【道成寺攷7】

【本論道成寺…説話考…】

【第二章 説話の流布】

道成寺説話の誕生とその伝播流布について再度確認してみたいと思う。
『古事記』に見られる原道成寺説話と、阿部律尊者などの仏教説話が、
結合熟成して生まれたのが、道成寺説話であると仮定すると次の事柄が言えるだろう。
原道成寺説話の持っていた事実、
(それは前章で述べたような、社会的な背景を含めて考えられると思うが)
その事実と同じような事件が、紀州道成寺の建立に関わる因子によって、
道成寺にも再現されてしまったと推測する。
そしてそれは、熊野地方を根拠地とする、一大遊行者集団・山伏や熊野比丘尼や木地師達にとって、
格好のニュースソースとなって、各地へ伝播流布されて行ったことと思われる。
その伝播の際に、仏教的色彩を濃くし、伝達者自身の生計を得るために、
施主である定住生活者にとって、都合のよいような形にまで伝承の形が変化したものであろう。
それを、道成寺説話の熟成と言ってもよいであろうし、また定住生活者の立場が、
遊行者などよりも優位性を持ちはじめた現われとも言えるだろう。

遊行者などの中にも、精神的な面においても生活状況の面においても、格差が生じて来たと考えられる。
恵まれた者は、深山に篭ってより山神あるいは山祇として修業を積めたであろうし、
不幸にもその機会を失しなった者は、自らの〈わざ〉を元手として、諸国を放浪したのであろう。
彼らの足跡は、「熊野神社」の存在によって北は奥州にまで、南は沖縄にまで及んでいることが明らかである。
彼らを支えていた精神とは、いったいいかなるものであったのであろうか。

熊野地方に、山伏修験をはじめとする遊行者の集団があったこと、
あるいはそれらを生んだとする理由は、「ホカヒビト」に関わる考証から推測される。
「ホカヒビト」とは、乞食者とも書かれ、ほがう、ほがいなどの祝う・ことほぐの意味と、
家々に訪れて食を乞う人の意味を合せた言葉である。
三隅治雄によれば、
「ホカイビトとは、祝言を述べることを職業とする者、後世あらわれる万歳や春駒、太神楽などと同様の、
いわゆる『祝言職』・『物吉』の徒の一種である。」
(『さすらい人の芸能史』12頁。)とある。

折口信夫によっても、
「乞食は祝言職人である。土地を生業の基礎とせぬすぎはい人の中、諸国を流離して、
行く先々でくちもらふ生活を続けて居た者は、唯、此一種類あったばかりである。
……中略……ほかひによって□すぎをして、旅行して歩く団体の民を称したのである。」
(『折口信夫全集』第一巻、国文学の発生《第四編》151頁)。
また、「ホカヒビト」の出身についても、三隅治雄によれば次のごとく論考している。
「かれらの多くは、元来海辺にすんで魚貝を捕ることを生業とした「海人」(海子・白水郎・蜑などとも書く)とか、
『海部』とかよばれる部民の末商であった。」(前出書12頁)。
折口信夫によっても、
「早く滅された国邑の君を神主と仰いだ神人たちは、擁護者と自家存在の意義とを失うて了うたのである。
此が、ホカヒビトとして流離した最初の人々であろう。」(前出、同稿、185頁)とある。
また、「彼らは海村の神人として、農村の為に水を給する神に扮し、祝詞物語・神わざを演出する資格があった。
かうして、ほかひして廻った結果、ほかひびとの階級を形づくった。
……中略…、安曇と言ひ、天、尼、海を冠し、或は海部と言ふ地名の多いのが、現実の証拠である。
……中略……海の神人として尊まれ、畏れられ忌まれもした水上・海上の巡遊巫祝の成立であった。」
(前出、同稿ニ 祝言団の歴史、171頁)と論じている。
そしてまた、山神としての「ホカヒビト」についても、
三隅治雄によれば、「この山から来るホカイビトというのもたしかにあった。

つまり、『万葉集』の生まれた七・八世紀ごろになると、海人はもう海人ともいえないくらいに農民化する者、
狩猟民化する者、採鉱冶金の職につく者、芸人化する者などいろいろの職業者に分化して、
峡谷や山の中に仮りのすまいを置くものもかなり多くなっていたのである。」
(前出、24頁)。

折口信夫によれば、「ほかひ・語り・芸能・占ひを兼ねた海の神人たる旅行団が、
山神信仰時代に入ると、転じて、山人になったのも多い。
信州の安曇氏はもとより、大和の穴師神人などが其だ。
伊予の大三島の神人の如きは、海の神人の姿を保ちながら山の神人の姿に変って行ったもので、
伊豆の三島神人は、其が更に山人化したものである。」
(前出、171頁)と述べられている。
また、「ホカヒビト」の役割についても、同書では次のごとく論じている。
「異郷の神は畏れられも、尊ばれもした。
霊威やや鈍った在来の神の上に溌刺たる新来の神が、 福か禍かの二つどりを迫って来る場合が多かった。
異郷から新来の客神を持って来る神人は呪ひの力をも示した。
……中略……
駿河で、はやった常世神(継体紀)、九州から東漸した八幡の信仰の模様は、
新神の威力が如何に人々の心を動したかを見せている。
ほかひびと(ホカヒビト)の、異郷を経めぐって、生計を立てて行く事の出来たのも、
此点を考ヘに入れないでは納得がいかない。」(105頁)。
また、「村々を巡遊して居る間に、彼等は言語伝承を撒いて歩いた。
右に述べた様な威力を背負って居た事を思へば、其為事が、案外、
大きな成績をあげた事が察せられるのである。」
(106頁)と論じているのである。
このホカヒビトを生み出したものは、結果的には、
農耕の発達と民の定住化に起因すると言えるだろう。
支配者にとって、定住農耕民こそ富を生産する一番大切な被支配者であったわけであるから、
定住を拒否した者、定住する土地を持たない者は、その一日の食事すら物乞うことによってのみ得られる
環境におしやられたのである。
非定住者にとって、平野を追われ、海へ山へと追いつめられて行く時、
熊野地方こそもっとも最適な場所であったと思われる。

想えば、縄文時代から、農耕文化を持つ弥生時代に入っても、
あくまで狩猟・漁撈に生計をかけて生きぬいていこうとする人々は、
結果的に定住農耕者が蓄積する米という富によって、
安住の地を追いはらわれて、純粋な形での遊行者ではなくとも、
将来の遊行者を生み出すような生活へと変化してゆくのだ。
その過程において、彼らは団結と精神的な支えとしての神をより必要とし、
厳しい山野の中で生計を立てるために、
より自然を知らなければならなくなった。
そのような人々が、道教的な思想や古来からの巫術を守護し、
山岳信仰・山神を育てて修験道山伏となることも必然的なことと言うことが出来る。
そして、彼らの眷族が信仰と芸能を携さえて各地を放浪漂泊し、その足跡を今日にまで留めているのだ。

ところで、『大日本国法華経験記』が成立したのは1041年頃。
『今昔物語集』の成立は1120年頃といわれる。
820年頃に成立した 『日本国現報善悪霊異記』には、道成寺説話はない。
『古事記』の成立は712年頃といわれる。
まさに文武天皇の後、女帝元明天皇の治世である。
『古事記』と『大日本国法華経験記』の間約400年間、平安京の栄枯盛衰が藤原氏とともにあって、
平家・源氏と武士が時代を支配する時に、この道成寺説話が出てきた。

この説話を流布したと考えられる山伏修験は、奈良時代に仏教や道教の影響を受けて、山岳に入って修行し、
陀羅尼や経文の一部を唱えて呪術宗教的な活動を行った在俗の宗教者に求めることができる。
のちに修験道の開祖に仮託された役小角もこうした宗教者の1人である。
平安時代になると山岳仏教の隆盛とも相まって、天台・真言の密教僧のうち加持祈祷の能力に秀でた者は、
験を修めた者……修験者……とよばれた。また山伏ともよばれた。
中央の修験者は熊野や吉野の金峰山を拠点として、ここから大峰山に入って修行し、
平安時代末には無視できない勢力となっていた。
『ブシ・ヤマ伏・ノ伏』と呼ばれる人々が一般に認められるとき、道成寺説話が書き残されるようになる。
(私は海士もブシと云われていたと考える。)
ここにも、宗教の大衆化、物語り芸能の大衆化という歴史的転換点を見る事ができる。
しかし、なぜ書き残されなかったか、なぜ足取りがつかめないか、問題は残る。


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