新選組の足跡を訪ねて〜其の四〜

土方歳三の丁稚奉公 「松坂屋いとう呉服店」跡  上野・松坂屋本館 東京都台東区上野3ー29

上野・松坂屋

アンモナイトの化石


ベレムナイトの化石

R御徒町駅の北口に降りて、春日通りを左に進むと上野・松坂屋がある。この通りに面した松坂屋の本館は、昔からあった「いとう呉服店」の跡地に建てられている。
坂屋は今からおよそ三九〇年前、慶長一六年(1611)の創業で、名古屋が発祥の地である。江戸に店を構えたのはおよそ二三〇年前の明和五年(1768)、元々あった松坂屋呉服店を譲りうけ、「松坂屋いとう呉服店」という名前になった。
化二年(1845)土方歳三が十一歳の時、この「松坂屋」へ丁稚奉公に出たが、ある時、番頭と衝突して喧嘩をしたあげく、そのまま店を飛び出してしまった。そして、なんと日野まで夜通し歩いて帰ってしまったという話が残っている。
気な性格の歳三は松坂屋の店員として一年も勤まらなかったらしい。
をもっと知りたいという好奇心から、受付け嬢に頼んで、企業研修用に刷られた松坂屋の歴史のコピーをもらう。すると、この建物には化石が含まれた立派な大理石が豊富に使われているらしい。ここで新選組探しはさておき、急遽、化石探しに時間を費やした(笑)
館1階エレベーター乗り場の壁には、中世代を代表する化石の王様の「アンモナイト」、同じく地下に降りる階段壁面には、イカに似た姿の軟体動物(類足類)の「ベレムナイト」があった。その後、本館1階の大階段に移動する。ここには「貨幣石」と「ナガレサンゴ」があった。
いテープで正方形に囲まれいるのでとても探しやすい。しかしながら、この場所は郷愁を誘うようなレトロティックな階段であった。
レベーターも歴史の重みを感じさせる作りになっている。これが大正ロマンというものか?いや昭和初期か?時代考証は定かではない(笑)と、ブツブツつぶやきながら写真を撮りつつ、屋上へと向かった。
館屋上には「護稲荷」(かくごいなり)という社があった。なんでも鶯谷駅近くの稲荷を分霊したものらしい。狐は火を防ぐ神としても知られ、二千戸の家屋が消失した大正14年の「日暮里の大火」でも社殿を含む一帯が無事であったという。

貨幣石

ナガレサンゴの化石

本館1階の大階段


レベーターの天井

レベーターのドア

「護稲荷」(かくごいなり)

【史跡探索データー】
JR山手線・京浜東北線 御徒町駅 徒歩二分

市ヶ谷・近藤勇の道場 「試衛館(しえいかん)」跡 新宿区市ヶ谷甲良町1ー12コスモ市ヶ谷付近

マンション左側面「試衛館」跡

マンション正面付近「試衛館」跡

洋館風の廃墟「試衛館」跡
上の稲荷を参拝した後、「試衛館」跡地へと向かう。この道場は近藤勇の道場で、小石川小日向柳町の坂の上にあった。
選組の結成前の事、天然理心流の近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが、この地で剣技を磨いていた。
の道場出身者達が、後に新選組の骨格を形成することになる。いうなれば隊士の発祥の地だ。
た他流派からは山南敬助(北心一刀流)、永倉新八(神道無念流)、藤堂平助(北心一刀流)、原田佐之助(種田宝蔵院流槍術)が食客(居候)として訪れていた。
坂屋の地下鉄連絡通路を通り大江戸線の上野御徒町駅に向かう。の線を利用するたびに毎回思うのだが、大江戸線は駅同士のアクセスが悪くとても不便だ。
だが電車に乗ると意外に近く、10分ほどで牛込柳町駅に着いた。
口から地上に出て、道を左、左と周り込む。坂を下ると、その先には市ヶ谷柳町の交差点があり、そこから先は登り坂になっている。
差点の対角にある牛めしの「松屋」側に渡り、ゆるやかな大久保通りの坂を登って行く。
の坂は、昔焼き餅を売っていた事から、焼餅坂(別名:赤根坂)というらしい。江戸切り絵図にもヤキモチ坂とのっている。歩くとすぐ柳町病院の看板が目に止まった。
指す場所は、病院の角の細い脇道を登って、すぐ目の前にあった。T地路とその向こうに見える道に挟まれた左側の一帯が、市ヶ谷甲良町1丁目である。
イル張りの壁でクリーム色のマンション「コスモ市ヶ谷」が目印である。
の付近一帯のどこかに試衛館があったこの土地は、大久保通りから少し奥まったところで、閑静な住宅街になっており、道ゆく人もまばらだった。
ンションの隣には、教会のような古びた洋館風の廃墟や瓦屋根の平屋が連なっていた。
しの間耳をすませば、平屋の奥から、剣術の稽古に打ち込む、若き剣士達の掛け声が、今にも聞えてきそうな気がした。余談だが、付近を探索していると、大久保通り沿いに「新鮮組」というコンビニを見つけ、思わずにんまりしてしまった(笑)
※「試衛館」は5枚の写真に囲まれた場所にあった。

洋館の右側面
「試衛館」跡

マンションの裏手「試衛館」跡

コンビニ「新鮮組」

【史跡探索データー】
地下鉄・大江戸線牛込柳町駅下車・徒歩五分

浪士組の結束と清川八郎の墓 小石川・「傅通院(でんずういん)内・処清院」跡 文京区小石川3ー14ー6

伝通院の本殿

伝通院内の釣り

清河八郎の墓
左が阿蓮(おれん)・右が斉藤家
び牛込柳町駅から大江戸線に乗り、春日駅で降りる。富坂下方面出口6番を出ると、そこは富坂下交差点になっている。
差点対角の清焼肉「後楽苑」側に渡り、春日通りを池袋方向へと進む。伝通院までは、長い登り坂になっている。
こは富坂と呼ばれている。そのいわれは、昔鳶(トビ)が沢山いたからとびが転じて富坂になったという(ただし、東西に坂がまたがって飛んでいるから、富坂という説もある)
の反対には中央大学理工学部の大きな校舎が見えた。そろそろ坂が終わり道が平らになり、さらに歩くと伝通院前の交差点にたどりつく。
 
そして右に折れると、その突き当りが「伝通院」になっている。
久三年(一八六三)二月八日早朝、庄内藩(山形県)豪士・清河八郎が中心となり結成された新選組の前身「浪士組」は、小石川の伝通院(処清院)に結集して、京都に向けて旅立った。
の数二百三十余人という。隊は一番から七番まで七組分けられ、さらに一組が十人単位で三組みに分けられた。
の後の京都で、幕府を倒し尊王攘夷の実行を目指すの清河の策謀により、浪士組は芹沢、近藤、土方らを京都に残し分裂する。
川自身は江戸に戻ったところで、後に坂
龍馬を切ることになる幕府の密使、佐々木唯三郎らにより暗殺される。それは同年四月十三日の出来事で、場所は麻布一の橋付近と伝えられている。
河の首は同士の石坂宗順によって鉄舟宅へ運ばれた。寺の裏手には、当初、幕府側からの浪士組の取締役となった山岡鉄太郎(鉄周)の私邸があったという。
して山岡は、当時「伝通院」の子院だった「処静院(しょせいいん)」の住職が頼み「伝通院」の墓地に埋葬したと伝えられている。
方、清河の胴体は、麻布宮村町正念寺に無縁仏として埋葬されたが、明治二十年に廃寺となり、行方不明となった。

お大の方の墓

千姫の墓

佐藤春夫の墓
内にはいってすぐ目につくのが本堂左の大きな釣り鐘。さらに左には、宗教情報リサーチセンターという大きな建物がある。こと墓石の間を通り抜け、枯れた二本の木をめざしまっすぐすすむ。
は奥の方の銀杏の木の下にあるという。突き当りに墓があるので、右、左、右とコの字に迂回して周り込むと、そこに清河八郎の墓があった。
の左隣には、妾の阿連(おれん)の墓がある。おれんは清河と同郷の出羽の国(山形県)出身で熊井村の医者の娘だったが、鶴岡の娼家にいたのを清河が身請けし妾にした女性だ。
に町人を切った清河をかばい拷問に耐えた後、文久二年八月七日。江戸の荘内藩(山形県)獄中で病死したという。
の墓は清河の縁者の墓である斉藤家の墓である。墓所入口には山形県の清河にある斉藤家が清川の没後(二十年後)に改葬したという内容が記されていた。
談だが、詩人で作家の佐藤春夫の墓が、清河の墓所の隣にあった。
り道の事、本堂まで歩いてきたところで、旅行風の老人に清河八郎の墓の場所を尋ねられた。そこで墓まで引き返し、その由来と各々の墓の説明をとうとうと語ってしまった(笑)
の寺の開基は、徳川家康の生母お大の方である。また二代秀忠の長女千姫の墓もある。墓所の管理人の話しでは、その他にも多くの著名人の墓が、ここにはたくさんあるという。
ころで、浪士が集合した「処静院」の正確な場所は今もってわからない。寺の話しでは、寺を背にして左手の方角。淑徳学園の隣の慈眼院・沢蔵司稲荷付近あたりに当時「処静院」という寺があったらしい。
なみに、淑徳学園の前身である「淑徳女学校」は、伝通寺によって立てられている。きっと稲荷から学園までの広い敷地のあいだで稲荷よりに「処清院」があったの

慈眼院・沢蔵司稲荷

改葬を記す墓標

清河八郎の墓

だろう。
帰り道、春日通り富坂上の「萬盛庵」であさり丼を食べた。とても美味であった。今回の小旅行も大満足の一日であった(笑)

ところでいくつかの疑問が残った!

疑問−
その1
新選組みのバイブル。子母澤寛著「新撰組始末記」を読むと、清河八郎の戒名は「清秀院殿忠正明居士」とあるのだが、実際の墓を見ると「浄山正恩信士」とあった。命日は文久三葵亥年四月十三日と読める。途中で戒名が変わったのだろうか?

疑問−その2

隣の負女阿蓮(おれん)墓、清河正明妾とあったが没年月日は無かった。だが新選組始末記」には文久二年八月七日とある。子母澤は何処で情報を入手したのだろう?

疑問−
その3

同様に本には明治二年、更に郷里荘内清川村に改葬したとあるが、墓の入り口の墓碑には、贈正四位清川八郎正明墓、没後二十年忌辰改葬、山形県清河斎藤家建之とあり、没後二十年の前にも一度改葬が行われたのだろうか?
研究者の間で、この本は子母澤の創作や史実の誤りが多いと言われているので、頭から信用はできない。だが貴重な話しも存在しており、全てが誤りともいえないので困ったものだ(汗)

【史跡探索データー】
「処静清院」跡 「慈眼院・沢蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうす)」裏手 小石川3ー17ー12