『素顔のスタニスラフスキー』

(システムの裏側)

 
悲劇喜劇1998年3月号

素顔のスタニスラフスキー
                                                                                                                                   高山図南雄
スタニスラフスキーについてさほど関心のない人でも、彼の自伝『芸術におけるわが生涯』を読んだことのある人は決して少くない。
ここでは一人の芸術家の創造の軌跡が鮮やかに描かれていて感動的だ。
この本と『俳優修業』の二点はわが国でも戦前から広く知られていたし、日本人のスタニスラフスキーについてのイメージを形成する基盤となった。
今度、かねてから興味のあったジーン・ベネディティの、きわめて実証的な『スタニスラフスキー伝』(晶文社)を翻訳しながら、
これまであまり知られていないスタニスラフスキーの素顔にふれ、また数々の衝撃的な事実に向き合うことになった。
たとえば、モスクワ芸術座の共同設立者であるネミローヴィチ・ダンチェンコとのどろどろしたすさまじい確執である。
ひたすら芸術的真実を追求するスタニスラフスキーと権力の庇護の下に劇団の経営的発展を最優先するダンチェンコとの確執である。
こうなると理想主義者の側にはまず勝目はない。
彼は孤立し、窓際に追いやられ、その揚句「システム」の研究も妨害のためままならなくなる。
芸術座は文字通りダンチェンコのものとなったのだ。
だが、逆の見かたからすれば、崖っ淵に立たされたスタニスラフスキーの芸術家としての真の出発がここにあったのかもしれない。
それにしても、このことを抜きにスタニスラフスキーの人物や仕事を、また芸術座を論じるとすれば、それはほとんど空疎なメルヘンになってしまいそうである。
ところがこれほどの深刻な事実が自伝ではどこにも触れられていない。
彼は書かなかったというよりも、ソビエトの権力体制の中で語ることが許されなかったと考えるべきであろう。
スターリン権力は「反逆者」メイエルホリドに対してはもちろんのことだが、スタニスラフスキーに対しても決して看視をゆるめてはいなかった。
ただ国際的知名度の高い芸術家に対しては「孤立させて保存する」という常套手段に出たまでである。
スターリン権力は政策上、二人を善悪という対立の図式にはめながらも、一方1931年ロシアプロレタリア作家協会の大会では、
メイエルホリドの「ビオ・メハニカ」の方法もスタニスラフスキーの「システム」も、要するにコインの裏表にすぎないとして公然たる攻撃をあびせている。
ただ事実としていえることは、晩年の五年間両者はひそかに定期的に会い、未来のロシア演劇のための具体的プランを進めていたということだ。
またスタニスラフスキーはオペラ劇場の「リゴレット」の演出者として、周囲の反対を抑えメイエルホリドを据えている。
1938年彼が亡くなる年のことだ。翌39年には唯一の擁護者を失ったメイエルホリドは逮捕され、非公開の法廷に立たされるのだが、
そのときの肩書は「元スタニスラフスキー記念国立オペラ劇場首席演出家」となっている。
彼の晩年の人生を象徴してあまりあるといえよう。翌1940年銃殺刑に処せられた。
スタニスラフスキーが最後までメイエルホリドにこだわったのはなんだったのか。
彼は自分の「システム」の中に、メイエルホリドのもつ新しいロシア芸術の血を注ぎこみたかったのだ。
二人は秘密に会っていたにもかかわらず、友人たちは彼らが「ビオ・メハニカ」と「身体的行動の方法」の統合についての研究を行っているという結論に達した。
それは新しい時代の劇のための新しい真のリアリティの追求であり、また様式性とリアリティのより高い次元における統一を目ざした研究ともいえるだろう。
彼にとって「システム」は永久に未完のものであった。芸術座の創立以来数限りない修正が重ねられてきた。
1938年彼の『俳優修業・第一部』最終校が刷りあがったときも、病床にありながら直ちに朱を入れはじめた。
彼の関心は常に未来に向けられていたのだ。心ない人達が言うように、彼はいつまでも自然主義に留っていたのではないのである。


著者・・・・高山図南雄 たかやま となお
生年:1927年(昭和2年)3月31日 熊本県生まれ。
没年:2003年(平成15年)12月31日 没。
演出家 日本大学芸術学部教授。日本演劇教育連盟顧問。
花田清輝「爆裂弾記」、秋元松代「常陸坊海尊」、
宮本研「うしろ姿のしぐれてゆくか」などを演出。
著書に「芝居ばかりが芝居じゃない」
訳書に「スタニスラフスキーシステムの形成』(マガルシャック)などがある。
 

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