平城・平安時代のサーカスのようなパフォーマンス。 綱渡りをしながら、ジャグリングをしています。 |
俳優の基礎知識の一つとして、少なくとも日本における演劇の流れを知っておくことは必要です。 演劇は不思議なことに世界的に時期を揃えて進化し、さらに同じような発展の仕方を遂げてきたと申せます。 詳しくは様々な著名な分野別の演劇史を読んでいただくこととして、 ここでは大雑把に日本における近世までの一般教養的な演劇史を述べていきましょう。 ●日本の演劇の嚆矢と呼ぶものは、正式な資料に基づく起源として、万葉集の中の隼人舞などに求めることが出来ます。 これは、「鹿踊り※1」「蟹おどり」と呼ばれるような、原始的なダンスと歌によって構成されたものであり、 鹿や蟹などの土地の産物達が、征服者である大王(天皇)に我と我が身を捧げる踊りです。 この一例に見えるように、演劇の萌芽は自然神の形態を模倣し、予め豊漁や豊作を祝って 実際の成果を期待する感染呪術としての藝(呪)であったと考えられています。 此れを予祝芸能と呼びます。 ※1 しし踊り。「しし」とは、日本の山野にすむ大型の獣を意味したらしい。東北各地に伝承されています。 また九州地方には、同様な形態の「太鼓踊り」があります。 ある民俗学者は、『芸能や神事は、中央で廃れて、地方に波紋のように広がり、1000年経つと由来も忘れられ、 地元の祭りと習合し、オリジナルを消しながら伝承されている事が多い』といいます。万葉の時代の名残が、 日本列島の両端、東北・九州に残っているのかもしれません。 |
東湖八坂神社の「蜘蛛舞」神事[秋田県南秋田郡] (本田安次 錦正社 「日本の伝統芸能」より) |
予祝芸能は、中国や朝鮮半島から渡来した散楽(軽業・曲芸・手品・万歳・滑稽な小演劇)と結び付いて、 田楽や猿楽から能楽へと進み、一方では久米舞、曲舞、狂言、幸若舞等に進み、後には門づけの様々な遊芸 「万歳、獅子舞、春駒、鳥追い、角兵衛獅子等」に発展していきます。 また予祝芸能は中国や朝鮮半島から渡来した散楽・宴楽(今日、雅楽と呼ぶ、中国宮廷での宴会用舞楽)の影響を受けて、 神道の発展と共に神楽を産み、さらに傀儡師(くぐつ)などの「人形劇・囃子・説教師(説教節=物語師)」 遊行集団を形作っていくのです。 |
北野神社風流絵巻の散楽。1本足、2本足の高足 (本田安次 錦正社 「日本の伝統芸能」より) |
傀儡師(くぐつ)の人形劇と説教節が結び付いて、今の文楽がうまれました。 また輸入楽器の三味線と万葉の流れを汲む歌謡、町歌(流行歌・遊廓歌)が結び付いて 隆達節と呼ばれる小唄が生まれました。 神楽と古代の予祝芸能が再び結び付くと、女歌舞妓の原形である念仏踊り、 綾子舞などが誕生していきます。 |
西浦田楽の「高足」[静岡県磐田郡] (本田安次 錦正社 「日本の伝統芸能」より) |
女歌舞妓は、室町・戦国の気風を受けて、風流からの芸能の流れと白拍子・娼伎の伝統を受け継いで 誕生したものと考えられます。 「出雲のお国」とよばれる“歩き巫女”(傀儡師の流れを汲む遊行芸能者・遊行娼婦)が、 京の四条河原で藁小屋掛けし、職にあぶれた能楽師(小鼓・太鼓・笛)と結びついたことが有名です。 女・若衆歌舞妓は「余りに風紀を乱す」と時の幕府によって禁止され、 『妓』の字がついている事からもわかるように、岡場所的な遊興の場でありました。 此れより官許の小屋掛け即ち櫓を持つ芝居小屋が誕生し 「物真似狂言尽くし」を専らとする、今日に伝わる「野郎歌舞伎」が生まれることとなったのです。 |
735年 | ★『続日本紀※1』に『散楽』初見…「散楽戸」(養成機関)も作られたが782 年廃止。 散楽士は、今で云う国家公務員だったが、首になって、そのまま貴族のお抱えになったり、地方に散った。 乙巳の変の時に、蘇我入鹿から太刀を外したのは、この散楽士のひとり、道化と云われる。 散楽の主な内容(日本芸能の体技の基) ○物真似・歌舞・曲芸軽業・幻術・手品・傀儡子・褌脱(コダツ)舞 『体伎の伝承経路』 曲芸軽業:「高足・一足」(散楽)→田楽へ→太神楽へ→サーカスへ 物真似・歌舞→猿楽へ→能・狂言へ→歌舞伎へ 物真似・歌舞→念仏踊り・盆踊り・風流・小謡 傀儡子:「人形操り」→文楽 「褌脱舞(コダツ)」(褌脱:動物の皮の縫いぐるみを被って舞う)→延年の大風流の走物に大きな影響を与え、歌舞伎にも伝わる。 [延年大風流の走物]:ぬいぐるみを着て、舞台を走り回る軽業 『雑秘別録』に『剣気褌脱は 相撲節会に散楽雑技芸とて 様々のものひきまといて、カエルのかたをかつぎて 桔簡(高麗楽声調の廃絶曲 桔悍・古簡・吉干・桔穆・乞寒などと記名される)などふきて 舞にこの楽を催す』とある。 相撲節会に行われた、猿楽・桔簡は、猿と蛙の「褌脱舞」のこと ※1続日本紀 文武1 (697) 年から延暦 10 (791) 年までの編年体の正史 |
749年 | ★行基没する。日本の説教師の草分け。 話芸・語り芸の祖[平曲・説経浄瑠璃・浄瑠璃・祭文・落語・講談・浪花節]等の芸の源流 |
765年 | ★京畿内の『踏歌』を禁ず (隋唐で流行し、奈良朝以前に日本に伝来した 祝いの詞を歌い乍ら輪を作って練り歩くもの。後に催馬楽に発展) |
796年頃 | ★『催馬楽』この頃行われる。民間の流行歌。笏拍子で歌われたという。 今様の前身とも…… 今様の『今』は「現代風」という意味があり、『様』は振り、節の意味である。 そのため、平安中期に流行った今様も後期には廃れた。 歌謡の変遷は平成の今日と同様に甚だしいものであったと言える。 |
1096年 | ★『洛陽田楽記』大江匡房 11世紀末の『田楽』の大流行(京、近畿) 軽業を基とする舞。鉦、太鼓、鼓などの楽器が用いられる。 1説に、タイコ:田鼓:太鼓から田楽と言われたという。 |
1115年 | ★白拍子の初め…… 神楽の男巫、殿上の淵酔、呪師、延年の白拍子の芸をとって、宴席に侍ったため白拍子といわれるとされる。 立烏帽子・水干・白鞘巻の男装した女性のはじめ。 延年の白拍子:声明の只拍子を白拍子という。 平板な拍子という意味で一説には白拍子の名がここから起こったと言う。 今様、朗詠などの歌を特有の節回し(曲節)で歌いつつ、鼓の伴奏で舞った。 白拍子舞の名人:島の千歳、和歌の前、磯の禅師、静、祇王、祇女の名が残る。 後に曲舞(クセマイ)に影響を与え、女猿楽、女歌舞妓へと系譜を引く ●延年の流行…遐令延年(カレイエンネン)に由来する。 貴族の接待や寺院の僧侶達の演芸大会で、芸能によって心を和らげ、寿福増長をはかるもの。 非常に華麗な演芸大会であったと想像される。鎌倉時代中期まで続くが、その後衰退する。 延年の特徴は、全体を雅楽風の演出や演目で包みながら、庶民的な芸能を混在させて居るところにある。 |
1140年 | 佐藤義清の出家:西行法師 ●仏教の民衆化に伴い、説教場といわれる寄席(小劇場)が淀川沿いに建てられていく。 寺のない地方の布教拠点であり、当時の門付け芸とは別の寄席芸(劇場文化)の発達基盤となった。 |
1155年頃 | 強装束、十二単衣、男子の眉墨・白粉・染歯が始まる |
1167年 | 『平清盛 大政大臣となる』 |
1169年 | ★『梁塵秘抄』 編者 後白河法皇 12世紀末の風俗 平安時代末期の雑芸の歌詞を分類集成したもの。 事例:「この頃都に流行るもの、肩当て、腰当て、烏帽子止め、襟の立錆烏帽子、布打ち下袴、四幅指貫」などと、 都の最新ファッション情報も今様に歌われて情報伝播したことが分かる。 |
1173年 | 『山家集』西行法師 |
1180年頃 | 『保元物語 平治物語』など戦記物が誕生…軍記語りの誕生(説教) 都の大事件を伝播するため作られた語りが物語となって記録される。 この語りの手法は説教師の手法が取り入れられたと考えられている。 ○曲舞が成立。白拍子舞から発生した。 鼓を伴奏として、歌謡に代わって物語りしつつ舞うもの。 |
1192年 | 『鎌倉幕府を開く』(京都、鎌倉間、飛脚便7日で往来) |
1233年頃 | ★京都に猿楽流行 |
1275年 | ★一遍 時宗を開く 踊り念仏の初め(文字や理屈ではなく、身体で念仏称名 を唱えることを覚える方便)陶酔感をももたらし、大流行する |
1402年 | ★世阿弥『風姿花伝』(能の芸術論 技術論) |
1410年頃 | ★茶の湯、挿花流行する |
1418年 | ★世阿弥『花伝書』(能の芸術論集成) |
1446年 | ★能の完成…足利義満によって、翁舞を世阿弥が舞ったことにより、 神能の性格を喪失し、芸能化をはじめるといわれる。 |
1452年 | ★『連歌初学抄』一条兼良 連歌新式追加 |
1460年頃 | ★曲舞の一流派「幸若舞」起こる (桃井幸若丸) |
1465年 | ★華道 立花宗家 池坊専慶 |
1467年 | 『応仁の乱』貴族階級の没落 [京都・伏見・大坂]町衆の隆盛 (1568年信長入京まで続く貴族文化と町衆文化の融合) |
1479年 | 蓮如、山科本願寺を築く |
1497年 | 蓮如、大坂石山本願寺を築く |
1505年 | ★『粟田口猿楽記』によれば素人(町衆)の演能(手猿楽)が盛んとなる。 女猿楽、児猿楽も見える(歌舞伎を生む流れの登場)。 能や猿楽が、神社、仏寺の束縛を離れていることがわかる。 |
1518年 | ★『閑吟集』連歌師 宗長 町衆に愛唱されていた歌詞を集めたもの。 『梁塵秘抄』に収められていたものが、口づてに伝承されている間に時代の選別を受けて変容してきたことがわかる。 「木幡山路に行き暮れて、月を伏見の草枕」 |
1542年 | 『種子島へ鉄砲伝来』 |
1550年頃 | 木綿の衣服が一般に普及する |
1560年頃 | ★狂言の完成?大蔵虎政(大蔵流狂言の祖) |
1570年頃 | ★隆達節の完成か?三味線、鼓、笛などを伴奏とする、小唄の祖。 閑吟集に集められた歌詞などを受け継いでいる。 「泣いても笑うても 行くものを 月よ花よと 遊べただ」 |
1603年 | ★出雲巫女 お国 歌舞伎(妓)創始 民間舞踊『風流念仏踊』から男装麗人となる『カブキ(傾き)踊』へ 念仏躍りが風流念仏踊となって、惣躍り(盆踊りや練行)に、主人公を設けた見せる芸を確立。 隆達節や狂言の小謡など、当時の流行歌をもとに構成する。 |
1629年 | ★ 女歌舞妓 禁止 |
1640年頃 | ★長唄の源流起こる 隆達節や狂言の小謡など、当時の流行歌、囃子、風俗歌を組み込み、4段乃至5段組の長唄として演奏する |
1642年 | ★安楽庵策伝 浄土宗誓願寺竹林院に没。落語の祖。説教師。 『醒睡笑』によって1000作以上の小ばなし、落とし話を今に残す |
1659年 | ★ 若衆歌舞妓 禁止 |
1678年 | ★坂田藤十郎 大坂に歌舞伎[和事]を確立 写実的演劇の初め |
1698年 | ★竹本義太夫 操り芝居を挙行 |
1703年 | ★近松門左衛門『曽根崎心中』実際の事件を題材に、写実的筋を確立 |
1753年 | ★京の中村富十郎『京鹿子娘道成寺』江戸中村座にて初演。 『娘道成寺』舞踊の決定版となる。(現代に伝承される) 江戸興行のために、「鞠歌」等、上方観光ガイドブックの役割も務める。 此の時期の前後から、芸能発達の主流が上方から関東へ移行していく |
概略[劇場の歴史]演劇の公演する場の変遷は、劇場史として考えられている。劇場史は、演劇の内容や表現様式、社会的な演劇の価値を時代時代に反映して、大変興味深いものだ。 古代、散楽や猿楽と呼ばれた庶民の演劇は、神社や寺の境内に縄張りして上演場所としていた。 観客は草の上に座り、あるいは立ち、道芝の上で見ることから『芝居』と呼ばれるようになった。 当時の宮廷演劇『舞楽』と差別された結果である。 この後長く演劇は神社や寺の庇護を受け、奈良時代に建立された寺に残っていた 『伎楽』用の舞台:練行の橋を舞台として上演されるようになった。 此の時もまだ観客は舞台を取り囲んで立ち見、あるいは草の上に座していた。 観客が屋根の下に収容されるようになるのは、説教場が説教僧以外の芸能を受け入れて 上演するようになった頃と考えられている。 これが、今日の寄席の原型であり、日本の劇場の粗型でもあった。 日本の舞台機構は、前述の『伎楽』舞台:練行の橋を基本として、説教場の壇を加え(この時、 社寺建築の「破風」も受け継がれていく)野芝居のように土間をとって客席とし、其の周囲には、 寺院の書院の様に桟敷席を設けた。 中世ヨーロッパのシェイクスピア劇などを上演していた『グローブ座』などの原型は、じつは宿場町の旅亭で、 中庭の一角を土間客席とし、仮設の2階建て舞台を各客室の窓から眺められるようにしたものが発展していったと考えられる。 このように劇場の構造の原理は、ほぼ同時期の日本および欧州で同一の物が考えられていたと見られるのに、 舞台機構の違いや宗教観、演目の違いで、わずか200年後全く異なる劇場が創られていった。 日本の劇場構造の代表的なものは、今日寄席に僅かに残る『説教場』と『能楽堂』、歌舞伎のための『櫓小屋』と言える。 |
隠居部屋あれこれ |
演劇ラボ |