【道成寺攷9】

【本論道成寺…説話考…】

【第三章 説話の系譜】

【第二節 第一期について 十四世紀迄】

道成寺説話が、『古事記』における原道成寺説話以後文献にあらわれるのは、『大日本国法華経験記』をはじめとする。
そして、同時期に『今昔物語集』にも記載されている。
どちらが先に記載されたとも言えないが、一般に書の成立したであろう年代から、『法華験記』を先とする。
屋代弘賢によれば、「(今昔物語集の)此の一編は全く法華経験記によられしとぞみえける。」
(『道成寺考』・『燕石十種』所収、序論に掲出。)。と論じられているように、
『今昔物語集』に記載されている道成寺説話は、『法華験記』の漢文を国文に直しただけのものの様に言われている。
しかし、同時期における書物であるからといって、『法華験記』から『今昔物語集』に写しかえたものであるとは、言いきれない。
つまり、どちらの書物も、口承(口承を、口述伝承の略とする)によって集めた逸話を採録して記されたものだとすれば、
同時期ゆえに、同じような伝達内容を記録しても不思議はないと思われる。

折口信夫の考察によれば、次のごとく論じられている。
「説経の材料は、既に『三宝絵詞』があり今昔物語があった。此れ等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。
古くは霊異記、新しくは、宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはりかうした方面からも見ねばならぬ。」
(『折口信夫全集』第一巻国文学の発生、第四編より、201頁)。
『今昔物語』も『法華験記』も、伴に同時期の伝承者である熊野からの遊行者の口説を記録しただけのものではないかと思うのである。
熊野からの遊行者については、折口信夫の同書に次のごとく論じられている。
「聖の徒は、僧家の唱導文をあれこれ通用した。……中略……□よせの巫術は『本地語り』に響いた。
此れを扱ふのは、多くは、盲僧や陰陽師、山伏しの妻の盲御前や巫女の為事となった。熊野にはかうした巫術が発達した。
……中略……熊野念仏は、寺奴声聞身から大宗派を興す動機になった。
……中略……熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な『物語』を語った。」
(前出書、193頁)。
また、『今昔物語』と『法華験記』から『元亨釈書』に至る文献の文面の変貌を説明するためには、
その間の伝承が口承によって行なわれ、その変遷の結果によって文面が変貌した説を取り上げたい。
折口信夫の同書によれば、次の事が論じられている。
「琵琶法師にも、平安末からは、言ほぎや祓への職分が展けて来た痕が見える。
又、寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又、平易な経や偽経を弾くようになった。」
(前出書、202頁)。

道成寺説話の伝承は、文献による伝承よりも、民間に流れた口承によって伝承されてきたものだと考えたい。
『法華験記』と『今昔物語』における道成寺説話の記事を同時代における同一性を持つ伝承として、
『元亨釈書』に至る変化を説明すると、『元亨釈書』では、『今昔物語』などにおける若い僧という記述を「鞍馬寺の安珍」とし、
全体としての文面が簡略化している事がわかる。
比較しやすいため、漢文で記してある『法華験記』と比べると、『法華験記』の字数、730余に対して、『元亨釈書』は字数、530余である。
また、若い僧の出身を鞍馬寺としたのは修験に関わる寺として取り上げたものであろうし、僧の名を「安珍」としたのも、
修験道密教系の修法の一つである「安鎮家国不動法」などの、安鎮法の名から、山伏の名として名づけられたものではなかろうか。
こういう記述の違いは、『元亨釈書』の作者虎関師練の創意ではなく、聞き書きゆえに生まれた違いであろうと推測する。
口承の中心となったと思われる山伏など熊野遊行者によって口説される際に、
聴衆達により興味を抱かせるため、主人公の名やその出身が明らであることが必要となったのではないだろうか。
そしてそのために安珍の名などが作り出されたのであると推測するのである。
とすれば、道成寺説話が伝承者の芸能化に伴なって芸能化されていったことは、必然的な経過として考えられるであろう。


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