【道成寺攷 参考資料】

【道成寺資料】

【紀伊半島の不思議1】

熊野 猪垣(ししがき)調査(小学館発行 週刊ポストより)

1980年代の週刊ポストに、紀伊半島の熊野地方に点在する『猪垣(ししがき)』と呼ばれる不思議な石垣の記事があった。
(当時・日立西商品サービス企画部長・大阪・茨木市在住) 野村孝彦さんが90日をかけて現地実地調査した結果の記事であった。

(以下記事のまま)
熊野 猪垣(ししがき)は、文字どおり猪の害から田畑を守るためのものと思われていたのだが、
野村孝彦さんは「私が確認して五万分の一地図に書きこんだ石垣の総延長は、約60キロです。
考えてみればどうも猪垣だけの役割とは思えなくなってきたのです。
郷土史家の話も11人ほどテープにとったりしたが、誰もこの石垣がいつの時代に築かれたかを知らない。
記録にも古文書にも記載されていないのです。」
本当は何なのか?と疑問を提示している故・小野芳彦氏(郷土史家)の話もわかってきた。
「ここまで自分の足で探り石垣を記録してきた私の素人作業も、三輪崎の丘陵地が住宅用地になり高森地区にゴルフ場ができるという噂を耳にするに及んで、猪垣が本当に猪のためのものか今一度専門家の研究を仰ぎたい、と私の体験を公表する気になったわけです。」


「日本書紀の神武東征のところに『遂に狭野(さの)をこえて熊野の神邑(みわむら)に到り且ち天磐盾(あまのいわたて)に登る』とあります。
私が最初に訪れたのは、この「日本書紀」の記述にある曽根の町なのです。
飛鳥神社の当屋(神官職)と話していて山中に古くから石畳の道みたいなもりがある、と聞いて調べにでかけたのです。
しかし目ざす道はみつからず、山腹を斜めに走る石垣をみつけたのです。
これは猪垣ですよ、と当屋さんは事もなげに説明されたが、これが私が石垣をみた最初でした。
その後、新宮市佐野(古くは狭野)に入ったがここでも猪垣は延々と残っていました。
私はここで南檜杖の山から正確に猪垣の追跡を始めようと思い立ったわけです。
石垣は里から山へ、尾根から谷間へと“切れ目”なく続きます。
自然石を高さ1メートルから2メートル、幅70センチ程度に組み合わせて、切れ目なく続くのです。
くずれ落ちて消えている所もあったが、付近を捜すと必ずつながる線がある。
垣の両側には空間があって、どうやら普通の土砂止めではないな、というのが私の初めの感想でした。
そのうちに斜面をはい登るように築かれた石垣が、出来るかぎり頂を平らにしていることに気づきます。
この構築には作者たちの強い意志力が感じられたのです。
それにしても二重、三重に平行して走る石垣を見つけた時、これは猪の害を防ぐためのものだけではない、と直感したのです。
猪のためなら三垂もの防備はいらないはずだ。
それ以後、私は客観的にみるために石垣を“列石”と呼ぶことにしました。
さらに南檜杖では二又に分岐して作られている列石を発見した。
なぜ分岐するのか?しかも分かれた部分は、熊野川ぞいの急斜面なのです。
下には守るべき田畑を作る余地はないのです。
地図で確認するとここが神武伝承で天磐盾(あまのいわたて)といわれる場所でした。
高倉耳命(たかくらじのみこと)が夢で捧げられた剣を神武に贈ったという、いわば神武への熊野豪族降伏の地なのです。そうはいっても神話は神話です。
ロマンを感じながら私の“列石”をたどる旅は、毎週末を利用して続きました」
こうして延べ90日間を費した山歩きの結果、断続する『猪垣』をたどった線は、下記の図のとおり。
MAP
北は熊野川の南岸から大きく弧をえがいて那智勝浦町一帯の山を包んでいる。
調査のすんだところだけで全長約60キロはある。
誰が、いつこの石垣を築いたのか、目的は何だったのか?
野村さんは五つの仮説をたてて説明する。
@猪垣だという考え方
これには現在も猪垣(ししがき)と地元の人は呼んで疑いをさしはさまない。
所々に作られた切れ目に2メートル位の穴が掘ってあることも、これは防害と狩猟のための落とし穴であることを示している。
が、疑問はある。猪の猛進をはばむといっても、2メートルもの高さが必要だろうか。
猪のジャンプ力はせいぜい50センチである。
土地の高低にかかわらず石垣の高さを一定に保とうとしている“意志力”は猪のためにしては念が入りすぎる。
また高森地区(下図参照)にみられるように海に面して二重、三重に平行して走る石垣はなぜなのか。
MAP

海からは猪はこないはずだ。
また熊野川ぞい、木ノ川ぞいでは急斜面の崖の上を石垣は川と平行して走っている。
この場合、猪垣は何の役にもたたないのではないか。
さらに山間部に多い傾向だが石垣は山の険しい斜面を横切るのでなく、谷に向かってのびているが、これは猪が追われると下に向かう習性には合っているが、それ以上に“切れ目”なく石垣を続けようという構築上の意志ではないのか。

A砦ではないかという考え方
山側から列石をみると、川を遡って奥地へ侵入しようとする者を上から発見しやすく作ってある。
石垣は、山の頂から少し下った線を走るものと、尾根、谷間を走るものに大別される。
前者は頂上部を守り、後者は分散して多方向から攻める敵の移動のための道ともみられる。
しかも高さ2メートルという石垣の構築はこの説に都合がいい。
が、外観的な美を意識したかにみえる作り方が気になる。
また外敵襲来がそれほど頻繁でないかぎり誰がこれだけの工事をしたかという疑問がでる。
また守るべきのものが何であったのか、という疑問が強い。
村落は遙かに下だ(昔は海が今よりも陸地に近づいていたという反論もある)。

B聖域ではないかという考え方
高木地区、狗子ノ川ぞいの海よりの尾根に石垣で囲まれた聖域らしい場所がある。
さらに木ノ川の奥山に“人面”とみられる大岩があって、これはいわゆる“神籠石”の神域表現に類似している。
また列石のどこかに美的観念が意識されて構築されていること、さらに切れ目なく頂を平らにしようと試みた跡は聖域説を裏がきしている。

C通路ではないかという考え方
狩猟用としても通路の価値は高かったろう。
が、ここでもなぜこうした道の形がとられたのか、という疑問は残る。


D境界だとする考え方
境界なら古代には炭を理めて示す慣習があった。
しかも普通境界は山頂、川、谷の線で示すものだ。石垣には山頂を走る例がない。

以上五つの仮説をそれぞれ検討して長所短所を考えた場合、Aの砦Bの聖域と二つの考え方が有力に浮かんでくる、
と野村さんはこう推論している。

問題は「列石を構築した初めの意図は何か」である。
後年になり猪の害を防ぐ役目を果たしたことから、住民は単純に『猪垣』といった。
が、誰がいつ構築したかについては全く記録がない。
わずかに紀州徳川家の時代に『猪垣修覆』という記録(尾鷲市の尾鷲大庄屋記に「寛政二年しし垣修築」とある)が残っているくらいである。

以上から記録以前に築かれたものではないかと推論できる。
熊野の人々はその古さを記録にとどめず、日常的な風景として猪垣と思っできたとしたら。
祭祀が政治と同体であった古代を考えると、この石垣の列は「砦」であり「聖域」であり、また一種の「通路」だったことが考えられよう。
野村さんはいう。「列石の一部は佐野を囲み、三輪崎、高森にかけて複雑に集中してつくられているのです。
ある部分では100メートル、150メートルの間隔で二垂、三重に配置されています。
また木ノ川の奥では洞窟のある岩山を大きく囲う形に列石はつくられています。
洞窟から列石にかけてのなだらかなスロープは、古代の祭りの場にふさわしい美しさを今も秘めているのです。
こうしたことを考えると私の想像は飛躍して神武東征のロマンに結びつくのです」
大胆に推論すれば神武軍に相当する軍勢に敗れた熊野の先住民が残した遺構が、この列石ではないかという。

樋口清之・国学院大教授の話
「写真でみるかぎり猪垣の小屋らしい形に囲われた部分の石の積み方は、七世紀以前のものだと考える。
古墳の郭の工法に類似している。全長60キロにおよぶ猪垣はまさに謎です。
那智の滝など昔は灯台の役目をも果たしていたわけだから、海洋民族が山岳信仰に移行するのは、おかしいというのは当たらない。
岩を囲む石垣なども古代の聖域を表わす方法だし、あるいはその意味での構築かもしれない。
初めは独得の熊野文化圏の信仰的な備えだったと考えられないことはない」
日本史研究の主流として「神武天皇の東征」は記紀によって作られた神話になっている。
日向を出た東征軍は大和をめざし一度は難波に上陸したが退き、紀伊半島を迂回し熊野に再上陸して大和に入った、とかかれている。
が、これにも『富士古文書』『上記(うえつふみ)』など異なった記述がある。
こうした古書の研究をうけて次のような説もある。

古代史研究家・古田武彦氏の話
「2世紀前後、卑弥呼以前ですが、北九州の豪族だった神武の東征はあったと私は思う。
神武は銅鐸文化圏の中心地に突入をはかり一度は敗れたが背後の熊野を狙ったと思う。
熊野地方は古くから銅、鉄の生産地だったらしいが、すでに2世紀に鉱山が掘り当てられていたのなら神武軍が迂回する必然性は強い。
熊野は一応は銅鐸文化圏にあるとはいえ、実質はその中に組みいれられていなかったのではないか。
現在に至るまで銅鐸の出土がありませんからね」

野村さんはこの神武東征について「おな神の森」とよばれている高森地区(B図参照)の石垣を例にあげた。
紀勢線がトンネルになってくぐる三輪崎駅から徒歩で十分、熊野灘に突出した小高い丘だ。
昔から「おな神の森」と呼ばれ「ニシキトベの塚」があるが、そばを歌人・山部赤人が通った万葉の道が通っている。
ここの列石は実にロマンを刺激するという。
ちょっと見には田畑の石垣と見分けがつかないが、列石の残骸があちこちに残る。
丘の頂から「おな神の森」にむかって一本、さらに直角に海を背にして右へ一本のびているが、その交差点に人ひとりが通れるだけの門が構築されている。
また森へおりてきた列石の端、つまり万葉の道につきあたる手前にポツンと岩がおかれている。
この門といい岩といい一体何を示しているのか。
おそらくはここを守る戦士のために築かれた砦だと思うのが自然だろう。
さらに、海岸にそって幾重にも構築された石垣の残骸を思いあわせると、ここが神武軍と熊野先住民の戦場ではなかったかという想定もなりたつ。
野村さんはさらに北の「御手洗」(みたらい)と呼ばれる一帯の崖の上の松林、竹やぶに並ぶ列石にもふれている。
「ここは猪が海からくるだろうか、と疑問をいだかせる光景です。
今日のような道のなかった昔は佐野から新宮に向かう中間地点の要衝です。
ここで、激戦があっても当然です。崖上に300メートルにわたって丘を守るように、石垣は配置されていましたが、
神武伝承によれば戦いに勝って御手を洗った場所ということです」

こうした推論にはもちろん反論がある。
郷土史家の浜畑栄造氏は次のように語っている。
「熊野の高地にまで稲をうえたのは徳川初期です。
それまでの時代はドングリを主食にしていたのに、頼宣の頃になると米の増産にやっきになった。
だから猪垣はその後のものです。
記録がないのはこの地方の一般的なことで新宮市史をつくるときなど頼るべき文献がないので困ったものです。
戦いのために構築したとは、とても思えないし、猪垣はやはり猪の害を守る農民の備えだと思う」
常識的だが、地元の人の「猪垣」という代表的な見方だ。
ところで熊野が古代ひとつの異質文化圏を形造っていたことだけは疑う余地がない。
それだけに「猪垣」の謎があらためてクローズアップされたことには意義がある。
古田武彦氏(前出)は、「古代、熊野が大和などにくらべて独自の祭祀様式をもつ部族に占められていたことは、海部(あまべ)などという地名からみてもわかる。
大分あたりの同名の部族と同様に海洋民族だったと思われる。
異教徒でもあった神武軍との間に激しい闘いが展開したと思われるが、その第一線防禦陣地が猪垣だったというのは面白い。
記紀の記述は侵入者、征服者の歴史だから猪垣の研究は被侵略者の側の歴史を明らかにすることになるかもしれない」こう語っている。

熊野が独自の文化をもっていた証拠として、長谷克久氏(系図研究家・新宮市居住)は、
「ここにはアジア系外国人(中国とかインドですが)を自らの古代における祖だとしている系図をもつ家がいくつもありますね」と実例をあげている。
また二河良英氏(郷土史研究家)がいうように、「中世以降は修験僧が多くいた。
彼らは山を実にうまく使っている。
後に仏教、道教、儒教に融合するが、元はといえば、太陽信仰だ。
つまり自然信仰だし、とくに石に対する信仰は強いのです」

自然信仰は大きな岩、山、川、木、それぞれを神体として成り立っている。
さて「猪垣」は古代とどのような結びつき方をしているのか。
滝川政次郎・国学院大学名誉教授の話を結びにしよう。
「奈良の生駒山、金剛山にも猪垣はあります。
猪垣がつくり方によっては外敵を防ぐに役立ったことは当然です。
熊野も、城砦の多いところです。
猪垣が囲んでいる場所から考えて、これは聖(神)域をあらわしているともうけとれます。
城砦と聖域的なものの融けあったものともみられます。
垣で囲うことによって他部族の禁足地とする考えは、昔、神社が社殿の前に瑞垣(みずがき)をつくったのに類似している。
その内部は神聖なものということです。
石の積み方からいえば“野面積み”といって自然石をそのままに積んでいく原始的な形に、熊野の猪垣は似ている。
私が思うのは、縄文の終わりから弥生の初めに農耕文化が進むにつれて猪垣はまずつくられたのではないか、ということです。
城砦的につかわれたのはその後からでしょう。香川県讃岐から出土した銅鐸には猪狩りの絵が描いてあります」

熊野地方には古代、遠く黒潮にのって、インドネシア、海南島、広東地方から人々はやってきた。
ハヤト、アズミ族と同族だったのではないか。
彼らが黄河流域を発祥地として朝鮮経由で入ってきた天孫族と闘った……
その歴史への一端を猪垣は知っているのかもしれない。

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