善い政治はみんなの選挙・投票によって完成する


選挙道場・伊藤



 「特定の人の 特定の人による 特定の人のための政治」これは19世紀の米国で奴隷売買が行なわれていたころの選挙思想を表したものである。
 この時代のボス政治をフロンティア精神に燃える一人の民主政治家が一変させた。彼は、かねてから非人道的な行為に、唇をかんで、黙って時節到来をまっていた。彼リンカーンは、米国第16代大統領になって、奴隷解放を実践した。さらに数々の偉業をなしとげ、「人民の 人民による 人民のための政治は地上から消滅させてはならない」と公民政治を語りかけ、民主化のよりどころを国民に説いた。その彼が人民から射撃され非業の最後をとげた。
 くしくも84年後に彼が実践した憲法が、日本の新しい公民(国政に参加できる国民)憲法に取り入れられ公布された。
 日本政府は、公民精神の啓発、高揚のため教科書で彼の偉業を取り上げてきたが、いまもって有権者・選挙人の多くは「…特定の人のための政治」思想から脱出していないことが残念である。
 選挙人の個人層には「自分の 自分による 自分のための政治」を主張する者が多く、徒党層には「自分達の 自分達による 自分達の政治」を死守する戦意がいたずらに強く、公民精神など見当たらない現状だ。
 さらに20?30%台の低投票率を見せつけられると、民主主義そのものを棄権しているのかと疑わざるを得ない。
 これらの主因は、国民・有権者が選挙投票を「私人行為」と思い違いしている点にある。日本が民主国家になって半世紀余、少なくとも選挙の際には「公民精神」に徹し、平和へあゆみ寄ってもらいたいものだ。
 立派な公民憲法に人権尊重等と書かいてあっても、有書実行、すなわち国民一人ひとりが相手の人権を尊重し合い、そこに安堵の思い漂うものがなければ人権尊重国家とは言えない。
 国法をないがしろにする私人行為は未開文化である。投票を棄権するのもこれにあたる。  
 これを改善するには、法文を行動化する文化現象まで昇華させなければならいと考える。これこそ公民の使命であり、できないことではない。
 日本には優れた昇華術が既にある。日本民族固有の精神に見られる実生活上の知恵・才能の錬磨術のことである。
 これを大和魂と言う人もいるが、今も人間国宝、下町職人や国民の根性として多くの人々に引き継がれている。
 彼らから、「大和魂をもって政治と平和の仕組みを教えてやる」と、根性なしで投票を棄権する不届きもの達へ、渇をいれてもらいたいと願っているころだ。
 今のところ救は、知り合いにとうふ屋夫婦がいることだ。味に命をかけとうふ造りに励みながら、選挙の時は夫婦揃って近所を誘い毎回投票所へ向かう姿がいい。店に政党や集団のビラは見当たらない。どんな公民精神で誰に投票するのか全く聞いたことがない。本来の選挙投票の手本のような人たちだ。
 選挙人達はこのとうふ屋を見習ってもらいたいものだ。今はみんなの力で、凶悪事件、国際問題、自殺者、交通事故、不登校児童・生徒など広範な負の文化の浸食を阻止しなければならない時だ。さらに全国民の安全と安心を守るため、有権者みんなが選挙職人となり、公民憲法をしっかり実践へ導いて欲しいものだ。 
 棄権ばっかりしているだめ選挙人が、とうふ屋の豆選びに習い「立候補者の粒揃いが悪いから、善い政治家の選びようがない」などと吹聴する。
 利己心と虚栄心に満ちた選挙人のところへは、軽い頭を重々しく下げ、相手候補を口撃して内実を隠すなど、それなりの候補者が立つものだ。
 だめ選挙人たちに限って「あの候補者は当選したら一度も顔を見せない」などと嘆く。そこには相手の軽薄なしぐさに惑わされ、貴重な一票を値のない立候補者へ投じた自責の念も後悔もない傍観者の様子だ。
 選挙人よ、気づいてくれ自分の選挙と政治責任の密接な関係を。投票に立ち上がってくれ選挙人たちよ。公民の道をあゆみはじめてくれ選挙人たちよ。「善い政治はみんなの選挙・投票によって完成する」のだ。
 民主主義の先覚者リンカーンが141年前に残した夢を、いまこそ国民・選挙人の選挙投票力をもって「全国民のための政治」として実践してもらいたいものである。         

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