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尼子氏本紀尼子武将列伝>尼子久幸伝




尼子久幸(あまご・ひさゆき) ?〜1541

出雲の戦国大名・尼子氏の一族。尼子清定の次男。母は真木上野介の娘。幼名・孫四郎。下野守。義勝。
経久、晴久を支えて尼子氏の版図拡大に貢献した沈着の将。吉田郡山城攻めに参加し、敗走する晴久をたすけて戦死した。



●「臆病者」の壮絶な最期

 尼子久幸は、尼子清貞の次男で、経久の弟にあたります。母は真木上野介の娘です。下野守を称し、幼名は孫四郎。名は義勝とも言われています。

 文明16年(1486)、兄・経久が京極氏からの自立を図って失敗し、富田城を追放されます。追放された経久は、久幸を連れて母の実家・真木上野介のもとへ逃れます。

 この後、経久は富田城奪還のため、旧臣たちとの連絡をとりはじめますが、久幸はまだ幼かったために出雲を出、安芸守護・武田元繁のもとに身を寄せたと言われています。
 元繁の居城・銀山城で元服した久幸は、文明18年(1488)に経久が富田城を奪還すると出雲に戻り、以後兄を助けて活躍することになります。
 その後、久幸は元繁の娘を妻に娶り、大永5年(1525)7月に武田氏が大内義隆の攻撃を受けるとこれを助けて奮戦しています。

 久幸は冷静沈着な武将で、勝ち目のない戦には消極的でたびたび兄・経久を諌めたといわれます。
 その気質を頼りにしていた経久は嫡男・政久の討死後、家督を譲ろうとしたほどです。このとき久幸は、経久を諌め、甥・国久とともに政久の子・晴久の後見となります。

 天文6年(1537)、経久が晴久に家督を譲るとその補佐役となります。
 血気にはやる晴久は、当時勢力をのばしつつあった毛利元就を討伐しようと企画、軍義に諮ります。家臣団の大半が毛利攻めに賛成する中、元就の才能と背後の大内の存在を指摘し、ただ一人異議を唱えます。

 久幸は、毛利を倒すためには周到な準備が必要であるとして、次のように献策します。
「まず、石見津和野方面に自分が、備後三次方面には国久が出征して諸城を固めて周辺領主を慰撫する。
晴久自身は赤穴に出て安芸の毛利勢の動きをうかがえ。
元就が出陣してくれば国久と挟み撃ちにして撃退し、篭城すればそのときこそ全軍をもって郡山城を包囲する。
山口の大内氏は自分が軍を率いて牽制するので、警戒して来援することはあるまい」
 しかし晴久はこの策を一蹴、さらに久幸を「臆病野州」と罵倒して吉田郡山城攻めを決定してしまいます。

 天文9年(1540)6月、晴久はついに出陣、久幸は屈辱に耐えてこれに従います。
 結果は久幸の予見したとおりで、元就の巧みな采配に尼子勢が攻めあぐねているうちに陶隆房率いる大内軍が来援します。
 天文10年(1541)1月、ついに両軍は激突し、尼子軍は大敗北を喫します。

 このとき久幸は「臆病野州の壮烈なる死をとくと見よ」と叫んで毛利軍に突入します。久幸は大内軍の武将数十名を討ち取る活躍を見せますが、ついに毛利の武将・中原善左衛門の矢に倒れ、壮絶な最期を遂げました。
 法号は興国院殿無塵全可大居士。遺体は吉田に葬られましたが、後年墓石のみ出雲城安寺に移されています。

 なお、久幸の遺児・経貞は、このときまだ若年であったために、父の所領を受け継いだものの、管理は経久の次男・国久が行いました。
 ところが、経貞の成人後も国久が所領の横領を決め込んでしまったため、国久と対立します。これが、晴久の新宮党討伐の一因になったとも言われています。
 その後、永禄9年(1566)に富田城が落城すると、経貞は尼子の故国・近江に戻り、安土城下でその生涯を終えます。

 経貞の子・義陸は、成人後父と別れて姓を三上と改め、毛利の武将で甲立五竜城主・宍戸隆家に仕えます。
 義陸は、天正2年(1574)の三村家親攻めなどに参戦して武威をあげたと伝えられ、この家系は代々三上を名乗って現在にまで至っています。


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