お楽しみはこれからだッ!!
YOU AIN'T READ NOTHIN' YET !!

第15回 “山羊座のA型”
 掲載誌 糸納豆EXPRESS Vol.9. No.1&2.(通巻第22号)
 編集/発行 たこいきおし/蛸井潔
 発行日 1991/11/9


 最近疲れがたまっているけど、負けない! 好評(?)連載“お楽しみはこれからだッ!”連載第12回は久し振りの糸納豆だぞっと。去年はあちこち渡り歩いて連載回数を稼いだから、何だかほんとうに久し振りだなあ。

 んで、久し振りのテーマは“山羊座のA型”。

「さてここで先ほどすばらしい走りをみせてくれた蓮川選手について蓮川選手のお兄さんでいらっしゃいます養護の蓮川先生にお話をうかがいます。
 先生」
「はい。
 私は今日まで15年彼の成長を見守ってまいりましたが、実はその間ただの一度も、
 彼が人のあとからゴールする姿をみたことはありません」
「……何だそりゃ…」
「それって、アンカーに蓮川おいとけば絶対1位ってことか?」

 那州雪絵をネタにするのは連載第2回以来だなあ(笑)。まあ、何といっても僕と同じ星の下に生まれた(笑)マンガ家であるからして、なかなか思い入れはあるのである。どういうことかというと、那州雪絵の誕生日と言うのが、昭和40年1月4日、僕は同年の1月13日なので、誕生日が9日しか違わない(笑)。血液型も同じA型だ。足掛け6年に渡った『ここはグリーン・ウッド』も遂に完結したことでもあるし、ここらで集中的にとりあげてみようかと思う次第である。なお『GW(グリーン・ウッド)』の主人公、蓮川一也も1月1X日生まれの山羊座のA型という設定である(笑)。


「突然ですが作者です。
 今年の学園祭は去年の学園祭とは違うんです。このまんがはそーゆーまんがなので混同しないでね。
 作者からのお願いでした」

 『グリーン・ウッド』というのはかなり“ヘンな”マンガである。敢えて言い表そうとするなら“楽屋落ち”ということになろうかとは思うが、“楽屋落ち”というには“楽屋”に対して存在しているべき“舞台”というものの存在が(この場合は作品世界のことになるが)、あやふやというか、瞹昧というか、どこまでが“舞台”でどこまでが“楽屋”なのか、そもそもその区別がかなりあやしい。

 『グリーン・ウッド』のいいかげんぶりは、なかなか力が入っている。主人公たちは、実に3回も高校1年生を繰り返し演じている。主人公が成長しない、同じ1年間が毎年繰り返される、ということを逆手にとってギャグにしてしまったマンガは今までにもあったが、『GW』の場合、いきなり作者が現われて「グリーン・ウッドは今回から進級します」、と、決意表明したかと思うと、何事もなかったかのように主人公たちは高校2年に上がり、平然と物語が進行する。しかも、今までの3回の高1の間に起こった事件は全て過去にあったこととされている(笑)。

 それに、その一件でもわかる通り、話の要所要所に作者が顔を出してはちゃちゃを入れたりするし、登場人物のほうも、自分たちが虚構の『GW』というマンガの中の存在であることを十二分に認識しているかのようにみえる。ほとんど学芸会のノリでキャラクターたちにファンタジーや時代劇やSFを演じさせる“番外編”もやたらと多い。

 “楽屋落ち”というのは、それまで語られてきた物語が虚構であることをバラすことで成立する。その物語が、虚構性をほとんど意識させないほどによくできていればいるほど、その虚構性をさらけだしたときのインパクトが強い。これは映画『蒲田行進曲』の例を挙げるまでもなかろう。そういう意味では『GW』のように初めから虚構性を隠そうともしない作品を“楽屋落ち”と呼んでいいものか、ちょっと迷ってしまうところである。

 しかし、『GW』には、間違いなく“よくできたフィクション”としての面も存在している。キャラクターの存在感、語られているテーマの重み、これらが相まって“強固な作品世界”を成立させているエピソードも、少なからずある。“楽屋”に対応するべき“舞台”がちゃんとあるのである。ただし、その“舞台”と“楽屋”の間の境界は極めてあやふやなのである。

 しかも、『GW』のいい加減さはこういう“楽屋落ち”的部分に限った話ではない。番外編としてSFやら時代劇やらをやるだけでなく、本編の中にもオカルト、SFといった要素を無造作にポンポン放りこんである。だから、SFっぽいエピソードにしても、番外編の時代劇にしても、もろシリアスなテーマ性を持ったエピソードにしても、その時に作者が思いついたものを、脈絡とかいったものは全く考慮せずに次々と描いているだけ、というのが本当のところなのかもしれない。そういう意味ではほとんど“闇鍋”のようなマンガである(笑)。


「何奴っ!?」
「“闇奉行”。
 役職を利しての悪業三昧、お上が見逃してもこのおれが許さねぇ」
「おのれ痴れ者めっ! いわせておけば…」

 “シチュエーション・コメディ”という言葉がある。フジテレビ系の「やっぱり猫が好き」とか「子供ほしいね」とかを称して、そう呼んでいるらしい。要するに、非常にはっきりとした性格付けのなされたキャラクターを数人用意し、そのキャラクターたちをあるシチュエーションの中に放りこんで、後はほとんどそれぞれのキャラクターの性格に基づいたリアクションだけに頼ってドラマ(?)を成立させよう、と、いう手法である。

 「子供ほしいね」は好きだったなあ。終わっちゃったけど。好きだったんだけどなあ。工藤夕貴が(笑)。

 『GW』も基本的にはシチュエーション・コメディといっていいと思う。もっとも、この手の手法ってのは、マンガの世界ではとりたてて珍しくもなんともないんだけどね。

 しかし、こう考えてみれば『GW』のでたらめ振りもかなり理解しやすいものとなる。

 このキャラクターたちに学園祭をやらせてみたら、体育祭をやらせてみたら、というレベルの“シチュエーション”なら普通の学園コメディになる訳だけど、例えば、こいつらの前に宇宙人が現われたら、とか、男女が逆転した並行世界に送りこんだら、とか、そういうかなり怪しい“シチュエーション”が、学園祭とか体育祭とかのごく日常的なレベルの“シチュエーション”と全く同列に扱われている結果、『GW』はああゆう“ヘンな”マンガになっている。あげくの果ては、こいつらに時代劇(ファンタジーetc.)させてみよう、で、一連の番外編ができあがる。

 TVドラマにおけるシチュエーション・コメディはドラマにあってドラマにあらず、視聴者からの葉書を読みあげるコーナーとかもある。かといってコントといってしまうにはドラマ的要素が強い。演じる役者の側も、視聴者の側も、与えられた“シチュエーション”の“虚構性”を承知の上で楽しんでいる。前のページの言い方に従えば、“舞台”と“楽屋”の境界が瞹昧、と、いったところか。そういう点でも、『GW』とは共通点があるといえるかもしれない。

 なお、余談ではあるが、『GW』の最終回は、読者からのリクエスト葉書を中心に構成されていたりするのであった(笑)。

 と、いう訳で、台詞は時代劇の“シチュエーション”を使った番外編「ここは八百八町」より。この番外編は時代劇にありがちなパターンをこれでもかこれでもかとつめこんだ怪作。まあ、時代劇をよく見ている人ならそれなりに笑える軽いパロディである。「女ねずみ小僧」でしょ「大岡越前」でしょ、「鬼平犯科帳」でしょあと「必殺」か「影同心」か(笑)。

 因みに那州雪絵は火野正平のファンで、「新必殺仕置人」も好きなんだそうである(笑)。まあ、知ってる人は知ってるが、こいつは僕の一番好きな時代劇だぞ(笑)。念仏の鉄! 鋳掛け屋の巳代松! 中村主水! 女すりのおてい! 絵草子屋の正八! 元締の虎! 死神! ああ、やっぱり山崎努はいい(笑)!(何の話だっけ?(笑))


「………だから、いったんだ……!
 仕事とか…見た目とか、すぐ見えるとこでわかんなかったら、
 おまえがどんな奴かなんて、他の奴にはわかんないんだぞッ…!」

 『GW』にはいくつかキー・ポイントになる話がある。冷酷非情の生徒会長(笑)手塚忍と熱血寮長(笑)池田光流の出会いのエピソード「雨やどり」(5巻に収録)、主人公蓮川一也と兄の一弘(とその奥さんのすみれ)のエピソード「蓮川家の一族」(6巻に収録)、手塚忍と兄の旭、その婚約者六条倫子のからみ「王子様を探せ!」(7巻に収録)、一也のセカンド・ラブを描く「片想いかもしれない」(8巻に収録)、「愛は勝つ」(10、11巻に収録)。こうしてみると、単行本の5巻以降、ほぼ1巻に一つはキーとなる話があるのに気づく。

 もともと那州雪絵はかなり重たい話を描くマンガ家だった。デビュー作を含む智美&徹のシリーズ(『妖魔襲来! 復讐鬼』に収録)、「フラワー・デストロイヤー」のシリーズ、他『GW』の1巻に収録されている初期短編などは、コミカルな味付けはされているものの、その根底から感じられる欝屈は相当のものだと思う。(読んだことのない人は御一読願いたい)

 自分の根っこのところにそういう欝屈を抱えてる人は、強い。普段は軽快なコメディを描いてはいても、話をシリアスにふった時、その暗黒面が顔を出す。少女小説家でも、“帝王”氷室冴子と他の凡百の有象無象との違いはこの暗黒面の有無である、といえると思う。氷室冴子『クララ白書』『アグネス白書』と『GW』は同列に論じられる作品だと僕は思っている。ともに学生寮を舞台にしたコメディであり、話が後半に行くに従って、キャラクター、テーマの重味、凄味が増してくるあたり、非常に近しいものがあると思う。

 ともあれ、那州雪絵である。

 『GW』も始まった当初はごく普通の(?)コメディだった。那州雪絵は『GW』の連載を始めてからは、それ以外の短編作品などは数えるほどしか発表していない。『GW』以前の作品にみられた暗黒面が、次第に『GW』の中にその姿を現わすようになるのは必然といってよかったのかもしれない。

 初恋の女性すみれが兄一弘と結婚してしまったため、傷心の心を抱えて寮に入ったという主人公一也の設定。悪党の政治家の家に生まれ、父親の血を引いた冷血漢という忍の設定。そういったコメディを成立させるための設定が、話をシリアスにふったとたんに、重たいものとなって読者にのしかかってくる。ここいら辺が、『GW』が単なる“シチュエーション・コメディ”に終わっていない理由の一つである。

 台詞は、兄の一弘を侮辱された一也の独白。この台詞は、那州雪絵がどの程度自覚しているかはわからないが、とても“山羊座”的な台詞だと思う。

 山羊座の知り合いといってもそんなに大勢いる訳ではないのだけど、話をしてみるとみんな多かれ少なかれ「本当の自分なんてものは誰にもわかってもらえない」「世の中の大部分の人は他人を見てくれだけでしか判断しない」みたいなことを考えているようである。山羊座の性格には“不器用”“愚直”で自己表現が下手、という傾向があるので、そういう考えをもつに到ってしまうのかもしれない。


 という訳で、前のページでは書ききれなかったのだけど、件の台詞の出てくる「蓮川家の一族」は、とてもいい。

 蓮川兄弟の両親は早逝していて、身寄りのない孤児である。兄一弘は弟に“自分は不幸だ”と思わせないよう極力気を遣って一也を育てた。一也は、名門緑都高校をでた一弘が“誰の目から見てもわかる優秀な職業”に就かず母校の保健医になってしまったことに反感をもっていて、これも『GW』のコメディとしての基本設定だったのだけど、その反感も、自分の大好きな兄が誰からもほめてもらえない、ということに対するコンプレックスの裏返しだった。家庭教師のすみれが兄の恋人だということに気づかずに一目惚れしてしまった一也のはかない失恋。一弘とすみれのなれそめ。

 いやあ、いいなあ(笑)。

 那州雪絵って、微妙な表情の描き方が凄く巧いと思う。

 閑話休題。(それはそれとして)

「───だめよ。忍くん。
 今さらおりようなんて。
 ちゃんと、あなたに負けた旭の分まで、ギスギスした人生送ってよね」
「…わかってる。だいじょうぶだよ」

 一也の1年先輩にあたる手塚忍のエピソードは、『GW』の中でも最も欝屈している。悪い政治家の家系に生まれ、3人兄弟の末っ子でありながら、最も聡明で冷酷、長兄の旭がドロップ・アウトしているため、家長の座を約束されている。  本当はそんな自分が嫌いで嫌いで、でも、自分には他の道が選べないことも承知している。「雨やどり」はそんな忍が緑林寮での池田光流との生活に救いを見出すまでを描く。

 台詞は、忍と、旭の婚約者六条倫子の会話。緑林寮に入って忍が“変わった”ことを察した倫子は、さり気なく忍にクギをさす。

 つづく「王子様を探せ!」では、完全に人生の敗北者となった旭が登場する。

「ぼくにはもうなんの力もない。仕事だってうまくいくかどうかわからないし。倫子をさらってはいけなかった。 家にいればなんの苦労もせずにすむ。その方が倫子のためだと思ったんだ。
 ぼくのことは忘れていいから、幸せになってくれ」
「…そう。
 それじゃさよなら」
「倫子」
「────旭くん。あたし、
 たすけてくれる人は別に王子様じゃなくても良かったの」

 倫子もまた、自分が手塚家と六条家の政略結婚の駒であることを十二分に自覚していた。あるいは自分をその状況から救いだしてくれるかもしれなかった“王子様”は、何事にも自信をもつことのできない落伍者と化していた。この旭との再会の後、倫子は失踪するのである。

 『GW』の中でも、六条倫子の出てくる話は妙に浮いている。忍との会話もなんだかアダルトな雰囲気で、那州雪絵のもう一つの面を見ることができる。

 これこそはまさしく“暗黒面”と呼ぶべき代物かもしれない(笑)。


 いやあ、凄い凄い。連載史上初の6ページに突入だぜ(笑)。しかも取りあげてる作品は『GW』唯ひとつ(笑)。よくまあこんなに書くことがあったもんだ、我ながら呆れっちゃうね(笑)。しかしまあ、ここまで来たら書きたいことは全部書いてやるぞ(笑)。  男の子が女の子を好きになる。女の子が男の子を好きになる。そのきっかけなんてのは結構他愛の無いことから始まるものだと思う。唯ひとつ言えることは、そのきっかけというのは、相手の“素顔”を見た、と思うような瞬間なんじゃないか、ということくらいかな。こんな書き方じゃなんのことかわからないかなあ。

 何のことかわかろうがわかるまいが、『GW』8巻収録の連作「あーらしを。、おーこして」、「すーがおを、みーせるの」、「片想いかもしれない」は、そういう話なんである。

 突然緑林寮にやってきた池田光流の後輩の不良少女五十嵐巳夜になりゆきのまま関わってるうちに、気持ちが傾いてしまった蓮川一也であった。しかし五十嵐巳夜には小泉典馬という幼なじみのBFがくっついていた。

「問題が全然違うだろっ! おれ一人のことじゃないんだぞっ!
 彼女や相手の男を傷つけることになるかもしれないし…」
「……違うな。おまえは自分が悪者になることを恐れているにすぎない」
「……そっ…そっ…」
「人生相談のプロがいってんだから間違いないぞ。(中略)
 ついでにもうひとつ教えてやろう。
 おまえがあっさりふられればおまえ以外誰も傷つかない。
 悪は滅びるっていうからな。
 そうすればおまえの取る道は嫌でもひとつに決まるし。でも、
 滅びなかったらそれは悪じゃないのかもしれない」

 『GW』のクライマックス、エピソード「愛は勝つ」より。悩める一也と、兄の一弘の会話。これはなかなか鋭い台詞なんじゃないかと思う。

 ふられる側というのは、自分をふったことで少しでも相手が傷ついてくれることを内心期待しているものである。相手が傷ついてくれれば自分の想いが少しは報われたような気になって救われる。一種の補償行為と言える。しかし実際、ふられる側には残酷な話だけど、ふる側としては、好きでもない奴をふって、それで自分が傷つくいわれなんてない。まあ、なにがしかの罪悪感くらいは持つかもしれない。こういってしまうと身もフタもないが、まあ、現実なんてのはこんなものである(笑)。

 だれだって自分はかわいい。イヤな想い、つらい想いはしたくない。ただ、自分の感情くらいは自覚しておかなくちゃね。“相手を傷つけるかもしれない”なんてのは単なる論理のすりかえ。本音は、自分が傷つくのがイヤなだけ。大体どこの誰がふられることを前提に意志表示したりするものか(笑)。始まってもいないうちから終わりのことを考えたって仕方ない。そもそも自分が行動を起こさなかったら、何にも始まりも終わりもしないんだから。

 まあ、幸いにして、主人公蓮川一也の想いは滅びなかった。一也は“悪”ではなかった、と、いう訳である(笑)。もちろん、誰だって“悪”にはなりたくないんだけどね(笑)。


『お楽しみはこれからだッ!!・電脳総集編』に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。