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尼子氏本紀尼子武将列伝>山中幸盛伝




山中幸盛(やまなか・ゆきもり) 1544〜1578

尼子家臣。尼子十勇士の筆頭。満幸の次男。母は立原綱重の娘。幼名・甚次郎。鹿介。一時期亀井秀綱の養子となり、亀井姓を称す。
兄・幸高の出家により家督を継ぎ、中老衆として尼子義久に仕えて毛利軍と戦う。月山富田城落城後、京で新宮党の遺児・勝久をみつけて擁立、出雲入国を試みる。しかし富田城攻略に失敗して敗退、その後山名豊国と組んで因幡に戦うが再びも敗れる。最期は織田信長の中国攻めに加わり上月城を守るが、毛利の大軍に包囲されて降伏。毛利輝元のもとへ護送中、暗殺された。



●斜陽の尼子にあって

 山中幸盛は山中満幸の次男で、母は立原綱重の娘です。幼名を甚次郎といい、鹿介を称しました。
 山中家は、幸盛の4代前の祖・尼子清定の弟にあたる尼子幸久が初代です。この幸久が山中を名乗って分家し、以降山中家は、尼子家中にあって常に重要な位置を占めました。

 幸盛は生後数ヶ月で4、5歳の幼児のようであり、8歳ですでに人を討ち、13の頃には名のある武芸者を斬り合いの末倒したと言われます。さすがにこれはおおげさですが、それだけ幼少の頃から体格が大きく武勇に優れていたということでしょう。

 父・満幸は幸盛が生まれてまもなく死亡したため、兄・甚太郎幸高が山中家を継いでいました。しかし幸盛が元服すると、幸高は病弱を理由に出家、家督を幸盛に譲ります。
 こうして山中家の当主となった幸盛は、永禄3年(1560)、尼子義久に従って山名勢の籠る伯耆尾高城(鳥取県米子市)攻めに参加、初陣を果たしたといわれています。
 このとき幸盛は、三日月にむかって「30日以内に武勇の誉れを得ることが出来ますように」と祈って戦場に出ます。そして見事に猛将・菊池音八を討ち果たし、以来、幸盛は三日月を崇めるようになったと言われています。
 しかしこの話は、軍記物のほかに明確な同時代の史料がないため、定かではありません。

 幸盛の名が明確に史料に登場するのは、永禄6年(1563)の白鹿城の戦いのときです。
 幸盛は毛利軍の攻撃にあった要衝・白鹿城を救援するため、先陣の家老衆に続く第二陣として出陣しました。
 しかし、この戦いは先陣の敗退により総崩れとなり、救援作戦は失敗してしまいます。
 このときより幸盛は、尼子を支えていくのは家老衆ではなく自分であると強い信念を抱くようになったと言われています。

 その後、毛利軍は富田城を包囲します。
 毛利の将・益田藤包の家臣に品川大膳(三郎右衛門)という者があり、幸盛を討って武名をあげようと思い立ちます。大膳は鹿をしたがえるのは狼であるとして、狼介勝盛と名をあらため、幸盛に一騎打ちを挑みました。
 これが有名な川中島の一騎打ちです。品川大膳は武勇の誉れ高く、幸盛は苦戦したと言われていますが、なんとかこれを討ち果たしました。

●七難八苦の末に

 永禄9年(1566)、富田城が開城すると、幸盛は浪人となって、諸国を放浪します。
 その後、京都東福寺にて新宮党・尼子誠久の遺子、孫四郎を見つけ出した幸盛は、叔父・立原久綱らと図ってこれを還俗させて勝久と名乗らせると、尼子再興の旗頭としました。
 永禄12年(1569)、勝久を擁した幸盛・久綱らは、再び出雲国へ入国します。
 一時は出雲の大半を手中に収めた幸盛でしたが、月山富田城を取り戻すことができないまま、翌元亀元年(1570)毛利軍主力と布部山に戦って敗れ、敗走します。

 その後、幸盛は末石城で吉川元春の攻撃に遭います。幸盛は逃れがたいと考え、元春に投降します。元春はこの投降を疑いますが、宍戸隆家、口羽通良の両将が幸盛の武勇を慕って降伏を認めさせます。
 幸盛は罪を許され所領を与える約束をされますが、尾高城に幽閉されてしまいます。幸盛は警戒が厳しいのをみて、赤痢を装って何度も厠へ通い、隙をみて汲み取り口から脱出、ふたたび京に上りました。

 再度上洛した幸盛は、天正2年(1575)因幡に進出します。
 因幡では、山名豊国と結んで毛利方の武田高信を破り、鳥取城を奪取するなどの活躍を見せました。
 その後、明智光秀の仲介により織田信長の援助を得、毛利氏に奪われた鳥取城を再度奪還するなどしますが、豊国の変心により鳥取城を追われ、天正4年(1576)、毛利の反撃に遭って敗退します。

 三度上洛した幸盛は、天正5年(1577)、織田軍の大和信貴山城攻めに明智光秀の手勢として加わります。幸盛は松永久秀の籠る信貴山城に一番に突入、松永方の大将・河合将監を組討の末、討ち取ります。
 その甲斐あってか、信長の中国攻めの先鋒として羽柴秀吉の軍に加わることが出来、幸盛ら尼子勢は播州上月城にはいってこれを守ります。
 幸盛ら尼子勢は、毛利方の宇喜多直家の軍勢と戦って上月城で攻防を繰り返しますが、天正6年(1578)、毛利軍に城を包囲されてしまいます。
 たのみは羽柴秀吉の軍でしたが、別所長治ら播磨国人衆の離反により戦況が悪化したこともあって、秀吉は尼子勢を見放してしまいます。

 ここにいたって、城兵の助命を条件に勝久は自刃、尼子氏は完全に滅亡します。幸盛は叔父・立原久綱とともに囚われの身となりました。
 そして幸盛は、毛利輝元のもとに護送される途中、備中国阿井の渡し(岡山県高梁市)にて殺害されてしまいます。幸盛の勇名を恐れた吉川元春の命によるものだと言われていますが、おそらくは輝元、元春、および小早川隆景の三者の合意の下、殺されたのでしょう。

 幸盛は初陣で菊池音八を討って以来、三日月を信仰し、「われに七難八苦を与えたまえ」と祈ったと言われています。そしてその通り七難八苦の末、志半ばで倒れてしまいました。
 幸盛は、決して主君である義久や勝久のために戦ったようには思えません。
 おそらく、幸盛にとって、「尼子」という名こそが重要であって、当主はだれでも良かったのではないでしょうか。
 そのために勝久自刃後も生き延び、「尼子」を立てようとしたのだと思われます。

 ともかく、幸盛は三十四歳の若さで世を去りました。法号は鹿山中的居士、幸盛寺殿潤林淨了居士、潤林院幸盛寺殿大誉淨了居士など。墓は岡山県高梁市をはじめ、全国各地に点在しています。

 幸盛には二女があったと言われ、長女は養女(亀井秀綱の娘)で亀井茲矩の妻となり、次女は実子で吉和義兼の妻となります。その子・常祐(範信とも)は母の姓を名乗って山中常祐を称し、安芸草津に住したと言われています。
 義兼は後に後妻を娶り、その間に生まれた子が孫兵衛といって、大阪鴻池に住して豪商・鴻池の祖となったと言われています。

 幸盛の子については異説があります。
 幸盛の長男(もしくは次男)を山中新六幸元といい、この幸元は播磨三木城主・別所長治の重臣、黒田幸隆の養子となります。
 しかし羽柴秀吉の攻撃で黒田城が陥落すると、叔父・山中信直を頼って摂津伊丹近くの鴻池村に移りました。
 この地で新六は武士を棄て、名を鴻池新右衛門直文と改めると清酒の醸造に成功、これを江戸に運んで財を成し、豪商・鴻池の祖となったと言われています。 


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