【演出の独り言】

《演出者のよろこび》

■演出者のよろこび
《稽古場にて》
『ちょっとかっこいい話』
演出をしていてなにが一番うれしいかと尋ねられたら、稽古場で俳優と一緒に『芝居』を創り上げられた時と答えようか。
別段なんと言うこともないシーンが、俳優も演出も何回やっても納得できない時に、試みにアドバイスした方向が、
『見ている仲間を感動させるなんとも言えない瞬間』があるんだ。
解けないジグゾ−パズルが、ある切っ掛けでみるみる完成していくように、在るべき所にあるべきことが納まって、
満足感と美しさと達成感に包まれる、よろこびの瞬間があるんだよ。
こんなこともある。
俳優が演技の中に、「あるささやかな彩り」をみせていながら、それを稽古のくり返しの中で、演技の中に消しちゃった時、
その彩りが実は本来表現すべき重要なものであることを俳優に実感させることが出来た時。
俳優が確かに自分で感じ取ったものなんだ。
しかし勇気がなくて表現までいけなかった。
あるいは馴れているしぐさに流れた。
そんな時に、その「ささやかな彩り」をしっかりと表現まで導き創り出せたら、俳優自身の自信の獲得のみならず、
演出がただの評論家や批評家ではなく、俳優とともに創造の現場に立ち会っていることを実感できるんだ。
俳優にとって舞台が観客から拍手をもらう場だとすれば、稽古場は、演出が俳優達の「悔しさと希望と感動」を味わう場だろうね。

『俳優に悔しがらせるのも演出の楽しみ』

「台詞ナンバー15の台詞が、実は台詞ナンバー45の台詞の布石になっている」なんて謎解きができたら、
俳優の目が真ん丸になって、俳優が悔しがる。
当然分かっているべきことを見落とした悔しさ。
その日一日、演出は得意の、上機嫌なんていうのも演出の悦びだね。
折に触れて、俳優の悔しそうな顔が、目に浮かぶもんね。

演出が辛いのは、俳優の腰が引けた時。
俳優が自信を失って、演技が表現する内容とは別に、俳優自身の弁解を始めているような、
そんな演技に出会った時。
どうやって、俳優に自分自身を信じてもらうか、逃げ出さないで自分と立ち向かう勇気を持ってもらうか、
俳優の心の中に入っていく覚悟を演出は求められる。
多くの場合、俳優の自信を削り取ったのは、演出者自身。
自己反省なくして俳優と向かい合うことは出来ない。

《客席にて》

俳優の演技が客の心を動かす。
観客10人いれば5人程度の心が動くようにと仕掛けした芝居が、10人ともども動いてくれた時、
俳優の芝居が予想以上の出来に膨らんでくれた時、演出はうれしいね。

俳優の芝居が凹んでも、道具や明かりや音が、俳優の自信を取り戻してくれる時がある。
台詞を忘れた俳優にわずかに聞こえる虫の声が、相手役との即興芝居を生み、芝居の本筋に立ち帰える切っ掛けとなったことも在る。
舞台装置の土間に落ちている(わざわざスタッフがばらまいてくれた)「わら屑」が演技のリアリティーを救ってくれた時がある。
スタッフの仕事の輝く瞬間、演出は幸せだね。芝居を仲間と作ってるって言う実感が湧いてくる。

最近の不幸の予感・・・

その1

照明や音響がCPUでプログラム化されると、俳優の芝居が変わったら、例えば下手にいくはずが上手に行ったら、
照明のプログラムに入っていないから、俳優のための明かりがなかった・・・なんて事が起こりそう。
つい数年前にも、俳優を怒鳴り付けている照明がいた。「そこには明かりがないんだ。もっと○○(上・下)に行ってくれ」
・・・俳優は芝居の為に動いているのだから、その俳優を客に見せるのが照明の仕事。
俳優の芝居を指図して、照明の仕事になると考えるのは大間違い。
だだまあ、照明機材の不足や回路不足、電気容量不足もあるから、一概に照明担当を責める事も出来ない。 こんなこともあったっけ。
BGMなのかコンサートなのか分からない舞台があった。
確かに俳優が台詞を言っているのに、それに私は舞台から5mも離れているのに(舞台スピーカーの前じゃなかった)、
音楽がうるさくて台詞が聞き取れない。
それでなくても滑舌も声量もない俳優なのだから、空間に対する音量で決めないで、俳優の芝居と声の質で、
音の大きさと質感を選んで欲しい。耳の悪いPAは始末に終えない。
こんなスタッフが増えたら、芝居も終わりだね。

その2

演出が俳優に演技指導するというのは、なんとなく普通のようだけれど、やっぱり違うと想う。
俳優の仕事、演出の仕事と、お互いに役割があると想う。
演技創造は俳優の仕事で、演出が俳優の仕事が気に入らないなら、
自分が満足するまで俳優の仕事の成果を求め続けて待てば良い。
待つことが出来ないから、自分の下手な演技を俳優に押し付けて満足する。
これは考えモンじゃないかな?
「三歩歩いて、そうそこで座って、上手を見て、泣いてみよう、・・・」こんな演出のおせっかいな言葉が、
一般に『演出』と考えられているから、勘違いした演出家が増えるんだ。
映画監督とは違って、ライブの舞台の演出は、自分の作品を永劫に残すモンじゃない。
俳優の仕事がどれだけ輝くか、スタッフともどもそのことに全力を尽くすのみ。
俳優への演出指示は、どう動くかではなく、なにを表現して欲しいかなんだ。
『泣いている人間を表現して欲しいのではない、悲しみに溺れている人間を表現して欲しい。
泣いているかも知れない、怒鳴っているかも知れない、ジッとうずくまっているかも知れない、どんな行為でもどんな情動でもいい、
結果として観客に「悲しみに溺れている人間」が感じ取ってもらえたら・・・』簡単に言うとこんな形かも知れない。
しかし、ここで言う悲しみも、実はどんな悲しみなのか、観客に共感してもらえるように表現しなければならない。
愛するもの(人、モノ、コト)と別れた悲しみや、さまざまな悲しみがあるだろうに、その実態も推理できない表現では困るもんな。

『演出の勘違い』

演出をしていて大きな失敗をする時がある。
台本の解釈でも登退場の位置でも、ましてや漢字の読み間違いでもない。
知らないことを知らないと認めないことだ。
演出がいつのまにか「先生」になってしまって、何でもかんでも知っていて、なんでも教えて下さる存在。
こんな非人道的な扱いはない。
昔わたしは「歩く百科事典」と言われたけれど、それでもその皮肉に負けないように勉強した。
しかし知らないことは山程増えた。
照明を知らない。当たり前だっての。
器具の名前や回路の取り方なんて、専門に任せればいい。
肝心なのは照明で何をして欲しいかを、演出自身がわかっていることだ。
衣装がわからない。当たり前だっての。
時代考証や飾りなんて衣装プランナーに任せればいい。
俳優が演技創造する手助けになる衣装なら、
演出の全体コンセプトに違わない衣装なら、
衣装プランナーのイメージでどんどんすすめればいい。
演出は自分の信頼するスタッフに、できるだけ自由に創造する機会を提供していけばいいのだ。

【演出の独り言】《照明について》

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