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尼子氏本紀尼子武将列伝>横道正光伝




横道正光(よこじ・まさみつ) ?〜1570

尼子家臣。尼子十勇士の一人。清高の子。兵庫介。政光、秀綱とも。
毛利軍の出雲侵攻に抵抗するが、やがて富田城が開城すると浪人する。後、山中幸盛らに擁立されて尼子勝久が出雲に入国するとこれに従って隠岐為清の乱などに活躍するが、布部山合戦に敗れて戦死した。



●愚直の名将

 横道正光は、清高の嫡子として生まれます。『尼子分限帖』(1540年編纂か)によると父・清高は御手回り衆となっていることから、正光もこの跡をうけて御手回り衆として尼子氏に仕えたものと思われます。
 御手回り衆とは主君の側近として仕える者のことで、正光も主君・義久の側近として毛利軍の侵攻に抵抗しました。
 しかし永禄9年(1563)、富田城は落城して、義久ら尼子三兄弟は安芸に幽閉されてしまいます。正光は側近として義久に随行することを求めましたが、毛利氏がこれを拒否したために、流浪の身となります。

 正光は流浪の末、弟・源介高光、権之允高宗とともに大和郡山城主・松永久秀のもとに身を寄せたといわれています。
 しかし、やがて山中幸盛が尼子勝久を擁立すると、正光は久秀に暇乞いをします。このとき久秀は、「毛利元就は老衰して、嫡孫・輝元はいまだ幼弱であるが、吉川元春・小早川隆景の両川は手ごわく、尼子に勝算はない、もうしばらく時節を待て」として引き止めたといわれていますが、正光の意志の固いのをみて太刀鎧を与えたとといわれています。こうして正光は兄弟とともに久秀のもとを去り、勝久の旗下に参じました。

 永禄12年(1569)、勝久ら再興尼子軍は隠岐から出雲に上陸、真山城を攻め落として本拠に据え、出雲の大半を手中に収めました。
 しかし、富田城は天野隆重の堅守に攻め落とすことが出来ず、尼子軍は軍を転じて伯耆ならびに石見方面に進出をはかります。
 ところがこの重要な局面で隠岐為清が離反、美保関で挙兵しました。山中幸盛らが討伐にあたりますが、隠岐勢の意外な抵抗にあって幸盛軍は窮地に陥ります。このとき正光は、堅実な攻撃で隠岐勢を追い払い、幸盛の危機を救いました。

 そして翌永禄13年(1570)、ついに毛利軍主力が到着、布部要害山にて尼子軍六千余と毛利軍一万余が激突します。
 布部山へ登る道は西の水谷口、東の中山口がありましたが、高光はその堅実な指揮能力を買われて東の中山口の主将を任されます。
 この戦いは、当初地の利・士気に勝る尼子軍が優勢でしたが、吉川元春率いる遊撃隊が間道を見つけて正光の守る中山口の裏手に出、尼子軍を挟撃したことから尼子勢は崩れてしまいます。
 この状況をみた正光は、もはやこれまでと毛利軍に突撃を敢行、重傷を負います。そこへ姪婿・中井善左衛門が通りかかります。中井はすでに毛利方に寝返っていたため、正光をみとめると物も言わずに討ちかかりました。抵抗する術もないと悟った正光は、潔くこれに討たれて果てました。

 その後、弟高光は山中幸盛らと因幡に戦いましたが、八橋城に籠城したところを毛利軍の急襲にあい、降伏して以後吉川氏に仕えました。


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