日常茶飯

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#55 
目次

師匠と弟子

 咄家の師匠が弟子に稽古をつけるとき、どう云う風にやるのか。 古今亭志ん橋(しんきょう)さんが前座だったころ、師匠の志ん朝に稽古をして貰うこととなった。

 <師匠は炬燵(こたつ)に入って、僕はその前に座って師匠の噺を聞いてた。 うちはテープに録(と)らせないから、何がなんだかさっぱり分からない。 噺を終わって師匠が、「分かったか?」って聞いたけど、
「分かりません」
 そうしたら師匠は、《しょうがねぇ奴だな…》って顔をしながら、
「書け、書けっ」
 すぐに紙と鉛筆を用意して、もう一度演ってもらった。
「えー、お笑いを一席申し上げます。昔のお古い川柳の題に…書いた?」
「書きました」
 こんな調子だから、なかなか進まない。そのうちに師匠も苛々してきて、
「遅いねぇ、お前は…」
 って言いながら、僕の書いているのを覗き込むと、
「何だ、お前っ。みんな仮名ばかりじゃねえか。バカだねえ、お前は」
「すいません」
 こっちは、必死になって書く。師匠は時々それを見ながら、
「そうそう、それでいい、それでいい」
 で、意味の分からないところはその都度一々聞いてね。 だけど、師匠も最初のうちは丁寧に教えてくれたんだけど、だんだん面倒くさくなってくるの。>

 志ん朝一門による『よってたかって古今亭志ん朝』(文藝春秋社)から引いた。 志ん朝は九人の弟子を取っている。最初の弟子は、咄家(はなしか)としての弟子ではなく、役者の弟子だったと云う。 父親の志ん生については多くの逸話が残っているが、志ん朝の方は少ない。 『よってたかって』は弟子の座談会の形式で展開する。 構成と文は岡本和昭さんで、これが上手い。 司会者として出てくるのでなく、マクラのような短い文章の後、弟子の会話となる。 『よってたかって』は縮めてよた話だと。
'06年06月30日

可口可楽

 世の中にはブランドそのものに値段が付いているのがある。 コカコーラはその典型。 原料はタダ同然で、ブランド自体が値段になっている。 だから原料成分は社外秘である。 そのコカコーラの本社は米ジョージア州のアトランタにあって、 アトランタの街の医療や教育機関はめざましい充実ぶりだと云う。 それを担っているのはコカコーラ社で、創業者などが創設した基金が毎年、寄付を続けるのだそうだ。 同社ではトップや役員が引退するとき、所有株の一部を基金に寄付する慣例があるのだと云う。

 ちかごろ株で儲けたのを自慢して、転んだ人が世間を騒がしていたと思ったら、儲けを隠してバレたと云うのが現れた。 日銀総裁は辞めろと云う。 なんだ只の嫉妬である。 見習えばいいのに浅はかだな。 「悪の帝国」と揶揄(やゆ)されるマクロソフトのビル・ゲイツは世界一の富豪で、 それでも生涯稼いだ資産の95%を慈善事業に使うと云っている。 悪辣のゲイツ君でも、世の中は嫉妬だと云うことを知っている。

 高島俊男さんの『漢字と日本人』(文春新書)に、「翻訳語 -- 日本と中国」と云う節があり、 西洋語を日本と中国で漢字(漢語)に翻訳した例を幾つかあげている。 「幾何学」「代数学」「函数」などは中国の訳で、「幾何」は geometry の geo の音訳。 音訳とは原語の音をうつした訳語で、その上意味もうまくうつしてあれば名訳と云われる。 日本人の作で有名なのは「倶楽部」(club)、「型録」(catalogue)など。 と云う様なことを書いて、高島さんはこう続けた。 <戦後中国の傑作はコカコーラの「可口可楽」>。 すると、ある読者が、戦前からありますよと、証拠写真付きで手紙が来たと云う話しが、 『お言葉ですが…⑦ 漢字語源の筋ちがい』(文春文庫)にある。 これには高島さん、あっさり降参して、中国語の本を引いてコカコーラの由来を語る。

 <コカはコカ(木の名)の葉からとった薬。 コーラはコーラ(これも木の名)のたねからとった薬。 アメリカではむかしからこれをまぜたものを頭痛薬としてもちいていた。 1886年の春のある日、ジョージア州アトランタ市の小さな薬屋に一人の少年が頭痛薬を買いに来た。 店員がそこつなやつで、まちがえて別の薬液にソーダと砂糖水を加えたものを少年にのましてやったら、 ふしぎや頭痛がケロリとなおった。これが評判になったので、聡明なる店主はそこつ店員のまちがい調合と同じものをこしらえて、 これを「コカコーラ」と称して売って大もうけした(ほんとはコカもコーラもはいっていないのに)。>

 この由来記、薬がどこで清涼飲料水に代わったところが不明なのは、一寸おもしろくない。 不思議なのは古い人がコカコーラが戦後のものと思い込んでいる。 小林信彦さんの『にっちもさっちも』(文春文庫)にもそんなことを書いている。 芥川龍之介が大正十四年に書いた手紙に<コカコオラ>と云う文字があると驚いている。
'06年06月28日

手拭い

 先日の新聞に、手拭(ぬぐ)いの人気がじわじわと高まっていると云う記事があった。 これに限らず、風呂敷や甚平などが売られているのを見かけるようになった。 単に流行なのか、古いものが見直されたと云うのか知らないが、 実は少し前から木綿の手拭いを使っている。 使ってわかったのは、これは汗を拭(ふ)くのに優れている。

 水をよく吸収するし乾くのもはやいのでハンカチよりもいい。 小さくたためてかさばらないからタオルよりもいい。 柄は紺青の縞で、拡げると両端は切りっ放しになっている。 手拭いとはそう云うものらしい。 その方が乾きやすく、清潔なのだそうだ。 洗濯するうちに徐々に色落ちして独特の風合いが出ると云う。

 遠藤ケイ『暮らしの和道具』(ちくま新書)は、イラスト入りで百種に及ぶ和道具を紹介している。 なかに「風呂敷、手拭い」と云う項目があり、 手拭いは室町時代から使われていたそうだ。 もともと神事や法要など儀式で身体を清浄にする祭具だった。 それが江戸時代になって木綿が出回ると、ひろく使われた。 只、用途は被(かぶ)り物だったと。 <古い時代の日本人は、たいてい何か被り物をして頭髪を包んでいた。 被り物というのは成人のしるしで、身分を表す礼儀でもあり、人前に出るのに何も被らないのは例を欠くことだった。> で、被り方も職業や目的で色々あった。 「姉さん被り」、「頬被り」、「ひょっとこ被り」、「若衆被り」と、さまざまだったと云う。

 さきの新聞記事で、手拭いを首に巻いたりバンダナのように頭に縛ると云う使い方を紹介していた。 遠藤さんも書いている。 <手拭いは、一種の変身道具である。 風呂敷と同じように、「包む」「被る」ことで浄化され、別の人格に変身できる呪術的な意味がある。 受験生の鉢巻なども、その名残かもしれない。> 成るほどなあ。
'06年06月25日

取り替え

 先週、スパイウェアを検出/除去するフリーソフトSpybot S&D が実行中に、OSがダウンして電源が落ちた。 ソフトのせいで画面が固まるのも困りものだが、いきなり電源が切れると云うのは変である。 色々試して矢っ張り駄目なので、ふと思いついて、セーフモードで起動して実行するとうまく行った。 何をどうあやまつのか知らないけれど、このソフトが悪いのである。

 セーフモードで実行するのも面倒だけど、まあちゃんと動けばいいと考えていたら、 今度はセーフモードで起動して実行してもダウンした。 だったら使ってやらないだけである。 かれこれ2年くらい有り難がって使っていたが、去年になって有料の製品版があらわれた。 どう違うのか知らないけれど、そのまま使っていたのだ。 最近ではパターンファイルを毎週アップデートするようになったので、少し見直した矢先のことである。

 代わりに別のソフトと取り替えた。 Lavasoft Ad-Aware SE Personal と云う無償版のソフトで他に有償版もあるようだ。 こちらは前に一度試したことがある。 そのときはSpybot S&D の方がよかったンだよね。 製品版を出して金に目が眩んだのかな。
'06年06月24日

お好み焼きでハイボール

 きょうは朝から除湿乾燥機を廻していた。 夕方帰ると部屋の湿度は50%を超えない程度。 随分と水が溜まっていた。 これはエアコンのドライ運転より効率がいい。 それにエアコンを点けッぱなしにしていると何だか身体の調子がおかしくなる。 湿度を低くしていれば、ジメジメすることはないから、少しは気温が高くても平気である。

 梅雨の雨とは関係ないが、先日、シングルモルト ウヰスキー余市の10年ものを貰った。 瓶の能書きにフルーティな香りがするとあるけれど、これは本当である。 勿論、果物の香りがするのではない。 只、そう云う表現がふさわしいのだ。 で、きのう寝酒の肴に冷蔵庫の中を探すと、冷凍のお好み焼きがある。 レンジでチンして食べると悪くない。 まあ旨いと云うほどではない程である。 量が少ないのは丁度いい。

 冷凍食品の量が少ないのはなぜだろう。 と思ったが、カップ麺の乾燥具材も少ない。 増量10%と大書しているが少ない。 冷凍のお好み焼きだってあの程度小さければ、まあ何とか食えるが、矢っ張り本物とは違う。 カップ麺でも具材をもう少し増やしてもよさそうなのにしないのは、 不味(まず)さが際立って仕舞うからなのか知ら。
'06年06月22日

スパムもラクじゃない

 このところ毎日たくさんのスパム(迷惑メール)が来ているようだけど、 すべてブロックされて私のところに届いて来ないのは、 一応はプロバイダーの「スパムブロック サービス」が機能していると云える。 スパムが来ると、プロバイダーが用意した条件でフィルターにかけられてブロックされる。 条件がゆるいとすり抜けて届くから、私が条件を加える。 それを何度か繰り返して、今では来なくなったのは、プロバイダーの手柄ではない筈である。 ブロックされたスパムは一週間保管されて、覗いてみることが出来る。

 一番多いのは、メールの宛先が私のアドレスになっていないもので、 それを判定条件に加えたのはよかった。 メールのヘッダで項目「To:」に、私のアドレスが含まれていないのを判定条件にしたのである。 それ以外の条件でブロックされたのもあるが、今のところ最も効いているようだ。 勿論、プロバイダーが手柄をあげたのもある。

 プロバイダーが設定するブロックの条件を「おまかせフィルター サービス」と云う。 おまかせしたくなければ、断ることは出来るが、すべて自分でやるのは骨が折れるから、おまかせしている。 まかせられた方も張り切っているのか知らないが、条件は厳しくなっているようだ。 ときどきスパムでないメールが捕まっている。 きのうはトレンドマイクロ社から来たメールが網にかかっていた。 メールの本文にある語、「ケーブル」がスパムと見なされたらしい。 分からない条件だが、取り敢えずそのメールを復旧した。

 こないだはパソコン メーカのメールがスパム扱いにされていた。 まあ、どっちも重要なものではないけれど、週に一度は覗きに行くのは面倒である。 願わくは、スパム扱いになったメールを復旧した事を察知して、条件をゆるめてくれると有り難い。
'06年06月19日

メルヘン誕生

 いそっぷ社から出ている高島俊男さんの本である。 さきほどから少し読んでいる。 副題は「向田邦子をさがして」と云うもの。 まだ読みかけの途中だけれど、ちょっと書いてみる。 向田邦子の『父の詫び状』は、最初のエッセイ集で代表作である。 前半昭和時代の家族と暮らしを見事に描いて右に出るものはない(と云われる)。 有名なのは山本夏彦の評。 <向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である。>

 『父の詫び状』の二十四篇は、宣伝誌『銀座百点』に連載されたものだと云うのは知っていたが、 高島さんの『メルヘン誕生』には、連載と単行本との違いを調べていておもしろい。 『銀座百点』の連載は、もともと食べ物の思い出と云うテーマで企画された。 食べ物の記憶となると、印象に残るのは子ども時代で、そうなると付随的に家族がでてくる。

 連載はたいへん評判がよい。 主役は食べ物で家族はおまけ。 どこがおもしろいかと云うと、読者の評判は家族の話にある。 特にあのお父さんがいい、と云うのである。 それで、主題は食べ物から家族にシフトした。 <筆者は書きやすくなった。> 高島さんの文章のおもしろさは、これを<読者のおみこしにのせられたかっこうで路線がさだまった>、 この云い方だろう。

 『銀座百点』連載と単行本『父の詫び状』のエッセイの配列順序が変わったと云うのも興味深い。 それぞれのタイトルも変わっている。 表題作「父の詫び状」は、もとは「冬の玄関」だったそうだ。 わかるが、あれは「父の詫び状」でないとおさまらない。
'06年06月18日



 人に自慢するようなものは余り持たないけれど、傘は少しは自慢できるかも知れない。 先端の突起から持ち手まで93cmの長さで、軽合金の骨だから実に軽い。 ボタンを押せば開くと云う仕掛けもないから、無駄がなく細身の一振りである。 同じ柄の布袋に収めると、遠くから見ればステッキに写るかも知れない。 実に細くて軽い傘である。 誰かに見せびらかそうと思うけど、本当は滅多に持ち出さない。 終日雨ならいいけれど、帰りに雨が上がるようだと何処かに置き忘れる恐れがある。 盗られた日には悔しいだろうから、由緒正しい本物の雨の日にしか使わないのである。

 梅雨が近づく週末に、その傘をふと取ると様子がおかしい。 見れば骨が一本折れている。 金属疲労するほど経ってはいない筈で、三年前だったか傘の分際にしては余りにも高いので、 三度迷って買ったのである。 たぶん、作ったときに粗悪な材料の骨が一本混ざっていたのかも知れない。 こう云う運の悪いこともある。

 で、修繕して貰おう。 靴の修理屋はよく見かけるが、傘の修理屋はどこにいるのだろう、と電話帳を繰ってみた。 タウンページには傘屋はあるが修理屋は載っていない。 近所の傘屋を二軒ばかりのぞいてみると、売るだけの店だった。 傘は使い捨てなのか知ら。 提灯も売っているとは知らなかった。 そこでネットで検索すると、あった。

 全国チェーンで、靴に傘、それからハンドバッグの修繕を請け負うらしい。 店を探すと、なあんだ、近所のスーパーの中にある。 云われてみれば思い当たる。 エレベータの入り口近くでスタンドを立てた出店のようなのがある。 出かけて行くと、「ちょっと拝見」と云い傘を広げて折れた部分を覗いて、 「ご免なさい。これは出来ません」。 何でも傘の骨は平らな溝があり、それに金具で固定して継ぐのだそうだ。 「断面が丸いでしょう。最近のブランドものに多いんですよ」。 と云われても困る。 「預からせて貰えれば、やってはみますが、請け負えません」。 いいよ、と云って置いて帰った。

 折れた骨をふたつの金具で継ぐそうで、ひとつが300円、料金600円。 出来なかったらお代は要らないと云う。 出来なくても金具を潰すことになるから、まあ良心的である。 それで翌朝の日曜日。 たいがいのスーパーは朝寝坊だけど、 そのスーパーの良いところは9時から開いている。 傘は出来ていた。 骨の継ぎ目は金具でしっかりと覆われている。 何だか名誉の負傷に似て傘に風格が備わったようである。
'06年06月17日

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