設定に準拠している(笑)。「仕掛人」という言葉はもはや一般名詞化しているが、そもそもこの単語自体が池波正太郎の造語なのである。それを、言葉だけならともかく、基本設定までまんまパクってしまう、というのはいくらなんでも問題のような気はする(笑)。


 『カムイ外伝』のテーマというものはなんだろうと思ってみた……

 第1部から第3部までの物語をある程度包括的に表すもの、ということで考えるならば、それは、主人公カムイの「自由」を希求する心と、そのためにカムイの支払う代償、ということにでもなるかと思う。

 カムイが何故自由を希求するのか、というのは、『カムイ外伝』のテーマにはならない。なぜならそれは、本来『カムイ伝』が描くべき(筈の)テーマだからである。

 しかしそのテーマ的な制約は、第1部のように1話完結の忍術合戦が主眼ならばともかく、劇画としてある程度重厚な物語を描き込もうとする場合にはいささか致命的だったかもしれない。

 それでも、第2部「スガルの島」編、第3部「剣風」編までは、抜忍と追忍の物理的、精神的攻防戦のサスペンスが主眼であったため、エンタテイメント時代劇劇画として成立していたのだが、白土三平の筆がカムイの彷徨より市井の人々の生活描写に力を入れ始めるに到り、『カムイ外伝』からはテーマといえるものが消失してしまう。

 そこでは、カムイと追忍との攻防、という本来メインであるはずの流れすら、皆無ではないもののすっかり傍流となり、追忍たちは物語の最後にちらと姿を見せてカムイに殺されるだけの存在にまで堕ちてしまっている(笑)。不動や百日(ももか)のウツセのようなカムイのライバルといえるだけの存在感を持つ追忍は、もはや現われることはない。

 風をつきうごかすものはなんだろうと思ってみた……
 吹き荒れる嵐の風もあれば、人の肌をやわらかくなぜてゆくそよ風もある……
 木の葉一枚そよともせぬ日に風は何処にいるのか。風自身の真の姿は一体どのようなものなのか…
 風だから吹いている時が風なのだろう。だが、風はなんの目的で吹いてゆくのか…

 これは、前述の「飛天の酉蔵」編の後のエピソード「伊児奈」編の冒頭のナレーション。ここでは、自由を求めてさすらうカムイの姿を風に例え、その行動原理に対して問題提起を行なっていることは明白であるが、「伊児奈」編自体はカムイの幼なじみの女抜忍とカムイとの思いがけない再会を描いただけの短編であり、その物語とこの問題提起とは、まったく噛み合ってはいない(笑)。

 風が吹きすぎてゆく。
 木の芽をはぐくむ風もあれば、遠く種をはこぶ風もある。
 時としてただ死を呼ぶのみの風もある。
 だが、風は風だから吹くに過ぎない。

 そしてこのナレーションは、最終エピソードである「吸血」編のラストページより。「風の目的はなんだろう」という自問に対しての答えが「風は風だから吹くに過ぎない」(笑)では答えにもなんにもなっていないぢゃないか(笑)。おいおい(笑)。

 因みに「吸血」編は辻斬りをして女の生き血を吸う狂った老剣士(笑)の姿を描いた短編であり、全20巻に及ぶ『カムイ外伝』の締めくくりのエピソードとしてはあまりにも役不足というか、正直いって情けない(笑)。

 歴史に「もしも」は禁物であるが、「剣風」編で『カムイ外伝』が完結していたら……と考えてしまうのは、きっと僕だけではないと思う次第である(笑)。


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