2003年1月


日記の目次に戻る

去年の紅白歌合戦
2003年1月1日(水)

アッコちゃん、スキスキ〜

新年の第一筆がこれかよ、ってちょっと情けなくもなりますが。
昨日−というか去年というのか−の紅白歌合戦を、他のことを
しながらチラチラ見ました。
(猪木とサップのことはまた別の機会に)

2月でTV放送開始50周年ということで
「TVで親しまれた子供番組のうた」をメドレー式に紹介した
コーナーがありました。それについてワンコメント。

「おお牧場は緑」(みんなのうた第一作とのこと)byモー娘。
○合いの手の「ホイ」と、曲後半部のドライヴ感がイイね。

「ひょっこりひょうたん島」byミニモニ。
○以前前川陽子さんのことを書きましたが、先日 某大先生から
「私は前川さんといえば『ひょうたん島』から」というお言葉を
頂戴いたしました。前川さんの実質デビュー曲(中1)ですね。
実はこの曲のオリジナル版を収録のCDを持ってたりしますが、
モー娘。が12人、いや120人で束になっても敵わない
スーパーボーカルです。

「月光仮面」by氷川きよし
○氷川きよしの月光仮面コスプレがナカナカ似合っている。当然
「♪どーこのだーれかはーしーらなーいけれどー」
バージョンであるが、我々としては昭和47年・ナック製作アニメ
「♪どっこっのっ だーれかはーしっらっないけれどー」
の主題歌になじみが。歌詞が一緒なので文字で書いても仕方ないが。

「ひみつのアッコちゃん」by安倍なつみ
○つかみの
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン 安倍なつみにな〜れ」
を聞いて、
オイオイ、お前最初っから安倍なつみやろ!とツッコミを
入れたくなったが、オリジナル・アッコちゃん服(赤・白)
がすごく似合っていたので、全て許します。冒頭の一文を参照。

「レッツゴー!!ライダーキック」by w−inds.
○仮面ライダーには今ひとつ思い入れなし。

「キューティーハニー」by飯田圭織・藤本美貴・石川梨華
○唄っているうしろで例によってフィルムが流れるんだけど、
後方回転しながら変身するシーンがすごく綺麗で、あらためて
東映動画(現・東映アニメーション)の底力を思い知らされました。
この三人はモー娘。の人? 真ん中の藤本って人の金髪ヅラが良く
似合ってました。

「詠人」by北島三郎
○紅白出演者だからこれでも仕方ないけど、「おじゃる丸」だったら
名曲「プリン賛歌」(SUS 4)で踊って締めるべきでしょう。

「おさかな天国」by柴矢裕美
○柴矢さん、緊張していたのか声が震えてました。そういう歌唱?
ノベルティ・ソング好きの私にとってはド真ん中のLOVE曲です。

【コーナー総評】
○前川さん歌唱曲が二曲!
○井上ひさし作詞曲も二曲!(ひょうたん島とアッコ)
○高畑勲監督の創作コア曲が二曲
  「ひょうたん島」→「おもひでぽろぽろ」
  「月光仮面」→「となりのやまだ君」
○「東映」という会社が戦後児童文化に与えた影響を
 再考すべきかもしれない。

以上

紅白ではその他、中森明菜の登場に喜び、ELTの持田香織さん
の歌唱に聞き惚れました。

あとは「島唄」の競演にちょっとじーんときたかな。

彼女の名は・・・マックス
2003年1月2日(木)

12月31日の朝日新聞28面TV欄の
「はがき通信・12月の投稿」で目を引く
箇所があった。

ドラマ「ダーク・エンジェル2」が打ち切りに
なったことへの投書が13通あった、ということ
なのだが、紹介されている声が

「楽しみにしていたのに納得できない」(女性・70歳)
「せめて予告してほしかった」(女性・15歳)

であった。ここで注目したいのは前者の

「女性・70歳」

である。 昭和7年生まれの方と推測されるが、
この −軍事目的のため遺伝子操作で誕生させられ訓練を
受けた女性が施設から逃亡し、組織の追撃をかわしながら
仲間を探すSF− ドラマを楽しみに見ていたというのが
なかなかイイ感じである。「納得できない」と投書して
きた気持ちにテレ朝はこたえてほしい。
(関東地区では深夜に続きを放送するそうです)

緊急性のある話
2003年1月2日(木)

基本的に一日一回なのですが、お正月スペシャルと
いうことで再び。緊急性のある話だし。

昨日、紅白でのアッコちゃん呪文にツッコミをいれた
のですが、ふと疑問がわきました。
このセリフのしゃべり方が妙に巧いのです。
ふつうの人が言うと、末尾が「・・・になーれ」と、最後の
「なーれ」が
「→→→」というイントネーションになるのだが、ここでは
「↑↑↑」という言い方にちゃんとなっている。
オリジナル・アッコちゃんに近いものである。

そこで、調査班(私)は、“絶対音感”を持つ同居人に
鑑定を依頼した。彼女の答えは、「本当のアッコちゃん
が言ってるんじゃないの〜」とのことでした。

私は、「?」と思っていますが。


「本当のアッコちゃん」とは、言うまでもなく、

太田淑子さん

です。
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0248280.htm
作品歴でパンダにご縁があるようで親しみが増しますが、
http://sdb.noppo.com/yosiko_o.htm
キラ星のようなその業績には驚嘆の声をあげざるをえません。

まあ例によって、サファイアもレオも見てないんで
語る資格はないんですが・・・
しかし、以下のキャラにはリアルタイムで親しみました。

新オバQの 正ちゃん
○あの「きゅーちゃん!」という叫び!

幻のドラえもんの のび太くん!
○評判悪いけど冨田耕生のドラえもんも好きだった

タイムボカンの丹平、ヤッターマンのガンちゃん
○日曜日、野球の練習終わると走って帰って見ました。
岡本茉利さんとのゴールデンコンビは日本の至宝!!

・・・ですよね。
しかしなんと言っても再放送で見た
「ひみつのアッコちゃん」が好きでした。
あの、大将に突っかかる時の

「ちょっと、たいしょう!」

というアングリー・ボイス(!)が、最高ですね。

あまり、女性の年齢について語るのはよろしくないのですが
http://homepage1.nifty.com/tipling/va/birth/ht3a.html#3
私の母より年上でらっしゃいます。アッコちゃんの時
三十歳ぐらいなのでしょうか。
もしかしたら若い人が見ると、ハイテンションな発声に
違和感があるかもしれませんが、我々にとっては
ノープロブレムなエバーグリーン・ボイスです。

しかし、上記無断リンクの作品リストを拝見しましたが、
「エースをねらえ!」の“音羽京子”(いじわるな先輩)役
をやっておられたとは気が付きませんでした。

それでは
「ラミパスラミパス ルルルルル」(謎は解決していないが)

♪野原の 果てまで 明日まで〜
2003年1月3日(金)

元旦に甥っ子たちと会ったが、3歳児のU君は
ハム太郎が好きだそうである。38歳児の私も
好きだが、ハムスターの連中が助け合って問題を
解決していく姿勢がナカナカよろしい。主人公・
ハム太郎の無意味な頑張りぶりも好ましい。

ハム太郎のけなげさを見てふと思い出されるのは
旧作のほうの「カリメロ」である。あいつも
報われない奮闘をくりかえしていたなあ。声質も
似ているような気がする。

「♪プリシラ 大好き 愛しちゃお〜」

前の職場の同僚のI君の奥さんが、「プリシラ」に
似ていた。美人なんだが、なんとなく感じが似ている。
I君にそれを告げたかったのだが、告げていいのだろうか。
ご存知とは思うが「プリシラ」は勝気な子で、彼女に
思いを寄せるカリメロはいつも用事をいいつけられ
翻弄され「あ〜あ」とため息をつくばかりなのである。
オバQとU子さんの関係に近いか。

でもやっぱり言わずにはおれなかった。

私「Eちゃん(←奥さんの名前)元気?」
彼「ハイ、元気です」
私「あのさあ、Eちゃんって・・・プリシラに似てない?」
彼「(即答)そっくりですよね」
私「美人だし」
彼「クチバシとがってますしね」
私「しっかりしてるし」
彼「わがままなんですよ」
私「でも二人、仲いいし」
彼「ぼく、カリメロですよ。すっかり」

認識されていたようであった。
ちなみに二人から年賀状が来たが、お嬢さんは
プリシラに似ていないようだ。

EVAリニューアル版
2003年1月3日(金)

告知
http://www.evangelion.co.jp/

ニュース
http://www.gainax.co.jp/news/index.html?year=2002&month=12#10


煩悩の種は尽きぬ。観てー。

綾波レイは雪を見たか?
2003年1月3日(金)

関東地方は雪が降っています。

ということで、「雪」が印象的に登場する
映画を思い出してみることにします。

気象現象を心理描写に活用した作家として、
まんが家ならば樹村みのりさん、
映画監督ならば黒澤明氏がまっさきに頭に浮かびます。

黒澤映画の雪というと、「生きる」?
「姿三四郎」は・・・あれ、記憶違いかな? 
あの、村井半助の娘に鼻緒をすげてやるシーンって
雪降ってなかった?違うか(ちなみにあの神社は横浜)。
「白痴」の雪道。「夢」の原田美枝子、ゆきおんな。
「赤ひげ」の山崎努のエピソード(ラストでは雪どけ)。


クリスマス映画の、ティム・バートン「シザーハンズ」。
それに影響を受けたとおぼしき金子修介「クロスファイア」
は、雪降る中で彼に抱かれた主人公の周りの雪が、熱で
バチバチッと融けるシーンが泣かせる。
バートン映画では「スリーピーホロウ」も。
ビング・クロスビー「我が道を往く」のラスト。

ランダムに
工藤夕貴「ヒマラヤ杉に降る雪」
タルコフスキー「ノスタルジア」
岩井俊二「love letter」
岡本喜八「ブルークリスマス」
窪塚洋介「GO」
加藤嘉「砂の器」
ルイ・マル「さようなら子供たち」

アニメでは封切で観た「王立宇宙軍」・・・
また、記憶違いかな? ラスト、リイクニの上に雪は降って
なかった?
ありきたりですが「あしたのジョー2」。
「銀河鉄道999」(回想)、「ホルスの大冒険」。
ちがうけど「風の谷のナウシカ」の腐海の胞子は雪のよう。

すごく記憶に残っているのがトリュフォーの「華氏451」
のラストシーン。本読み人間たちの上に雪が降って
この映画で初めての文字「THE END」が浮かび上がる。
雪が降ったのはアクシデントだったらしいが、怪我の功名と
いうべきか。

けっこうあるようで意外と思い出せません。

あ、「無法松の一生」がある。

静かに降る雪は、自然がもたらす最高の特殊映像効果です。

今日は快晴
2003年1月4日(土)

「雪」映画書き忘れ。昨日寝る前に思い出した。

大島渚の「少年」。
チビに「ついて来るな!」というシーンや
雪だるまを破壊するシーンなど。

岡本喜八「侍」
桜田門外の襲撃シーン。映像効果のために
黒い雪を降らせた、と聞く。

どちらも悲しい場面です。

じゃあヤクルトのペピトーンだって・・・
2003年1月4日(土)

昨日、同居人が「ちょっと見なよコレ〜」というので
見た島田紳介司会の「キスだけじゃイヤッ!」(略称キスイヤ)
の特番。2マタかけたとんでもない女の話にムカつく。

「キスイヤ」は好きな番組です。関西製作の番組なので
出場者も西の人が多く、えもいわぬユーモアが楽しいので。

さて、そのまま見ていたら、「夫がカツラで悩んでいる」
という女性が一人で登場。若い夫婦(夫24歳)なのであるが、
妻は、カツラがイヤとかそういうことではなく、
維持費がかかることと、娘が3歳になり ものごころも
ついてきたので、そろそろ本当の姿を見せないとショックが
大きくなる、という。
カツラ代の借金は雪だるま式にふくれあがり家計は苦しく、
赤貧生活だ。誰にも相談できないと涙ながらに訴える。

微妙な問題なので放映できず、番組スタッフはその涙ビデオ
を家で夫に見せる。絶句する彼。しかし、今まで会社でも隠し
通してきた彼はカツラを外す決心がつかない。

夫婦で話し合いが続き、彼は会社の先輩に相談。先輩は
驚きながらも「色々言われんのは最初だけや〜」と言う。

夏休み。
彼はカツラを外す決心をした。短髪に散髪し(たしかに後退
している)、家に帰る。変貌した父の姿に逃げて泣く娘、
手足が硬直している。つらい場面である・・・。
しかし翌日には慣れていつもの父娘に。
プールで一緒に遊ぶことも出来た(今までは水は不可)。

夏休み最終日、明日から出勤の日、
会社の同僚と飲み会を開き、短髪からスキンヘッドにした
姿を見せる。「今まで、かぶっとったんや」と告白。
最初「うわ〜」と言っていた同僚も「もう慣れたわ〜」と
暖かいフォロー。
ナレーションが、翌日同僚2人がスキンヘッドにしてきた、
という友情秘話をサラリと語る。

後日たん(←漢字出ね〜)。
娘を預けて夫婦二人で食事。今まで(カツラ代で)家計が苦し
かったので二人での外食は久しぶりだ。
夫が妻に紙袋を渡す。妻が開けると、白いコートが入っている。
ナレーション
「それは奥さんが店の前を通るたびに『こういうのほしいな』
 と言っていた9,800円のコートだった」

・・・私はここで号泣。続きを見ていません。


21世紀版、『賢者の贈り物』(O・ヘンリー)といった感動。


ハゲ(←実もふたもない言い方だ)といえば
「ハゲしいな!桜井くん」(高倉あつこ)
「野球狂の詩」の「ショーマン投手」=千藤光、
などが思い起こされます。
「桜井くん」は主人公の悩みに比べて、彼女の現実的な
対応が面白かったです。


カツラをとった後、フェリーで帰郷する時の甲板で

夫「こうやって顔に風受けるの久しぶりや〜。
  いつも後ろ向いとったから」
妻「あんた、逃げとったんよ」

・・・なんて会話も泣かせました。


それにしても、何でもユーモラスにしてしまう
「関西弁」というのはスゴイ言語です。

「この髪、ちゃうんです」「ほんまか!?」

緊迫した場面も、何か違ったニュアンスが生まれます。

猪木は横浜出身(鶴見)
2003年1月5日(日)

最近TVネタが続き、いかにも正月にテレビばかり
見ているおじさんの姿が浮き彫りになってしまった。
さて、大晦日の「猪木ボンバイエ」。
闘魂ビンタ108発は見逃してしまいましたが、
とりあえずサップ×高山戦だけは見ました。

普段プロレスを見ない私の耳にも「サップってすごい」
という声がガンガン入ってきた。これは、24年前に
「KISSってすごい」という声を聞いてKISS日本
公演のTV映像を見たときのノリに近い。口から血を
たらしたり、舌を鼻につけたりしてたネ。ちなみに
今年3月来日、オリジナル・メイク(かつフルメイク)
での武道館3DAYSライブがあります。

http://www.kissmillennium.com/Info/Rainichi.htm

しかし猪木という男は底が知れないねえ。
「一番最初に買おうとしたレコードはキャンディーズ」
と以前に書いたが、これは“歌謡曲部門”の話で、

実は!

一番最初に買おうとしたレコードは

「アントン体操」

というシロモノだったのです。え、アントン体操を知らない?
どこかのHPに書いてないかな、と検索したらありました。

http://www.neptune.jstar.ne.jp/~yamataka/hakku.htm

これ、たぶん昭和47年頃だと思う。小学校1年だか2年生
の私は地元G商店街のレコード屋で小さな声で店員に言った

「あんとんたいそうください」

残念ながら話は通じず、「ありません」と言われて帰りました。

しかし、「アントン」という呼称も使われなくなりましたね。
いまだに猪木のことをこの名で呼ぶのは倍賞美津子さんと
うちの同居人ぐらいなもんでしょう。

オレ「いまどき『アントン』って呼ぶ人いないよ」
彼女「だってアントンはアントンだよ。ほっといて」

高年齢。
さて、猪木が引退してから出した本、『猪木自伝』『猪木詩集』
はなかなか良いですよ。推薦。

仁義
2003年1月6日(月)

今日から仕事だというのに風邪をひいてしまい、
朝病院に行って午後から出勤。

病院の待合席にいると、視界に「魔王」が。
何かと思えば、“花粉症”対策のパンフレットに
ハクション大魔王のキャラクターが使われていた
のでした。なるほど、クシャミね。

あのアニメのエンディング曲「アクビ娘」は
名曲ですよね〜。
http://curara.hp.infoseek.co.jp/gakuhu/hakusyon_daimaou.html
歌詞も、曲の展開も、コーラスの呼吸も絶妙だけれど、
堀江美都子さんの歌声! あの「♪明るくて〜ェ」という
巻きの入り方がスゴイですよね。魔法のマコちゃんの
「♪どこから来た・のォ」でも再現された独特の手法です。

個人的には
「アクビ娘」by堀江美都子
「風といっしょに」by前川陽子
「白いテニスコート」by大杉久美子
は3大“心の名曲”と言えましょうか。
まあ、今の気分で言っているだけで、別の時には
「黄金バット」とか言うかもしれませんが。♪ワハハハハハハ


さて、さっきのパンフレットの件ですが、
正確には最近CSかなにかで出た新作
「よばれてとびでてアクビちゃん」
と言ったほうがいいのかもしれません。

この作品がリリースされるときにプロデューサー(?)の
笹川ひろしさん(?記憶曖昧)が新聞のインタビューで
答えて曰く−

Q「今回は魔王は人間界に来ないのですね?」
A「はい。前作の最終回で、魔王は100年帰ってこないと
  子供たちに約束したわけですから・・・」

私の頭の中には“仁義”という二文字の漢字が浮かんだ。

そして、この言葉を西崎義展に聞かせたい、とも思った。


西崎義展は説明するまでもなく「ヤマト」のプロデューサー。
傑作「宇宙戦艦ヤマト」を送り出し世の喝采を浴びたが、
登場人物を殺しては生き返らせ“ゾンビもの”にしてしまい
大ひんしゅくを買った、毀誉褒貶の激しかった人である。

しかし、「さらば」以降のヤマトとは何だったのだろう。
まあ、見てないから考える必要もないんだけど。
“パラレルワールド”か、好意的に考えれば。
まあ、ヤマトのことは明日にしましょうか。

猿は論外
2003年1月7日(火)

君は日曜の7時半からどれを見ていたか?
−という話題が、飲み会で出てくることがあります。
まあ、ありがちな話でここで蒸し返すのも何なんですが。
「どれ」とはつまり、
「アルプスの少女ハイジ」「宇宙戦艦ヤマト」「猿の軍団」
の三番組を指すのは言うまでもないでしょう。
私は、おおかたの家庭と同じようにハイジ見てました。
ヤマトは再放送で見た組です。
ただし、ハイジはフランクフルト編が超ヘビーで、
二度ほどチャンネルを替えてヤマトと猿を一回ずつ見ましたが
たまたま面白くない回で、ハイジの精神崩壊劇に戻りました。

ハイジとヤマトといえば70年代を代表するアニメ番組。
ハイジは「全世代が揃って見れるアニメ」のさきがけで
千と千尋の全国民的受け入れなんかにつながるものだし、
ヤマトは「青少年が熱中してファン活動するアニメ」の
最初とは言わないが最初に近いものだったのでしょう。

二つのアニメに共通するものは(ハ:ハイジ、ヤ:ヤマト)

●老人の指導のもと
ハ:アルムおんじ
ヤ:沖田艦長

●若者たちが
ハ:ハイジ、クララ
ヤ:古代、島

●異なる価値体系と戦い
ハ:フランクフルトの都市の論理
ヤ:ガミラス星の強兵・侵略

●清浄な空気を求め
ハ:アルムのおやま
ヤ:イスカンダル星、コスモクリーナー

●そこへ帰還し、再度立ち上がる
ハ:クララが立った、歩いた
ヤ:赤い地球が青くなった

という構図でしょうか。

−−−
ヤマトは、斬新でした。すでに
「ルパン三世」のサウンドや、
「ガッチャマン」の映像
に新鮮さを感じていた我々(←だから誰だよ)にとっても
未知なるエクスペリエンス(体験)でした。

先般の裁判で「ヤマトはあなたの創作物ではない」という
判決が下されはしましたが、やっぱりこの作品は
松本零士の精神で満ちているでしょう。
暗黒の世界に旅立つ不安と期待・・・あの感覚は作家の
ものとしか言い様がありません。

テーマとかは別にして、とにかく面白かった。例えば
第12話「絶体絶命!! オリオンの願い星地獄星」で
灼熱のアルファ星に急接近、火の海の上を飛ぶヤマトを
さまざまなアングルでとらえたショットの積み重ねたところ
なんかは まさに“海洋アクション”で、巨大コロナを波動砲で
吹き飛ばして脱出するまで、手に汗握る興奮でした。

−−−
ちなみに、劇場版が公開される前にオールナイト・ニッポン
枠で「ラジオドラマ」の放送があった。ここでデスラー役の
伊武雅刀(当時は雅之だったか)の素のトークを聴いて驚いた。
スネークマンショー前夜の話である。
このあいだまでやってたTVドラマ「リモート」も伊武雅刀は
面白かったよ。色気あって。

児童文学、かすかな記憶
2003年1月8日(水)

「ハリー・ポッター」とか「指輪物語」とか
世間でよく読まれているようですが、私は
ファンタジー系が苦手で、読む気にもなりません。
情緒欠陥かもしれない。

子供の頃何を読んでいたか思い出してみると・・・


【絵本】兄もいたし、家にたくさんあったような。

覚えてるのは残酷系の
「したきりすずめ」「ヘンゼルとグレーテル」。
動物虐待、児童虐待だ。

「ピノキオ」みたいなメタモルフォーゼものも
怖かった。ラバか何かにされてしまうのが。

「母をたずねて三千里」、アニメの小田部羊一
キャラクターデザインとは地球の表と裏ほども
異なるおどろおどろしい絵柄の絵本だった。
「コルドバ」という地名すらおそろしく感じた。


【小学校の図書館】で読んだようなものは・・・

「めをさませトラゴロウ」
「ちびくろサンボ」
なんかが面白かった記憶が。

「赤いろうそくと人魚」
「ごんぎつね」「てぶくろを買いに」
小川未明、新美南吉? どれも良かった。

「幸福な王子」
めっちゃ泣きました。なぜあそこまでする?

「泣いた赤鬼」
なんか悲しい話しか覚えていないような・・・。
あのラスト・レターには参ったね。


【教科書に載っていた】もので、

「スーホの白い馬」
自己犠牲ものの名作。
授業中に生徒を泣かせてどうする!って感じ。



結局あまり思い出せなかった・・・ということは、
本を読んでいないということです。

最後に二つ、小学校4年の時に読んで感銘を受けた
ものを

「チョウのいる丘」(那須田稔)
原爆の後遺症で若くして死んでしまう少女の物語。
めずらしく頭の中でビジュアルイメージが沸いた作品。

「麦わら帽子は海の色」(今江祥智)
ヤクザみたいな先生と、その生徒になった妹の話。
面白かった。幻の本だなあ、これ。


以降は、
“探偵もの”“SFもの”“スポーツもの”
“伝記もの”といったような、情緒のないもの
ばかり読んでいました。タイトルを挙げても
仕方ないので、やめときます。

「プロ野球名勝負物語」とか「伝記・松下幸之助」
とか、そんなの。あ、松下幸之助については今度
別に書きます。


結論:イマジネーションを育めなかった。残念ナリ。

過剰反応
2003年1月9日(木)

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉もあり、
「近親憎悪」という言葉もある。

個人的な感覚の問題、と前置きしつつ・・・。

おととい(1/7)の朝日新聞夕刊の映画評には参った。
稲垣都々世という人が書いた
「きらめきの季節 美麗時光」
という台湾映画の紹介文。
映画はヤクザの青年と病気の姉、いとこなどの
静かな日々と暴力的な事件を描いたものらしいの
だが、この映画評は 終盤の映画の核心に迫ると
思われるイメージを詳述した後にこう書いて
文章を結んでいる。

「思えば、若さとはいつも死と隣り合わせにあるものだ。
だから青春は短く、その時だけ特別の輝きを放つ。
きっと監督は、どんな絶望の中にも光を見いだすことが
できると言いたかったのだろう。その繊細で叙情的な
死生観に感じて慟哭(どうこく)した。」

・・・うーん。
映画を見ていないのでなんともいえないが、

この全センテンスに対して反論したい気持ちだ!

なんでこの文章に異様に反発を覚えるのだろうか?
まあ、この筆者の感性が、映画に登場する人物から
若さゆえの不安定さとか無軌道を感じて、
『若さとはいつも死と隣り合わせ』というテーゼを
発したのは理解できないでもないが・・・。

ちがうんだな〜。
「死とか生とかからスポイルされた若さ」という
ものに関心を抱き続けていた私には、
『隣り合わせにあるものだ』と断定されても困って
しまう。
「貴方は気が付いていないだけヨ」と言われれば
それまでだが。

全く個人的な見解だが、70年代の若者の創作物
には、確かに死があふれていた。真剣な表現には
身近な者の死が不可欠、というようなところも
あって、80年代に創作活動(?)を開始した私は、
それはよそう、と強く思っていた。

おりしもその頃、「の・ようなもの」という映画で
デビューした森田芳光監督が
「人が死なない青春映画を作りたい」
とコメントしたのに熱烈共感したりもした。

たしか小林信彦氏が「狂った果実」について
言った言葉だと思うが、
「人生を死ぬまでのヒマツブシとばかりに
 描いた感覚が今でも新しい」
というのがあった。

死を無自覚な者の姿−を見ることが、
それが死と隣り合わせなんだよ、という
視点なら理解できるんだけどなあ。

『だから青春は短く、その時だけ特別の輝きを放つ』
の「だから」って何なんだろう。前後の結びつきが
わからない。

『きっと監督は、・・・と言いたかったのだろう』
『その・・・に感じて慟哭した』
この波状攻撃には参った。
「慟哭」とは、「大きな悲しみのため、声をたてて
泣き叫ぶこと」だよ(広辞林より)。
こんな大げさな映画評は見たこともない。
筆者が、いかに感銘を受けたかは、伝わってくるけれど、
「慟哭」はなア・・・僕には理解できないセンスだ。


冒頭にも書いたように、

自分もこういう映画評を書いて人を怒らせてることが
あるかもしれないと、
「人の振り見て我が振り直せ」です。

また、これほど過剰に反応するのは
「近親憎悪」
というものでしょう。

今日の文は、反省材料です。

空にさよならお星様
2003年1月10日(金)

慣れないことはするもんじゃない、
という言葉の通り、昨日書いたものを
読み返したら自分の文章の方が
意味不明で、今日は一日ダウナー系。

千明初美さんの佳作「先生と2年E組」のセリフ

「きもちが/スッキリ/しないんよ」

状態で、

「・・・/やらない?/タバコ」

みたいな。

「タバコって/・・・/おいしい?」

待て。


古本150円で買った「アメリカひじき・火垂るの墓」
を読み終えました。野坂昭如を読んだのは高校の時の
「戦争童話集」以来だろうか。いや、そのあと新書で
「国家非武装〜されどわれ愛するもののために戦わん」
(←題名長い)を読んだか。ともかく久しぶりだが
この文体すごいよ句読点ないそのうえあのテンポ独特
つい真似てしまう風邪引いて鼻詰まる。

むかし、野坂昭如が「おもちゃのチャチャチャ」の作詞者
だと聞いたときは驚いた。あれ、とても良い詞だよね。

「おもちゃは帰る おもちゃ箱
 そして眠るよ チャッチャッチャッ」

という最後の哀感が胸を刺します。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/omochanocha.html
(音が出ますよ)

ウッス!体育会系シリーズ(1)
2003年1月11日(土)

健全な肉体に健全な精神は宿る

ということで、
気合を入れ直す意味もあって「体育会系」の
話題に行きます。ウッス!

さて、純度100%の文科系と思われる私が
小中学4年間、運動部に入っていたことを
知る人は少ない−−−というか、はじめて
お会いする人ばかりですね。はじめまして。

小学校5・6年で野球、中学1・2年で卓球を
やっていました。どちらも練習が厳しいところ
で、平日・休日とも練習漬けでした。
今にして思えば、10〜13歳というチルドレン
タイム、その大量の時間を、ひたすらオタッキーな
ことに費やしていたら、

「どんなことになっていたか」

わかりません。“何かを極めた人間”になって
しまっていたかもしれず、それはそれでまた
違った人生・・・だったかも。しかし、歴史に
「れば・たら」は無い。そこは神様のご配慮、
運動部に入ることで適度に薄まった普通の人間の
人生を歩むことができました。


水島新司のおかげ(「ドカベン」「野球狂」)で
小学3・4年の頃に野球のルールを覚えた私は
小学5年生での新しいクラスメートの誘いで
町内会の野球チームに入りました。名前は
「○○アローズ」(○○は町名)。当然、
少年野球なので軟式です。

ふと今、おそろしい考えが頭に浮かびました。

自分は、「野球が好きだから」野球チームに
入ったのだと思っていましたが、もしや
「コスプレ」
のような気持ちは・・・「まんがに出てくる
登場人物と同じ扮装をしたい」という気持ちは
無かったか。それは無かった、と信じたい。
決して、土井垣キャプテンの真似をしたかった
わけではない。

ましてや

決して

「男どアホウ甲子園」の“美少女”の真似を
したかったわけではない( ↑ 好きだったけど)、
と。

・・・いま私はジョジョ第5部のスタンド、
“ムーディー・ブルース”のように必死に
記憶リプレイをしています。


健全な精神のシリーズは明日に続きます、ウッス!

ウッス!体育会系シリーズ(2)
2003年1月12日(日)

Q「あなたのポジションはどこだったのですか?」
A「・・・ベンチです」

ということで、レギュラーにはなれませんでしたが、
「スコアラー」をやってました。結局文科系か。
スコアブック付ける役ね。本読んで色々覚えたけど、
今では「三振がK」しか覚えてません。

地味な職務でしたが、一つだけ役得がありました。
ある時、中学生チームのスコアつけろと言われて、
なんと「保土ヶ谷球場」のベンチに入ったことが
あるのです。一試合だけでしたが。
あの、明訓ナインが座った・・・じゃなくて、
あの、東海大相模の選手たちも座ったベンチに。
位置が低いから、地面の目線だ〜ぐらいしか
覚えてませんが、いい経験させてもらいました。


監督さんが熱心だったし、選手にも恵まれ
わがチームはM区では強い方でした。
こんなことがありました。

区大会は、後に斉藤由貴さんが通うS高校の
Sグラウンドで開催されるのですが、我々は
そこまでテクテク歩いて行きます。しつけの
厳しいチームだったので、一列に並んで整然と。

ある日曜の朝、Sグラウンドへ向う途中で
自動車整備工場の前を通ると、日曜出勤で
働いている工場の兄ちゃんたちが その
ユニフォームを着たアリの行列のような我々
を見て「おーおー」「がんばれよ〜」と
声をかけました。ちょっとからかうような
調子でした。

その日は決勝戦で、わがチームは見事に
勝って優勝。

帰路、また工場の前を同じようにテクテク
歩いていくと、工場の兄ちゃんたちはびっくり。
アリの行列が、今度は“優勝旗”を先頭に掲げて
戻ってきたんです。
「オ〜〜〜」「ワハハ、すげーすげー」
とみんな手を止め立ち上がって
スタンディング・オベーションしてくれました。
ちょっといい気分でした。


以下、思いつくままに。

1.弁当のオカズ指定

監督の指示で、弁当は
「メザシ」「ピーマン」「ニンジン」が
おかずに含まれていることが必須でした。

2.恐怖の光化学スモッグ

練習中、目がチカチカしてノドが痛い・・・
京浜工業地帯は遠いようで近かった。

3.ごめんなさい

チームの集合場所が幼稚園裏の駐車場でした。
幼稚園の先生の若いお姉さんに向って
「化粧が濃いぞ〜!」
とか物陰から叫ぶ悪ふざけをしました。

4.奇妙なことば

「てっかり」
頭を殴る体罰をこう呼んでました。
どういう語源なんでしょうか?

「チョイス」
選択、ではなく、あいさつの言葉。
“こんちゃーす”が訛ったものと推測。

「さいこうぜ」
最高ぜよ、という四国・中国地方の方言では
なく、守備練習の時に叫ぶ言葉。
「さあ、行こうぜ」の短縮形。

「ごいよーごいごいごいごいごいよー」
宗教の呪文ではなく、守備練習の時に叫ぶ言葉。
「(ボールよ)来いよ、来いよ・・・」という
のが濁音化したもの。

「したー」
チターとかシタールといった楽器名ではなく、
お礼のあいさつ。
「ありがとうございましたー」の超省略形。


あまり健全な肉体の話になっていない・・・

では、フィジカルなことも。ウッス!
よく、TVの「プロ野球珍プレー集」で、ボールが
局部に当たった場合の悶絶シーンやってますよね。

軟式ボール(軟球)でも十分いたいのに、硬球で
当たったことを考えると・・・考えただけで意識が
遠のきます。

なので、TV見て思わず「痛てっ!」と言ってしまうの
ですが、同居人は「なんでいちいち声出すのよ!」と
うざったく思っているようです。


軟球には、L球とA球という種類があります。Lは
みかんのサイズと同様少し大きくて練習の時に使用、
A球は試合用の公式サイズでした。

12年前の映画「就職戦線異状なし」のラストシーン、
イメージで(過去の自分から投げられて)織田裕二が
ジャンプしてキャッチするボールが、A球でした
(たしか)。あまり上出来な映画ではありませんで
したが、ここだけオッ、と思いました。


野球の話は次で終了。

「♪パア〜ラララララ」(テーマ曲)
2003年1月13日(月)

深作欣二監督死去、のニュースに接する。

ただ言えることは、
「とにかく『仁義なき戦い』は凄い映画だったなあ」
ということであります。

深作欣二監督・・・
私が映画を観始めたころの日本映画は角川映画の影響
か「大作一本立て」が多く、深作監督はそのような
作品の監督として目の前に現われました。
「宇宙からのメッセージ」
「赤穂城断絶」
「復活の日」
など。したがって、あんまり良いイメージ持って
いませんでした。その前にどういうものを撮っていた
か知らなかったので。
高校3年の秋、代々木ゼミナール大船校で模擬試験を
受けたのですが「こりゃダメだ」と珍しく午前中で
ギブアップ、試験を放り投げた午後に大船の映画館で
「蒲田行進曲」を観て、これが初めて良いと思った
深作映画でした。

翌年、吉祥寺東映のオールナイトで観ました
「仁義なき戦い」5本イッキに。

あまりの面白さに圧倒されました!!!

ちょうど当時8ミリ映画を製作中だったのですが、
その翌日の撮影ではイキナリ“仁義なき戦い”調の
演出になり、カメラは手持ち、構図は斜めに!
その前まで“森田芳光”調にやっていたので、その
落差にスタッフの方々はとまどってました。
それほどインパクト強かった・・・。

その後は新作と旧作をごっちゃに
(とにかく作品数が多い人
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0200890.htm
なので、見逃しは多いですが)観ました。
好きな作品を挙げると
「軍旗はためく下に」
「ジャコ萬と鉄」
「道頓堀川」
「柳生一族の陰謀」
など。
ベスト作は
「仁義なき戦い・広島死闘編」もしくは
「仁義なき戦い・頂上作戦」
です。
「広島死闘編」での千葉真一のbest actを
引き出しただけでも、もう殿堂入りです。

80年代以降はヘンテコな映画も多かったですけどね。

しかし、薬師丸ひろ子のアイドル映画のような
「里見八犬伝」でさえも、ラストシーンで戦中派の
心情をにじますあたりが好きなんです。
「柳生一族の陰謀」の夏八木勲死亡シーンなんかも
そうでしたけど、無駄死にさせられる登場人物たち
への愛があった・・・。

深作氏は昭和5年生まれ。
10代前半を大東亜戦争下に過ごし15歳で敗戦、
というのは感性に徹底的に刻印されているのでしょう、
ほかに大島渚氏(昭和7年生まれ)もそうですが。
そういう意味でも気にして作品を見ていた人でした。

話題になった近作「バトルロワイヤル」は まさしく
そういう感情が底流に感じられたので、
学生映画のような脚本や学芸会のような演技も
吹っ飛んだ作品でした。他の誰が カマ女の最期に
クラシック音楽を流したりするのか。

よくワイドショーなどで「仁義なき戦い」のテーマ曲
が使われています。映画を観たら、あ、この曲なのか
と判りますよ。
戦後史を考える人は観ましょう「仁義なき戦い」。

ウッス!体育会系シリーズ(3)
2003年1月14日(火)

区大会で優勝したときのナインの
プロフィールを思い出してみる。

投手・アサノ君(6年・愛称ドリさん)
エースで4番のキャプテン。5年の初めは
肥満児っぽかったが、背が伸び肉が筋肉に
なった。縦に大きく落ちるカーブ(当時は
ドロップと言った)が切れ味鋭く、打てる
打者はいなかった。ただ、その後ヒジを
痛めた模様。小学生は変化球はホドホドに
したい。クロマティ中学三年で同じクラス
になり、よくプロレスをした。

捕手・ヤマウチ君(5年・チー坊)
5年生ながらチームの要として活躍した。
大会直前にサードからコンバートされた
が難なくこなしたのが凄い。

一塁手・モリ君(3年・ユージ)
私より一学年上でエースだったユウイチ君の
弟で、1年生から入部していた子。身体も
大きく、大洋ホエールズの松原のような足を
伸ばした捕球スタイルが監督をもうならせた。
しかし話をすると3年生(9歳)なので幼く、
そのへんの落差が何とも言えなかった。

二塁手・スズキ君(6年・トコヤ)
床屋の子。体格に恵まれたがどうにも不器用で
一塁手→捕手→二塁手とポジションを転々と
したがレギュラー落ちはしなかった努力の子。
今思うと元アリスの堀内孝雄にしゃべり方が
似ていた。

三塁手・ワカバヤシ君(5年・ワカ)
強肩の三塁手。とにかくこの子は“瞬間湯沸機”
で、味方がエラーしては激怒して怒鳴り、相手に
ヤジられればヤジりかえして審判に注意される、
といった調子。ウェーブヘアーで目鼻立ちが
くっきりしたアイドル系の風貌だったが。

遊撃手・オカダ君(6年・ナオちゃん)
こんなに守備の巧い子は他にいなかった。
額にホクロがあって仏像のようでもあり
穏やかな性格だった。家が超金持ちで、
グラブ・バット・スパイクを頻繁に新調していた。
お父さんが8ミリが趣味で試合を撮影していて、
上映会してもらってみんなで見たことがあったが
「写ってる!」「動いてる!」「あれ、オレだ!」
と我々は未開人のありさま。

左翼手・カサダ君(6年・カサ)
私をチームに誘った級友。小柄で目立たなかった
が練習熱心な男で、僅差の試合を彼の決勝打で
勝った時にはすごく感動した。

中堅手・ヤマダ君(5年・ヤーマダ)
練習をサボりがちで一度強制退部させられたが復帰、
練習では冴えないがなぜか大舞台に強く、試合では
攻守・巧打を連発し、監督も不思議がっていた。
一種の天才と言えよう。ギャグセンスにも恵まれ、
「おじいさんの真似」が十八番だった。

右翼手・アンドウ君(6年・愛称なし)
クリーニング屋の子。レギュラーでは一番小柄で
痩身だったが、足の速さは一番だった。
“家庭の事情”で一度退部したが復帰、いつも
伏目がちで たたずまいに影があった。


このメンバーで区で優勝、市の選抜チームにアサノ・
ヤマウチ・オカダの三人が選ばれた。
なかなか強いチームであったと思う。


最後に、私の記録を紹介しよう。

ある試合でめずらしく先発出場、第一打席。
「ストライク!」「ストライク!」「ストライク!」
見逃し三球三振。

監督「バカヤロー、振れ!」

第二打席
「ブルン!」「ブルン!」「ブルン!」
空振り三球三振。

監督「・・・」

次の回で交代させられました(笑)。

二打席連続三球三振、これが一番印象に残る
個人成績っていうのは・・・。何とも、です。


野球はこれぐらいで。次は卓球です。ウッス!

ウッス!体育会系シリーズ(4)
2003年1月15日(水)

サブタイトル
「奥様の名前はサマンサ。そして・・・(声・中村正)」



集団競技に向いていない

・・・ことに気付いた私は、中学に入ると
個人競技をやることにしました。で、兄貴が
やっていた卓球という安易な選択を。

入部するとすぐに、なぜか!?何人かいた
先輩部員が全員退部してしまい(何があったのか?)
イキナリ 一年生のみ という、新設校かよ、という
状況になりました。「嗚呼!花の応援団」みたいな
シゴキを想像していた私は拍子抜け。

男女合わせて20人ぐらいいたかな。
正顧問は3年の英語のS先生、副顧問が用務員の
M先生。S先生は兄貴の担任で「フーン、弟か」と
一瞥。S先生は名前だけであまり現れず、
M先生が実質顧問で、非常に熱心な指導でした。
普通の先生が顧問だと練習日が少ないのですが
M先生は違うので、もう全力投球。
平日(朝練あり)・土日・夏休みも連日、もう
♪月月火水木金金〜でした。

ところが、春から始めてもなかなか上達しない。
今なら高倉健の声色で「・・・不器用ですから・・・」
とつぶやいて済ませるところだが。気ばかりあせる。

夏だったか、今では想像できないが当時は“笑いの刺客”
であった私は練習中、ある「うけねらい」を行なった。

滅多にあらわれない顧問のS先生は、顔がツルンとして
あごがしゃくれていたので、「ダーリン」というあだ名
で呼ばれていた(陰で)。もちろん、「奥様は魔女」の
ディック・ヨーク(声・柳沢真一)です。
えてして英語の先生の立ち居振舞いというのはヘンな
ことが多いが、そのダーリン(S先生)も、卓球フォーム
がすごくキザっぽく、「気取ってんじゃねーよ」と皆の
反発を買っていた。

そこで私は、練習のラリー中に「ダーリンの真似〜!」
と称して、アゴを出して小指を立て手を左右に優雅に振る
ダーリン・フォームを試みた。すると・・・

大ショック!! 今まで打てなかったのがウソのように
巧く打てるようになったのである。
具体的に言えば、腰を回転させ、重心を移動させて
打てるようになっただけなんだけど。


ダーリン恐るべし


技術の向上という喜ばしい一瞬が
お笑いと表裏一体であった私の
黄金体験(ゴールド・エクスペリエンス)。
キーワードは「ダーリン」だった。


続きます。

ウッス!体育会系シリーズ(5)
2003年1月16日(木)

「帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ・・・(エコー)」


愚行の数々を書いて来たけれど、今回は自慢話を
させてもらいますよ。卓球の。

M区大会 個人戦ベスト8入り
Y市大会 個人戦2回戦進出

これが、場合によっては履歴書にも書く(笑)という、
私の運動部系の唯一の戦歴です。井の中の蛙。

蛙といえば自慢その2。
中学校のスポーツ・テスト、「反復横跳び」で
学年最高の値をマークしました! わーすごい。
練習で“フットワーク”と称する同じような
素振りを毎日死ぬほどやってたし、当時は
身体も軽かったからね・・・。
自慢終了。


それにしても、卓球部と言えば思いだすのは
ビューティー・ペアのことである。
同じ部のY君はちょっとカマっぽい男。
アイドル好きで私とウマが合い、練習の合間に
体育館の舞台の上でよく振り付けの練習を
しました。それが、ピンク・レディーや
ビューティー・ペアだったのです。当時は
ビデオがなく、歌謡番組を必死に見ても覚え
きれず後は複数人で記憶を寄せ合い、教えあう
しかなかったのですよ(昭和史)。

そうやって踊っていると、M先生が冷たい目で
見ている・・・来るぞ、あのセリフが。

「お前たち(怒)、そんなことやってるんならな・・・
「帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ・・・(エコー)」

体育館に良く響く。十八番でした。「スンマセン」、
と“フットワーク”素振りに戻る私。よくあった
光景です。このように芸能活動と運動部を両立させ
ました。

「かけめぐる青春」「真っ赤な青春」「BAN BAN BAN」
「青春にバラはいらない」・・・これらの歌が映像の
後ろに流れます、オレの昭和体育史。


中学に更衣室はなく、体育館の舞台横(袖)が
着替える場所だったのですが、そこの床
(木です)には なぜかこんな文字が書かれていました

「ここをふむとたたりがある」

毛筆で、すごい達筆で。
馬鹿な先輩が、ただ笑いが取りたいがためにこんな
ことを書いていたかと思うと・・・泣けてきます。


神奈川県の中学では「ア・テスト」なるものが2年の
3学期にあり、その勉強にマニアックに打ち込んだ結果、
そのままクラブからフェイドアウトして退部してしまい
ました。そして中学3年から「おたく」と言われるに
ふさわしい真性文科系になってしまったわけです。

あわてて付け加えますが、卓球というスポーツは
素晴らしく、今でも大好きです。もう一度生まれ
変わっても、是非卓球をやりたいと思います。
あ、でも女性に生まれたらバレエかな。


あと一回。ウッス〜

ウッス!体育会系シリーズ(6)
2003年1月17日(金)

このように、若き日の私は健全な肉体を鍛え上げて
いったわけであるが、もうひとつ鍛え上げてしまった
ものがある。それは「おたく力」とでも言うべきもの
であろうか。
バネが縮んで伸び上がるように、この“時間的制約”の
時期にパワーを蓄積していたものと思われる。

思えば、我がライフヒストリーにおいては
「禁欲期」→「爆発期」が波状に繰り返されてきた。
運動部ステージ、受験ステージ、といった忍耐の
時期のあとには、猛烈なリバウンドが。

波状のイメージとしては、「ヤマト」でワープ航法
の説明時に出てくる「時間の流れとは波の形をして
います」というグラフを思い出してくだされば結構です。


さて、運動部の練習があったとしても、
見たいものは見たいのが自然の感情。

土曜日の昼。
記憶が定かではないが、野球部の練習の集合時間は
13:30。 私は13:00前にユニフォームに着替え、
TVの前にスタンバイ。
「笑って!笑って!60分」を見るためである。
あの、ジェリー藤尾が司会してたやつね。
「♪キミはなんだかボクより〜オトナっぽくて〜」
というザ・ハンダースのOP曲、「小松の親分」の
コント・・・。谷啓とスーパーマーケットのコーナー
が始まるあたりのタイミングで、やむなく家を出る。
集合に遅れると鉄拳制裁があるから。
ちなみにピンク・レディーを初めて見たのは
この番組の「マラソンインタビュー」だったと
記憶している。その時のインタビュアーはたしか、
アゴいさむ。

土曜の夕方。
日が暮れる。私はいつ練習が終わるかソワソワ。
18:30から「タイムボカン」が始まるからである。
監督は私の心中を知らないのか(←知らない)。
寸前に解散になる。家へダッシュ!

そして

(他のところでも書いたので繰り返しで申し訳ないが)

平日の夕方といえば、17:30のアニメ枠。
見逃すことが出来るだろうか、いや出来はしない。
一日たりともサボったことのない練習優等生の
私だが、家が中学校から近いのを幸い、体育館から
ラケット持ったままダッシュで帰宅し「エースをねらえ!」
を見て、また練習に戻る。キセル野郎。

この枠で繰り返し見た
「エースをねらえ!」「ルパン三世」「宇宙戦艦ヤマト」
といったアニメこそ、我々(←・・・)の血肉と言える
ものでありましょう。


体育会系シリーズの最終回だったんですけど、何か
違うような気が。まあ、いいや。

とりあえず、アニメはテレビから離れて、部屋を明るく
して見てください。皆様のご健康をお祈りいたしまして、
結びの挨拶とかえさせていただきます。

がんばってプリンセス(生意気娘に花束を)
2003年1月18日(土)

プロテニス選手のマルチナ・ヒンギス(22)が引退する、
という記事はネットでも流れていたのだが、とうとう
朝日新聞のベタ記事でも報道され、どうやら本当らしい。
テニスはめったに見ないけど、ヒンギスは好きな選手だった
のでガッカリ。ナントカ姉妹とかの、パワーテニスは好き
じゃないんだよな〜。

さて、ヒンギスといえば誰でも思い出すのが1999年の
東レ・パンパシ大会の対グラフ戦。ヒンギス優勢の展開の
中でグラフの足がつって、試合が中断したときにヒンギスが
観客にお手玉を披露した仰天パフォーマンス。

たまたま見たけど、テニスボール3個をクルクル。
なんでも「小学校の時にサーカス団員に教わった」
そうだけど、驚いたね〜。秋山のバック宙ホームイン
並みのインパクトだった。

しかし、大方の人の驚きは「グラフが怪我してるのに、
たしなみの無い娘っ子だよ!」「本当ですわ、お義母様」
というものでしょう。
日本に「人を手玉に取る」という慣用表現があるのを
知らなかったのか。
そう、ヒンギスは「お子チャマ女王」だったんだよね。
これから成長してどんな王女さまになるのかしら・・・
と期待していたんだけど。彼女も脚の故障ということで、
本当にスポーツは怖いですね。

有名な話だけど一応付け加えると、ヒンギスは
「日本のお手玉の会」から「お手玉三段」の認定証を
もらっています。その会のHP
http://www.tbs.co.jp/inpaku/warabe/ehi_intro11.html
にも書いてありますが、前述のパフォーマンスが
「3個を両手で15秒間操るのが条件」という三段の
認定規定に該当していたからだそうです。

しばらく日本で温泉にでもつかりながらお手玉練習して、
も〜っと高位(師範代とか)を目指すのはどうでしょうか。
まだ若いし、がんばってほしいと思います。

一人旅シリーズ(1)
2003年1月19日(日)

松の内も明けた1月のこの時期には
よく一人で旅行に行っていました。
新卒で会社に入った87年から結婚する前の90年
にかけての頃です。本来は出不精なのですが、
当時は残業が多く休みが少なくて普段お金を使わ
なかったので、連休には旅行に行こうか、という気
になったようです。いわゆる「ニッパチ」(2月と
8月)が休みを取りやすい時期だったので、真冬か
真夏の旅となりました。
もう10年以上前のことなのであまり細かいことは
覚えてませんが、印象に残ることだけを。

●その一・広島

1987年の夏、8月の頭だったかな。2連休が
とれました。「2連休」というのは、普通毎週土日
休みの人には奇異に聞こえるかもしれませんが、
当時は1日休むのもままならなかったので、そういう
表現になっています。

広島。一度訪れたいと思っていた地です。
新幹線で広島駅到着。駅前でレンタサイクル(自転車)を
借りる。繁華街から川沿いに出て、フラフラ走っていると、
とつぜん現れたのが原爆ドーム。

絵や写真や映画では何度も見ていたはずなのに、
実物の存在感は全く異なるものでした。
すごいショックを受け、しばらくそこを離れることが
できませんでした。

そのあと記念館に行ったり、平和公園で修学旅行に来た
学生たちに体験談を話す被災者の人を脇から見たり
しました。あと、広島城の残った土台のみとか・・・。

夜は公園近くのビジネスホテル泊。記念館で見た
事物などを思い出しつつ。

翌日はまた自転車を走らせ、美術館へ。
「広島国際アニメーション大会」が(残念ながら)
翌週から始まるのを知っていたので、せっかく来たので
事務局に押しかけ。大会Tシャツを先行販売していたので
買って帰りました。和田誠デザインのそのシャツは
押入れの奥にまだあるはず。

たった一泊二日だったのですが、ふっと視界に
原爆ドームが入ってきた一瞬の驚きが強く印象に
残っています。

相撲
2003年1月20日(月)

ちょっと先に一つ。

貴乃花が引退とのことで大きく報道されていますが、
最近は全然相撲を見ていないのでいまひとつわからない。
名作映画「シコふんじゃった。」で「最近相撲は人気が
あるんだよ。貴花田とか、若花田とか」というセリフが
あったのを覚えてるくらいで。

私が相撲で ものごころついた時は「北の富士」って
横綱が長く休んでたよ。


小学校の時は相撲はみんな見ていて、私も好きでした。
見てた頃の力士名と、コメント

輪島・・・黄金の左。横綱
貴ノ花・・・大関。この二人の時代だった。
琴桜、大麒麟・・・この人たちも大関だった
魁傑・・・黒いダイヤモンドと言われた
増位山・・・たしかにイイ男だった
旭国・・・小さかったが強かった
わしゅう山・・・同上
大受・・・ワキ毛あり
富士桜・・・猛烈な突き
麒麟児・・・花のニッパチトリオと言われて
いたがほかの二人を思い出せない
高見山・・・トランザム
竜虎・・・ドラマ
若の海・・・負けが込んでいた
金剛・・・ホラ吹き。一度優勝した

意外と思い出せない。北の湖がのしてきたころ
から見なくなった。
一番好きだったのは、豊山。相撲は寄りばかりで
地味だったが、シコがすごかった。一直線に
まっすぐに上がる足。美しかった。


また、小学校時代は休み時間によく相撲をとった。
チビだったがそんなに弱くなかった。父から教わった技、
河津掛け、小股すくい、とったり、(奇策系ばかりだが)
特に初代若乃花(土俵の鬼)の得意技=“呼び戻し”
は結構決まった。父も子供の頃そんなに大きくなかった
らしい。よっぽど体格差がなければ、相手の重心さえ
巧く動かせれば勝てるものだった。


6時に相撲が終わると、「新八犬伝」だ。
♪じーんぎれーいち ちゅーうしん こーうてい
いざとなったら たまをだせ ちからの あふれる
ふしぎな〜 たま〜を〜 やあ!

一人旅シリーズ(2)
2003年1月21日(火)

次は年が明けて1988年の1月だったかな、
初めて本州を出て九州、長崎へ。

このとき飛行機に乗ったのも初めてのこと。
あいにく通路側の席。離陸前にダメもとでスチュ
ワーデスさんに「外見たいんですけど」と涙目で
言ったら、じゃあこっち来れば、とスチュワーデス
さん席にすわらせてくれました。不審人物には暴れ
られるより要求にしたがうべし、という?マニュアル
準拠かナ。ともあれ窓にはりついて、オオ〜、へばちゃん
(「雲のじゅうたん」の浅茅陽子さん)、やったよ
−とつぶやく私。感激しました。

変則的な順路で、福岡着→そのあと電車で柳川へ。
ここの掘割が見たかったのです。借りた自転車で
あちこち廻ったけど、九州でも冬は寒い!という
ことを知った。掘から沸いた羽虫の大群に突っ込んで
怖かったり。


その後目的地の長崎へ。

平和公園、原爆落下中心地(原爆公園)、長崎原爆
資料館と巡る。言葉なし・・・だったなア。
そういえば原爆公園で、ここの上空で炸裂か・・・
とボンヤリしていたら晴れてたのに突然大雨が
降ってきてビックリした。

今回はゆっくり出来て、長崎で2泊。浦上天主堂、
グラバー園、めがね橋、オランダ坂、などへ。
市電もイイ感じでした。しかし、名所より印象に
残ったのは、海の近くの坂のある街でした。
すごい細い道で民家がビッチリ建っていて、
フウフウ登って振り返ると海があって。
半日、歩いたり止まったりして、そこで過ごしました。

カステラ。甘いもの好きで、ことにカステラに
目が無い私ですがこちら(横浜)ではお目に
かかったことのない黒糖ザックリご当地カステラ
がたいへん美味しかったです。

この旅行中に読んでいた本がチャンドラーの
「長いお別れ」。あの突然の雨でびしょぬれに
なってしまいました。
いま、本棚で妙にふくらんでいるこの本を見ると、
原爆公園の空を思い出します。

一人旅シリーズ(3)
2003年1月22日(水)

その次は88年の夏・・・のはずだが、この年は春から
夏にかけて異様に仕事が忙しく、旅行はナシでした。
GW封切りの「火垂るの墓」「となりのトトロ」すら
観なかった、というのは私の価値観からするとありえ
ないことなのですが、それほどまでに忙しかった。
(たしか)9月に「ウィロー」を観るまで、
息もつけなかったなア。

89年の1月→平成になった頃。たしか成人式の翌日から
休みをとって、沖縄へ。
初日は沖縄市に泊まって、翌日那覇市近辺。
そして目的の南の方を巡る。

平和祈念公園。資料館。ひめゆりの塔。
なぜか、全然人がいない。

観光シーズンでもなかったし、自粛ムードの時期でもあった
からか。とにかく人のいないところで、一人で歩いていた印象。
実際にはいたのかもしれないが、見えてなかったのかも。
とにかく、日本で唯一の地上戦のあった場所。
資料館のインパクトもすさまじいものだったけど、
地名忘れたが、ガマ(洞窟)で一人いたときの感じとか・・・
なんとも表現のしようがありません。

1月だけどわりと暖かく、海岸で昼寝してた時間が
長かったように思います。ビーチも人影なし。
静かすぎてコワいなあ・・・っていう感覚を味わう。

噂では聞いていたが、タクシーの運転の乱暴さ、
中央分離帯を乗り越えてUターンしたのには驚いた。
2時間に1本しかないバス停で寝て待ってたら、
牛を連れたバーさんに話し掛けられた。
方言キツくていまいち聞き取れなくてスマン。

どこかで海岸に出ようとして、どう間違ったか
さとうきび畑に迷い込んだ。
四方を自分より背の高い植物に取り囲まれ、
草のあいだから青い空だけが見える。


とにかく静か


文字や映像で見聞きした印象とのあまりの落差。

この旅行の印象はそれに尽きます。

一人旅シリーズ(4)
2003年1月23日(木)

さて、広島・長崎・沖縄と旅行に行くと、職場の人に
「何なの?」と聞かれるのですが、まあマジメに答える
のもなんなので「修学旅行ですヨ」とかゴニョゴニョして
おりました。

人類の愚行の極まった地に足を付けてみる、といったら
いいのですかね。この頃22、3才。まだ若かった。
で、次は海外。まず中国に行って、次はポーランドに
行こうと目論んでいました。

そうしたら89年、中国で天安門事件。観光旅行なんか
行ける状態ではない。
翌90年、東欧諸国の自由化。やっぱり騒乱の時期で
渡航は危険の赤ランプ。
でもって91年には独身でなくなってしまい、目的を
持った一人旅シリーズは途切れてしまいました。
まあ、いつか続きを−とは思っていますが。

なので、ここからは今までとは異なり、目的を失った
連続性のない旅行になります。


●熱海

89年の8月の連休。

当時、休みの日に自転車で海を見に行くのが趣味で、
逗子・葉山や鎌倉の方によく行っていたのだが、
一度泊まりで伊豆方面に行ってみようと思っていたので。
雨が降っていたが、フラリと出かける。横浜から小田原
のあたりまでは平地だし、1時間ぐらい行けるのだが、
そこからが一応山道。
雨脚も強くなったので、ここで停止。小田原の国道沿い
の映画館でテリー・ギリアム監督の「バロン」を観る。
面白い。雨やまず、やむなくお城を見て小田原泊。

翌朝、小雨。出発。ご存知の通りあのへんの国道山道は
道幅が狭く、トラックがバンバン通る横、雨で視界は悪く、
結構デンジャーゾーン。車のクラクションに追い立て
られつつ強行走破。
昨日からの雨で、冠水している地帯がある。ペダルまで
水に浸り、ゴボゴボ泡を立てて進む。芦ノ湖の白鳥ボート
のような状態だ。「走れ!K100」と言っても良いが、
共感を得にくいかもしれない(後日詳述)。
なんとなくそんなこともあったが無事に熱海着。早々に
適当な温泉宿にはいって、温泉つかりっぱなし。
夜、宿の新聞で海部内閣発足を知る。

翌朝自転車を見ると真っ赤なサビが。帰ったら手入れする、
スマン。晴れた。せっかくコッチの方に来たので、
伊東のサイクルスポーツセンターに行ってみることにする
(山奥なので別の交通手段で)。
ここは整備されたサイクルレーンがあって、ものすごい
スピードが出せる。事前に安全運転講習を受けるのだが、
それは忘却。70キロ以上出す。爽快。

もう一晩温泉つかって、翌日帰路につく。いつもそうだが、
帰り道は早く感じる。位置で残り距離がわかるせいだろう。

とりあえず今回のトピックスは自転車で県外(静岡)
へ出たよ、ということだった。
来年の夏は箱根の山を越えてもっと先へ行こうと誓いつつ、
赤サビ落しをするのであった。

一人旅シリーズ(5)
2003年1月24日(金)

●高山

90年の1月だったかな。あまり覚えてない旅行。
「そういえば日本海を見たことがない」と思い、
そっちのほうに行ってみることにしたのです。
実は後で誤認とわかりました。高校の修学旅行
で小浜に行っていたので、この時に垣間見ていた
と思われる。記憶ないが。

たしか会社ひけてから、夜の新幹線で米原まで
行って、そこから日本海方面に向かった。
あまり計画を立てずに出発、いきあたりばったり
の旅となりました。

まずは、浦山桐郎監督の映画「非行少女」の
舞台になった内灘の海岸に足をつけました。
人一人いなかった。寒風吹きすさぶ。

金沢、兼六園。ブラブラ歩いていたら、
3組のカップルから写真撮ってくれと頼まれた。
それから、東尋坊。

高岡だったか、夜「マルサの女2」を観た映画館で
“当地で撮影中”と手書きした「少年時代」の
予告ポスターが貼ってあったナ。

黒部ダムっていうのは、冬は行けないのですね。
ダム湖が見たいと思い、比較的電車から近い
ところがあったので小雨降る中行って来ました。
ダム名失念(宇奈月とかそんなところ)。
異様な静けさ。

その後、高山に一泊して、名古屋に出ようと
思い立つ。
雪の高山、を期待したのですが暖冬で雪なしでした。
街並みが良い雰囲気。のんびりできた。

目的のないブラリとした旅行でした。

一人旅シリーズ(6)
2003年1月25日(土)

●豊橋

1990年の7月末か8月頭。
前年から目論んでいた、自転車による箱根越え
を目指す。
二週間ぐらい前から準備運動、近所の丘で急峻
な坂道を登る夜間練習。

かくして出発。初日はゆっくり箱根のふもとまで
行って、温泉。翌日早く起きて、イザ、と
登り始める。当然、旧道です。

まあ、やっぱり、キツかった。なに、この傾斜!
って感じ。ヨロヨロ登ってると車も横を通って危ないし。
でもstop&goで登り続ける。アゴ上がる。
登り続けて、展望台みたいのがあるところにたどり着く。
そこから見ると、もうその先に登りはない。
もしかして・・・。やったよ、越えたよ、ってコト?
いやあ、うれしかったねえ。そこから天国。三島市まで、
ノンストップ下り。至極爽快。その日の風呂はイイ気持ち
だった。

翌日は地獄。富士市のあたりは巨大富士山を横目で
見て快調なれど、その先が・・・国道をひたすら
走るんだけど、これが風景はつまらないし、時々
無意味な起伏があるし、空気は悪いし・・・。
変化のない道を走るのは面白くない。しかも暑い。
マイッタ。

でも、三日目に、天竜川を越え、浜名湖を見て
復活、そして静岡突破! 愛知県に入る。うれしい。
本当は名古屋まで行きたいが、安全策をとって
今回は豊橋どまりとする。

と、いうことで今回の旅行の到達点は「伊良湖岬」。

ここ、海岸はナカナカきれいで、いいところだ。
ゆっくり過ごす。メロンが名産とのことで、家に
宅配をする。
柳田国男の日本人起源説、島崎藤村「椰子の実」、
三島由紀夫「潮騒」など文学にゆかりの地であったらしい。

帰路は、往路の反省から静岡県央はやめて海岸線から
帰ることにする。多少遠回りでも風景に変化があるほうが
疲れない。遠州灘を横目に快走。

御前崎灯台、行ってみて良かった。好印象。この近くの
道はグッド・ロード。
駿河湾沿いに焼津方面へ。いつもそうだが、復路は
近く早く感じる。

帰りの箱根越えは、静岡側からは傾斜がゆるやか
なので楽だった。
箱根で流しそうめんを食べて名残を惜しむ。

よーし、来年は「鈴鹿越えだ!」と誓ったが、
それは果たせていない。当時25歳。
今38歳、サイクリング車なし(ママチャリのみ)。

でもこの旅行中も年配のサイクラーをたくさん見たし、
まあ、いつかは・・・と思ったりもします。箱根の急坂が
まぶたの裏に浮かぶよ。


「一人旅シリーズ」おわり。

2003年1月26日
2003年1月26日(日)

2003年1月26日。

TVアニメ「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」最終回、

第51話「ありがとう!また会う日まで」

4年間続いた“おジャ魔女どれみ”シリーズが
幕を閉じました。

12/22の第46話「さらば、魔女ガエルの呪い」あたりから
“幕引きモード”全開。

昔、榊原郁恵に「わがまま金曜日」という曲があり
(TV番組「ぎんざNOW!」なんかで良く見ました)
そのタイトルにならっていえばここ数週間は

「号泣日曜日」

といったありさま。それを隠すために、この日記では
回顧ものシリーズでごまかしていました。

今は、書ける精神状態にないので、日をおいて
つづってみることにします。とりあえず

ありがとう!また会う日まで

おたく(前編)
2003年1月27日(月)

先日「体育会系シリーズ」を書いた時に、「おたく」という
言葉を数回使いました。自分はそうなった、と。
その「おたく」「オタク」とは何でしょうか。
ホームページを検索すると、その定義を試みている人が
たくさんいます。一例をあげれば

http://www2j.biglobe.ne.jp/~yubon/personal/views/otaku-j.html

http://www2s.biglobe.ne.jp/~idesaku/sss/talk/talk_01.html

こんな感じ。
まあ一般的には、「アニメとかまんがとかが異様に好きな人」
というようなニュアンスで使われているようですが、
否定的に「趣味に没頭して社会性を失っている人」という
意味合いを込めて使われることが多いようです。

さて、本当に自分が「おたく」かどうか、ある指標を元にして
自己診断してみたいと思います。
知り合いであるロシア人のオタク研究家、インノケンティ・
オブローモフ氏の説によれば、下記の設問

1.人に呼びかける二人称に「おたく」を使ったことがあるか
2.大泉の近辺を徘徊したことがあるか
3.部屋にクラリスのポスターを貼ったことがあるか
4.カラオケで「ラブラブミンキーモモ」を歌うか

の全てに「○」が付けば該当する、とのことです。

さて、どうでしょうか。ドキドキ(続く)

おたく(中編)
2003年1月28日(火)

設問に対して、回答してみよう。


1.人に呼びかける二人称に「おたく」を使ったことがあるか
2.大泉の近辺を徘徊したことがあるか

両方とも○

1983年、受験勉強から解放された私はじょじょに
凍った心を自ら解かしつつあった。セルアニメ以外の
アニメーションにも関心があったので、たしか川本喜八郎
だったか、の作品上映会が大泉であって、出かけました。
大泉は「東映動画」のある地ですね。
さて、上映会開場前に長蛇の列に並んでいた私、隣に
いかにも田舎から出てきましたという青年(少年)か
がおり、好奇心から話し掛けてみようか、と思いました。
どう切り出すか。「あなた」というのもおかしいし、
「キミ」というのもえらそうだ。「そなた」というのは
おじゃる丸(←当時は存在せず)だし・・・と迷った末に
「そうだこれなら」ということで使ってみたのが
「おたくさあ、」だったのです。
使ったのはこの時限りですが、のちにこれがオタクの定義、
と新聞で読んだときは驚きました。
ちなみにその青年はアニメを観るために四国から上京した
高校生だったようで、「明日やっと『ホルスの大冒険』が
観れるんですよ・・・」と眼を輝かせていました。
ビデオが爆発的に普及する直前の話です。


3.部屋にクラリスのポスターを貼ったことがあるか



ちがう指標のような気もしますが。「カリオストロの城」は
封切りが高校受験直前で見逃していました。就職組の級友の
「面白かったよ!昔のルパンの絵で、ハイジのアルムおんじ
やヨーゼフも出てくるよ!」と楽しげに語っており、それを
うらめしく聞いていました。
そして、高校3年の時風呂からあがって居間を通ったら、
兄貴がTV放映を観ていました。ちょうど時計台の歯車の上で
戦っているところで、ああこれは面白そうだ、すぐ観たい
・・・と思い「ぴあ」を開いたら学園祭で上映されていたので
その週末にさっそく行きました。東京都立大学の16ミリ上映
でした。この前読んだ切通理作氏の本でも書いてありましたが
口コミで評判が伝わって、学園祭でたくさん上映されていた
頃でした。まあ、クラリスのポスターのことは、貼っていた
んだから仕方がないじゃないですか、ということで勘弁して
くださいナ・・・


4.カラオケで「ラブラブミンキーモモ」を歌うか



中学・高校時代に封印していた情熱が息を吹き返した時に、
目の前に現れたものは「うる星やつら」と「ミンキーモモ」
でした。もう二十歳近く、いい年をした男が・・・

♪ピピルマピピルマプリリンパ パハレホパハレホドリミンパ

の「ドッキンハートにまばたきショット」もいいですが、

♪ラブラブミンキーモモ おねがいきいて
ラブラブミンキーモモ おねがいきいて

は佳曲です。
しかし、もう自分は昔の自分ではない、ということも
痛切に感じていました。アニメなら何でも観ていた
昔ではなく、選んでみている、ト。
カラオケでも「ラブラブミンキーモモ」は必ず歌いますが、

♪おとなになったら なんになる
おとなになったら なんにな〜る〜

の部分で自分の半生が走馬灯のようにかけめぐり
ちょっと涙眼になります。大人になれ。

♪ドリーミン 夢が きっとかなうわ
ラブラブミンキーモモ おねがいきいて


次回総評。

おたく(後編)
2003年1月29日(水)

判定指標すべてに○がついてしまいましたが、
結局以下のように言うことができるでしょう。

過去においては「おたく」基準に合致する行動様式を
示していたこともあった、ト。

現在進行形の おたく行動は認められず、若干の
社会性欠如が疑惑を生じるだけで、基本的には
普通の人、と言えるでしょう。

と思いたい。

テッテ的に何かに没入したい、という気持ちも
あるんだけど。

天国にいちばん近いハムハムランド
2003年1月30日(木)

先日旅行について書きましたがそれに関連して。

去年のお正月映画に
「劇場版とっとこハム太郎/ハムハムランド大冒険」
というものがありました。

これを観た時に、昔のある映画を思い出しました。
それは、17年ぐらい前の、やはりお正月映画
だった原田知世主演の
「天国にいちばん近い島」
です。

なぜに連想? 何が共通点? ・・・かと言うと。

一番の共通点は、どちらもファンに期待された
お正月映画だったんだけど、評判が芳しくなかった
点です。
両方とも、主人公が異国に旅する話なのですが
「楽しくない」「面白くない」
といった声を良く聞きました。

「天国・・・」は死んだお父さんが生前に語っていた
ニューカレドニアに娘が行く話し、

「ハム・・・」は“人間とお話しができるようになる”
魔法のヒマワリの種をハムスターが探しに行く話。

どちらも基底にあるのは、「決して意志の疎通ができない
相手に気持ちを伝えたい」というモチーフです。

そして、どちらも無理なことですから旅は困難で、
決して楽しい場面がありません。終始主人公が
ブルーだし。

で、ここで私は思うんですが、旅行って決して ずっと
楽しいもんじゃないし、けっこう退屈だったり
うまく事が運ばなかったりする場面が多い気がするん
ですけどね。
なので私的にはどちらの映画もリアリティを感じて
面白かったんだけど・・・邪道系ですね。

共通点の結論なんですけど、ラストに触れますので
これから映画を見る人は読まないでね。


さて、二つの映画は退屈な(?)展開の末に、
非常に幸福なラストシーンを現出させます。
「天国・・・」は、現地青年(高柳良一)の優しさに
ふれた知世が、父親が言った言葉の意味を悟り、
“天国にいちばん近い”とはどういうことかを
かみしめる。
「ハム・・・」の方は、魔法のヒマワリの種が無力
だと分かり現世に戻ったハム太郎が、自分を必死に
探している飼い主の姿を見て、言葉は通じなくても
心が通じたことを知る。

監督が大林宣彦、出崎統であるだけに、
ラストに一点集中といった感じで映像派の
本領が爆発する。

映画は、一場面一場面でなんらかの結論を与えなくても、
最後の最後でそれまでの描写を集約したイメージを
提示するというものであるんだよ、という例。
私は両作とも非常に好きです!

(ちょっと説明足らずですが・・・)

二度目、読了。
2003年1月31日(金)

去年買ったまんが、「花びら日記」「奈々子の青春」が
面白く、毎日寝る前に少しずつ読む習慣となっていました。
そして、二度目を読み終えました。

ネームが多いのが苦にならない。
ひとコマひとコマに味がある。
多彩な登場人物が、ストーリーから放り出されない。
無骨(?)なユーモアが楽しい。

まあ、私としては絶賛、というわけではないのですが
たいへん興味深い内容でありまして、作者のほかの
作品も読んでみたいと思うのであります。
入手できる本はたいへん限られてくるのですが。

そんなわけで、「高円寺あたり」を読み始めました。
西谷祥子さん、良いです。(今さらすみませんの感)


日記の目次に戻る