岩槻城縄張図・太田道灌
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- 公的な意味をもつものでも、厳密な調査・考証を行ったものではありません。
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[概略]
現在は、公園として整備され、行楽の季節には多くの人でにぎわう名所となってるが、古くから軍事上の重要拠点とされ、室町時代に、太田道真(一説では、太田道灌)により、築城された。白鶴の吉端により築城されたと言われ(「岩槻巷談」)、「白鶴城」の別名をもつ。また、城は平城に分類され、元荒川を天然の外堀とし、沼沢地の中に浮かぶ台地に曲輪を築き、延長二里余(約8km)の土居を巡らした、全国でもめずらしい総曲輪型城郭とされている。このことから、「浮城」という別名でも呼ばれている。激動の戦国期を経て、江戸時代に至ると、軍事拠点としてだけではなく、政治上の要地ともされ、徳川譜代の大名や幕閣重臣が代々の城主とされた。江戸時代後期に入ると、大岡氏が入封し、以後廃藩まで大岡氏が在封した。
[データ]
所在地:埼玉県岩槻市太田
交通:東武野田線岩槻駅下車
形式:平城(総曲輪型城郭)
曲輪内面積:32900坪余
見所:黒門(本丸御門)、搦手門、大構跡、鐘楼
[築城]
15世紀、鎌倉公方足利成氏(古河公方)が古河にて室町幕府に叛旗をひるがえすと、その執事であった山内・扇谷の両上杉氏は幕府の命にて古河公方と対峙し、関東は戦乱期へと突入した。扇谷持朝は長禄元年(1457)、家宰の太田氏に命じて、岩槻・川越・江戸の三城を築かせた。岩槻城は川越城、蕨城を結ぶ三角形の頂点をなし、その矛先は古河公方を向かっていた。築城者には、二説あり、一説では太田道灌(「関八州古戦録」「野史」)、もう一説では道灌の子、道真(「小田原記」「鎌倉大草紙」)とされる。
[戦国時代]
文明18年(1486)、太田道灌が主君扇谷定正に謀殺されると、太田氏は扇谷氏のもとを去り、山内氏に属した。このとき、道灌の養子、資家が岩槻城の城主となった。この時代以降、扇谷・山内の両上杉家の反目を軸として、古河公方、国人等が入り乱れての戦乱期となる。この間隙に乗じて勢力を伸ばしたのが、北条早雲を祖とする後北条氏である。大永四年(1524)には北条氏が江戸城を手中に収め、翌年の大永五年(1525)年には岩槻城の攻略に乗り出し、城主資頼(資家の子)の家臣である渋江三郎の反逆を利用して岩槻城を占領した。しかし、資頼は一旦、石戸に退き、享禄四年(1531)に岩槻城を奪還した。天文二年(1533)、資頼の子、資時が城主となったが、同十五年(1546)、武蔵国の勢力図を塗り替えた川越夜戦が終わると、資時は病没、弟である三楽斎資正が城主となった。川越夜戦後は、扇谷・山内の両上杉家の勢力は衰え、武蔵諸城は北条氏の勢力下に入った。この中で岩槻城のみが孤軍奮闘を続けていたが、永禄七年(1564)、下総(千葉県)の国府台合戦の敗北で、宇都宮へ援軍の要請に赴いていた留守中に、北条氏康の策略にのった嫡子氏資が弟政景との継嗣問題から資正・政景を追放し、北条氏へ属するという事件が起こった。その後、氏資は永禄十年(1567)、上総(千葉県)三舟台合戦で戦死し、資正の岩槻城奪回も失敗に終わり、かくして岩槻城は北条氏の支配するところとなった。
天正八年(1580)、北条氏直の弟氏房が太田の名跡を継ぎ、太田氏は北条一門となった。これに伴い、岩槻城は小田原城を中心とした、本支城体制の重要拠点となっていった。氏房は岩槻領内を再編成し、半独立の戦国大名として領内経営に当たった。天正十四年(1586)以降は、豊臣氏との緊張の高まりの中、岩槻城の防衛強化が図られていった。このときに大構えが築かれ、城の規模は大幅に拡大した。天正十七年(1589)、名胡桃城横領事件を契機に、豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、翌十八年(1590)三月、豊臣軍は中山道、東海道の両道から関東への侵入を開始した。
豊臣軍の岩槻城攻略軍は、浅野長吉等に率る約二万の軍勢であった。それに対して、岩槻城は籠城の構えを見せ、約二千の兵が城内に立て籠もった。このとき、城主氏房は小田原城に出向いていたため、指揮をとったのは、宿将伊達房実であった。五月二十日早朝から戦闘は開始され、豊臣軍の浅野・本多両隊は大構の加倉口を破り城下町から大手へ攻め込んだ。それと同時に、鳥居・平岩隊は新曲輪から二の丸へ流れ込み、木村軍は搦め手へ攻めかかった。以上三方向からの攻撃により、岩槻城兵は一千余名の犠牲者を出したと言われる。五月二十二日、頑強な抵抗を示していた籠城軍もついに力つきた。房実は本丸櫓より傘を揚げて降伏の意を示した。ここに、関東の要害、岩槻城は落城し、豊臣家の支配するところとなった。その後、関東には徳川家康が入部してくることになる。
[江戸時代]
徳川家康が関東に入部すると、政治・軍事の重要拠点である岩槻には、譜代の家臣である高力清長が二万石で配され、高力家は二代の間在城した。慶長十四年(1609)、回禄の災により、岩槻城の大部分が焼失した。しかしながら、同年家康が鷹狩りのため、岩槻城を宿館とすることになり、高力清長の孫、忠房は、昼夜兼行の復興工事を行い、家康からその迅速さを賞賛されている。しかし、この時の復興工事が行われたのは三の丸であり、本丸・二の丸は空き地とされた。以後、城の中心は三の丸に移ることになる。
元和五年(1619)、忠房は転封となり、約一年の間、朽木内膳正、新庄駿河守による番城の時代があり、同六年(1620)には老中青山忠俊が入封。同九年(1623)には阿部正次が入封し、以後、重次(老中)、定高、正春、正邦の五代五十八年にわたり、阿部氏が在封した。その後は、天和元年(1681)に板倉重種(西の丸老中)、同二年には、戸田忠昌(老中)、貞享三年(1686)松平忠周、元禄十年(1697)からは、老中小笠原長重、長煕、正徳元年(1711)からは、永井直敬、直平、直陳が在封した。このように、江戸時代中期頃までの岩槻は幕府重職のための封地としての意味合いがつよく、役替えによる城主交代や石高変動が当たり前であった。しかしながら、宝暦六年(1756)に大岡忠光が入封して以来、所領はほぼ固定化されるようになった。忠光以後、忠喜、忠要、忠烈、忠正、忠固、忠恕、忠貫と、大岡氏が八代にわたり在封した。
明治四年(1871)に明治政府による廃藩が行われ、城は兵部省(後の陸軍省)に管理されることになり、明治5年(1872)に入札が行われ民間に払い下げが行われた。
[構造]
岩槻城は荒川(現在の元荒川)右岸の台地に築かれた。元荒川とその周辺の沼沢地、西南に連なる台地を利用したいわゆる平城である。北から東にかけては、元荒川を天然の外堀とし、東から南は沼沢地が広がり、西はローム層の台地となっていた。台地には曲輪を築き、延長二里余(約8km)の土居を巡らした。全国でもめずらしい総曲輪型城郭であり、地形の起伏を利用した規模の大きな城(曲輪内面積、32900坪余)であった。
[年表]
長禄元年 (1457) 太田氏、岩槻城を築城
文明18年 (1486) 太田道灌が主君扇谷定正に謀殺される。以後太田氏は山内氏に属す。
大永五年 (1525) 北条氏が岩槻城を占領
享禄四年 (1531) 太田資頼が岩槻城を奪還
天文二年 (1533) 資頼の子、資時が城主となる
同十五年 (1546) 川越夜戦。資時病没。三楽斎資正が城主となる。
永禄七年 (1564) 太田氏資が資正・政景を追放し、北条氏へ属す。
永禄十年 (1567) 氏資が戦死。岩槻城は北条氏の支配下となる。
天正八年 (1580) 北条氏直の弟氏房が太田の名跡を継ぎ、太田氏が北条一門となる。
天正十四年(1586) 大構えが築かれる。
天正十七年(1589) 名胡桃城横領事件。豊臣秀吉による小田原征伐開始。
翌十八年 (1590) 岩槻城豊臣秀吉に降伏。
慶長十四年(1609) 回禄の災により、岩槻城の大部分が焼失
高力忠房による復興工事(三の丸)。以後、城の中心は三の丸
元和五年 (1619) 忠房は転封。朽木内膳正、新庄駿河守による番城時代
同六年 (1620) 老中青山忠俊が入封。
同九年 (1623) 阿部正次が入封し、以後、重次(老中)、定高、正春、正邦。
天和元年 (1681) 板倉重種(西の丸老中)入封
天和二年 (1682) 戸田忠昌(老中)入封
貞享三年 (1686) 松平忠周入封
元禄十年 (1697) 老中小笠原長重入封
正徳元年 (1711) 永井直敬入封
宝暦六年 (1756) 大岡忠光が入封
明治四年 (1871) 廃藩。城は兵部省(後の陸軍省)が管理。
明治5年 (1872) 民間に払い下げ。
[現存しているもの]
残念ながら、岩槻城は明治時代に入り廃城とされ、往年の姿を見ることはできない。しかしながら、城跡は公園として整備されており、堀の跡や、大構、城門などを見ることができる。のんびりと公園を散策しつつ、古の姿に思いを馳せるのも一興かもしれない。
「大構跡」おおがまえあと
岩槻城は城の内外を土居がめぐる総曲輪型城郭として名を残している。これは戦国時代末期に北条氏房により城郭防衛を目的とし、計画的に構築されたものである。城の内側から外部へ向かって、塁、壕、道というように構成されていて、内側斜面は緩やかに登りやすくし防御を有利にし、外側は急斜面にして敵を足止めできるようにつくられている。一周すると役二里(8km)で、樹木が茂っていた場所はそのうちの3kmほどの距離があったと言われる。領民はこれを「岩槻の金屏風」と呼んで自慢したそうである。現在では、愛宕神社付近にその遺構を見ることができる。
「城門」
公園には門が二つ移設されている。一つは黒門と呼ばれていた本丸の門であり、戦前まで県庁・知事公舎の正門として使用されていた。戦後岩槻町に返還され、昭和四十五年に現在の公園に移設された。もう一つは飯塚の有山家から寄贈された裏門であり、明和七年(1770)の棟札をもっている。また、三の丸門は大野島の絵野沢家に、本丸車橋門は長宮の遠藤家に現存しているとの話である。
「時の鐘」ときのかね
「岩槻に過ぎたるもの」と言われた「時の鐘」は、寛文十一年(1671)、阿部正春がつくらせ、時をつげさせたものである。しかしながら、その後ひびが入り、音が鳴り響かなくなったので、享保五年(1720)、永井直陳が改鋳させ、現在にいたっている。
「遷喬館」せんきょうかん
岩槻藩の藩校であり、藩士の子弟の教育をつかさどった。茅葺き平屋建てで、約四十坪と小規模な物ではあるが、全国でも稀な藩校の遺構として県指定史跡となっている。
[用語]
【上杉定正】うえすぎさだまさ
室町中期の武将。扇谷(おうぎがやつ)家第六代の主。初め太田道灌を用いて兵威をふるったが、のち讒言を信じてこれを殺してから漸く衰え、北条早雲・上杉顕定と戦って陣没。(1443〜1494)
【扇谷】おうぎがやつ
扇谷上杉氏。鎌倉扇谷に住んだので氏とした。上杉重顕に始まる。山内上杉氏と対立、朝定の時、一五四六年(天文一五)北条氏康と戦って敗れ、滅亡した。
【太田道灌】おおたどうかん
室町中期の武将・歌人。扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の臣。名は資長(初名は持資)。1458年に剃髪し、道灌と号した。築城・兵馬の法に長じ、江戸城(1457年)を始め川越・岩槻の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、歌集「慕景集」がある。世に軍法師範と称された。晩年には、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、定正に謀殺された。(1432〜1486)
【曲輪】くるわ
城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい。
【城】しろ
敵を防ぐために築いた軍事的構造物。わが国では、古くは柵や石垣または濠・土塁をめぐらしたが、中世に至って、天険を利用して防御を施す「山城」が発達し、専ら戦闘用であった。戦国時代以降は、領内統治・城内居住・権勢表示などをも兼ねた築城に進み、いわゆる城郭が完成。多く平野にのぞむ小丘の上または平地に築かれ、二重・三重に濠をめぐらし、本丸・二の丸・三の丸などに郭(くるわ)を区分、石塁上に多数の櫓類を建てて偵察・射撃に利し、本丸には天守閣を設けて郭の中軸とし、表には大手門、裏には搦手(からめて)の門を構え、住居用の殿舎をも備えた。
【本丸】ほんまる
城の中心部にあって、天守を築いた最も主要な郭(くるわ)。本曲輪。
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