終らない戦争(隠匿された毒ガス兵器)   

― 相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 その1―


北 (プロデューサー) 



  
 「過去に目を閉じる者は現在に対しても盲目となる。非人間性を想い起こそうとしない者は、再び新たなる伝染の危険に感染しやすくなる…。」1985年西独ワイツゼッカー大統領
 戦後59年、過去を直視せず、侵略を隠ぺいし、一切の加害責任をとらず、今や憲法の理念をも踏みにじり、戦争翼賛体制を構築しつつある現状に、私達は永遠の不服従を突きつけるべきではないでしょうか。

 2002年9月神奈川県寒川町で毒ガス被害が出ました。寒川にあった旧海軍の秘密毒ガス工廠内の工事現場から「びらん性毒ガス・イペリット(マスタード)」と「催涙ガス・クロロアセトフェノン」の入ったビール瓶が発見されましたが、その際工事関係者11名が負傷しました。そのうち1名から染色体異常が見つかっています。その後「びらん性毒ガス・ルイサイト」の入った瓶も発見され総数は。671本(2004年3月17日現在)にのぼります。そして昨年3月茨城県神栖町で「毒ガスの嘔吐剤(くしゃみ剤)」による有機ヒ素化合物によって地下水が汚染され住民に重大な健康被害が出ました。水質検査によれば環境基準の450〜3,300倍の有機ヒ素化合物が検出され被害は拡大しています。更に4月神奈川県平塚市の工事現場から旧海軍の使った「硫酸ビン(煙幕として使用)」、土壌からマスタード(イペリットのこと)、くしゃみ剤の毒ガス成分、致死性の青酸(シアン化水素)も検出された。総数は474個(2004年1月30日まで)、現場は、相模海軍工廠平塚化学実験部の跡地、工事中に作業員が負傷し、今もって原因が明らかにされていません。更に8月には中国チチハル市で日本軍の遺棄した毒ガス(イペリット缶)で死者1名、負傷者40名以上という惨事が起っています。9月には福岡県苅田町苅田港周辺海域で毒ガス弾の可能性の高い爆弾538個が発見されています。(未回収)
 旧日本軍の作った毒ガス、戦時中は国際法違反の軍極秘の毒ガス工場、陸軍と海軍が共に研究、開発、実戦に使用、そして隠ぺいされてきた実態…日本の侵略戦争と共に使用され、戦後なお隠し続ける化学兵器の数々、歴代政府による遺棄毒ガス処理の抜本的な対策は無にひとしく、それによって被害は今日に至るまで続いています。
 海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠(寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?
 平塚にあった海軍技研は現在美術館、警察署、合同庁舎建設現場(ここから大量の毒ガス(主に青酸)瓶が出てきている)から北側高砂香料、不二家、パイロットにわたる一帯に研究、実験、製造工場等があり、毒ガス生産の規模拡大の為、寒川に大規模な毒ガス工場を作りました。海軍は毒ガスのことを特薬と名付け(陸軍は色で呼ぶ)、1号特薬(催涙)(緑)、2号特薬(クシャミ)(赤)、3号特薬甲(びらん)イペリット(黄1号)乙(びらん)、ルイサイト(黄2号)4号特薬(致死)青酸(茶)があり、他にホスゲン(青)、窒素イペリットガス等があり、細菌兵器として11号特薬もある。兵器として砲弾、爆弾(30kg、60kg)、手投弾、噴射、雨下散布等が作られ、他に風船爆弾発火剤用エチル亜鉛(ガラス瓶)数万個、サイダー瓶に詰められた青酸1万本、そして細菌兵器の数々、敗戦時、戦犯逃れの為、そのほとんどが遺棄、隠匿され、全国に及ぶ。
 平塚、寒川の毒ガス工場の跡地、関係先の徹底した調査と恒久的な安全対策、更に陸・海軍が行った秘密の化学戦の全容、毒ガス製造工場の実態を明らかにする義務と責任が国にはあるはずです。昨年12月平塚市長名で「恒久的な安全対策と管理窓口の明確化」を国に求めましたが回答はまだありません。

戻る